『紫苑の書』
"lei e xion"
seren arbazard fiina ridia
3
十代の少年少女が異世界に召喚されて救世主となる。
よくあるファンタジー小説の展開だ。
不思議なことに、その世界では日本語が通じたり、翻訳魔法ですぐに相手の言葉が分かったりする。
本当に異世界があるのだとしたら、こちらの常識が通じない独特の文化や、聞いたこともない土着の言語に溢れていることだろう。
確かに本物の異世界はそうなっているのかもしれない。だけどそんな世界を描いた物語はただ七面倒なだけだ。
だから私は断言しよう。
「そんな小説はこの世に存在しない」――と。
これはとある面倒くさい世界に迷い込んでしまった女の子の日記。
異世界に行って言葉を学び、最後は国まで救ってしまった私の話。
信じられない?
そりゃそうよね。今あなたが読んでいるのは私の日記の最後のページなんだから。
前に戻って読んでみれば、きっとあなたも——。
4
"teo! te luna non!"
その女の子は不可解な言葉で悲鳴を上げた。耳をつんざくような声が薄暗い部屋に響く。
声を上げたのは亜麻色の髪の小柄な子。年は私と同じくらいだろうか。16, 7に見える。
彼女は可愛い顔を歪ませて、男らしき人物と私を交互に見る。どうして「男らしき」なのかというと、これが覆面にナイフというベタな変装をしているからだ。それでも体格から男だと分かる。
困ったことに、この場の誰ひとりとして状況を把握していなかった。
記憶が確かなら、私はほんの数秒前まで自宅にいたはずだ。だがここは私の家ではない。いつの間にかこの薄暗い部屋に来ていたのだ。
学校から帰って自分の部屋に行ったところまでは確実に覚えている。しかしどういうわけか突然意識が朦朧として、気が付いたら彼女が悲鳴を上げていたのだ。私はというと、まだ制服のままだ。
向こうからしてみれば私が突如現れたわけだから、戸惑うのも無理はない。でもそれはこっちも同じこと。
男は女の子にナイフを突き付けている。そしてその子は床にへたり込んで怯えている。この状況を見るに、剣道と合気道の有段者としてやるべきことはひとつだ。
「ちょっと、あなた! その子から離れなさい!」
勇気を振り絞って声を上げる。振り絞ったわりには声がうわずる。なんという乏しい勇気。無い袖は絞れぬとはよく言ったものだ。いや違った、無い袖は振れぬだ。洗濯してどうするよ。
意外にも男は私の声に一瞬驚いたような顔をした。こんなヘタレ声に驚いてくれてありがとうと言いたい。
不思議なことに少女もビクッとすると、2人は一瞬互いを見る。
あれ、なぜそこで見つめ合うのだ、君たちは?
なんだか私と彼らの間でラインが引かれている気がする。これじゃまるで私のほうが変質者みたいじゃないの。光の中から出てくるのってナイフを持った男よりアウトなのだろうか。
"aca baz et ne a! den dil dai!" 5
男は何か訳の分からない罵声を浴びせてきた。それは明らかに日本語ではなかった。よく分からないが歓迎はされていない。私の心臓が高鳴る。いくら剣道と合気道の段位を持っていたって刃物は怖い。
こちらを敵と認識した男は女の子から目を離し、ナイフを向けてきた。私は負けじと合気道の構えを取り、男を睨みつける。
ふむ、素人ね。持ち方がおかしい。構えもなっていない。ナイフの心得はないようね。まぁ、こっちも素人だけど。
素人がナイフを持つと必ずその武器に頼ろうとする。ナイフが強力だという先入観と、これを奪われたら危ないという恐怖感で手放せなくなる。まず間違いなくこの男はナイフを投げたりはしない。
――などと一見頭で冷静に分析しているようだが、実はかなり余裕がない。合気道などで鍛えているといってもこれは演舞 ではない。まして相手はナイフを持っている。しかし、この場で怯むと相手になめられてしまう。
それにしても、どうして見も知らぬところでいきなり覆面の男と戦わねばならないのか。何かあったときのための護身術というが、これがその「何か」ということらしい。なるほど、勉強になります。
「明日辺り警察から表彰状とかもらっちゃったりしてね」
地元の地方紙に載っちゃったりするのかな。お手柄高校生とかいって。よし、こいつ倒して美容院いこう。
「帰んなさいよ!」
ちょっと大げさに構えを取ると、男は警戒して固まった。
お、案外ビビっとるね。「アイヤー!」とか言ってみようかな。
武術ができることをアピールして相手が引いてくれればそれが一番だ。もしかしたらこのまま帰ってくれたりして。
――などという期待もむなしく、男はナイフを手に突進してきた。目が明らかに刺す気満々だ。これはいけない。
「はっ!」
私はとっさに回転した。自分が回っていると切り傷はできても刺さることはないからだ。6 そのまま入り身転換して小手返しに持っていく。合気道の技だ。
左手で相手の右手の付け根を掴み、そこを支点にくるっと一回転して投げ飛ばす。相手が不用意に突進してきたときのほうが成功しやすい。
こちらを女と侮った男は乾いた音を立てて床に叩きつけられ、うめき声を上げた。
男はそのまま転がると、所狭しと並べられた品々に当たって大きな音を立てた。ボーリングでいうと10本くらいピンが吹っ飛んでいったような爽快感。通称ストライク。
私はぶんと首を振った。髪が舞って邪魔だ。稽古のときはいつも結っている。少しでも大きな動きをするとこの長い髪が邪魔になる。まして髪を取られると厄介だ。男が倒れている間にとっさに辺りを見回した。
しめた、ゴムがある。
左手の棚にガラクタがたくさんあり、その横に髪ゴムがあった。玉飾りが2つ付 いている。「うわ、何この少女趣味!」とツッコむ間もなく手早く髪を結った。
男は立ち上がると、ふたたびナイフを構える。何か罵倒してくるが、覆面のせいか聞き取れない。
こちらが強いと見て男は警戒を強めた。私はチラチラと辺りを伺う。他に何か使えそうなものはないか。
あった ...... 棒だ。
すぐ横に銀色の棒が立ててある。先っぽに装飾がついているが、棒には違いない。棒を手に取ると、即座に剣道の構えに変えた。金属製なので重くて振りづらいが、ともあれこれで形勢は逆転だ。
男は間合いを取らない。やはり素人だ。剣の間合いの恐ろしさを知らないと見える。先ほどから一歩も動いていないにもかかわらず、今ではすっかり間合いの中だ。それに気付かない以上、間違いなく素人だ。
私は地面を蹴ると、勢いよく「ッテー!」と叫んだ。小手のことだ。放った小手は見事男の右手を打った。素人は絶対といっていいほど有段者の小手を避けられない。小手は素人が一番意識しない場所で、まず間違いなく死角となる。
男は小手を打たれてナイフを取り落とした。その刹那、小手の発声と被るように、「メンー!」と叫んだ。私は面を打つときには「めーん」ではなく、「メンー」のように叫ぶ。 7
小手から面というのはオーソドックスな攻撃だが、未経験者はまず避けられない。小手に意識がいった瞬間に額を打たれている。まるで手品だ。
今放ったのは刺し面で、相手の額を刺し舐めるような打ち方だ。パシーンと上から打ち下ろす兜割りはなかなか入らない。それよりはこのような滑らせるような打ち方が有効だ。打ち付けるわけではないから攻撃力は低いが、敵の戦意を挫くことはできるだろう。
男は 面を打たれると情けない声を上げて頭を押さえた。そして何か捨て台詞らしきものを吐くと、勢いよく逃げ出した。突進より逃げる速度のほうが速いとは驚きである。
「はぁ、よかった...... 」
深追いはしない。退治できただけで良しとする。
胸をなで下ろすと、棒を元の場所に立てかけておく。
一方、床にへたり込んだ女の子は固まったままこちらを見てくる。子猫のようにくりくりした眼だ。
「もう大丈夫。私は初月紫苑よ。は・づ・き・し・お・ん。あなたは?」
私はできるだけ柔和な笑みを浮かべたが、慣れない笑顔は我ながら不気味なだけであった。
"tyu et... ne?"
対照的に彼女は不安げな表情を見せて立ち上がる。やはり日本語が通じないようだ。
「何もしないよ。怖がらないで」
近付くと彼女はさらに固くなる。だが逃げようとはしない。助けてもらったことは理解しているらしい。近付くと彼女の容貌が明らかになった。
案の定日本人ではなかった。肩までの長さの髪に茶色の瞳をしていた。背は私より小さい。見たところ白人だがそこまで彫りの深い顔ではなく、幼い感じがする。黄色人種の血が混ざっているようだ。全体的に小柄というか、体つきが子供っぽい。
もしかして私より年下なのかもしれない。あるいは単に童顔なだけという可能性もある。
どうりで日本語が通じないわけだ。そういえば今の男も何やら訳の分からない言葉を発していた。
実は私は外国語に明るい。こういうときこそ語学女の本領発揮だ。
"Ah... are you OK? I thought you were being attacked by that guy."
しかし彼女は首を傾げるばかり。英語が通じないようだ。ただ、分からないときは首を8 傾げる文化圏だとは分かった。
"Je m'appelle Chion. Comment vous appelez-vous?"
フランス語にも反応せず。ところで怪我はないだろうか。心配するように彼女の体を見る。
"Sind Sie nicht schwer verletzt?"
体を見られた彼女は眉をひそめ、怪訝そうな顔で見てくる。ドイツ語もダメ。ただ、見たところ怪我はしていないようだ。
「我叫紫苑」
"lala, tyu rensor to?"
中国語もアウト。言葉は返してくれたものの、まったく通じている気配がない。彼女の発する単語には中国語にあるような急激な音の上がり下がり、いわゆる声調が感じられない。今初めて彼女の言葉が聞き取れたが、少なくとも私の知っている言語ではない。
どうしよう...... 。ここは一体どこなの?
辺りを見回す。どうも家屋の中の倉庫という感じだ。物が散らかっていて、埃の匂いがする。
"lein!"
彼女は自分の胸に手を当てて何か言った。
「えっ?」
"lein! lein!"
それはleinに聞こえた。カタカナにすればレイン。察するに彼女の名前だろうか。このタイミングで「実はところてんのこと でしたー」という嫌がらせはあるまい。
「レ」はrでなくlの音だった。英語だったらlainとでも書くのか。しかしそんな過去分詞なんかが名前になるわけがない。rainの聞き間違いか? いや、彼女に英語は通じなかった。
"lein, non et lein e!"
胸に手を当てながら「レイン」と繰り返している。これが自分を表すボディランゲージなのだろう。日本人なら鼻の前に人差し指を持っていくところだ。
今のはさしずめ「レイン、私はレインよ!」といったところか。いや待てよ。彼女の場合、「胸が、胸がないんです!」でも意味は通るな...... 。 9
だが可能性が激低なので、とりあえず名前ということにしておこう。まぁ彼女がどこの人かは分からないが、人間のコミュニケーションにおいてボディランゲージが物を言うのは確かだ。郷に入っては郷に従え。
レインと同じように私は 胸に手を当て、「紫苑」と言った。すると先方は一瞬驚いた顔をして、"xion?? sol tyu et ansiel xion?"と言った。とにかく2回反復したのは聞き取れた。
私は持ち前の耳で相手の発音を正確に聞き取り、即座に言語学で使うIPAという音声記号に置き換えた。
日本語と違ってシの音は鋭く、シュに近いようだ。また、ンの音は舌を歯茎に付けない日本語の[N]ではなく、舌を歯茎に付ける英語などの[n]のようだ。
言語学的な分析を済ませると、今度はその発音で「シオン」と言ってみた。すると彼女は目を丸くした。
"hh...! mi...mipentant mil meid at xille. xom halka arik injin malia,? lua xion!"
えっ、えっ? 早すぎて何が何だか分からない。
「ちょ、ちょっと待って。私は貴方の言葉、喋れないの。分かるでしょ?」
"ep... es halka rens xe eld le te arka, lua?"
何か問いかけているようだ。態度で分かる。文末のイントネーションが上がっている。どうやらこの言語は疑問のときに文末を上げるようだ。
とはいえ、質問の内容は分からない。先ほどからやたら紫苑という名前を呼ばれているのは分かるのだが。
"mm... xiel, halka keles arka anmian,? mil xat fia alt"
「えーと、そんなにまくし立てられてもなぁ...... 。とにかく無事で良かったじゃないの」
私たちは互いに首を傾げる。この仕草が共通していて良かった。意味合いが細かいところで違っているかもしれないが。
"diin, meid sent halka mil halka mist alkat meid ansiina"
彼女は緊張した面持ちで微笑む。どことなく怯えている感じもするが、好意を抱いてくれていることは確からしい。こちらもにこりと微笑む。人間の笑顔というものは凄い。言語や文化を越えるものがある。 10
"mileev, myun yuus meid lad etek fiina halka"
「え、何?」
レインは私を倉庫の外へ連れ出す。ここは素直に従おう。
出たところに階段があった。上り階段だ。どうもここは地下倉庫だったらしい。
階段を上ると1階に出た。窓の向こうに庭が見えるので地上だと分かる。
そのまま居間らしきところに連れていかれた。居間にはテーブルがある。
レインは椅子を指すと、"myun mist fians minan"と言う。座れということかなと思い、席についた。するとレインは台所らしきところへ引っ込んでいった。
ため息をつき、居間を見回す。どうやらビルなどではなく民家のようだ。家の材質は木で、広くて綺麗だ。西洋化された日本家屋と大差ない。
レイン の見た目から察するに、ここは西洋のどこかだろうか。西洋には知らない言語がたくさんある。ふつうに考えればそこのどこかだろう。
しかし、解せないことがある。私はいったい何でこんなところに?
――そうだ、あの金髪の男! あの男の目を見た瞬間、意識が飛んで...... 。それで、気付いたらここにいた。
思い出 した。ここに来る直前、私は自分の部屋で金髪の男に会っている。見知らぬ男だ。いつの間にか家に侵入していた。恐らく彼が私をここに連れてきたのだろう。だが彼の姿はここにない。
さっきの覆面の男と同一人物という可能性はないだろうか。いや、それはないな。金髪のほうは長髪だったから。
それにしてもどうしてレインは襲われていたんだろう。あの覆面の狙いも気になる。
気になると言えば彼らの言語もだ。いったい何語なのだろう。
あぁ、謎が多すぎて頭がこんがらがる。「こんがらがる」って言いにくい。こんがらがっているときにこんがらがるって単語を使わせる日本語はどうかしている。頭の中が「こんがら」でいっぱいだ。今「すみません」と話しかけられたら「こんがら?」と返してしまいそうだ。
――なんてことを考えている場合じゃない。話を整理しなくちゃ。
椅子に深く腰掛け、天井を見上げる。目を瞑ってこれまでの経緯を思い出す。 11
「そう、まずアレだ。仮面イイ子ちゃんにふさわしく、今日もマジメに学校に行って...... 」
灰色の無機質な鐘の音から2分遅れて化学室に入った私は、自分が教室を間違えたことに気付くまでの4秒間、呆けたように立ち尽くしていた。
見慣れぬ教師の怪訝そうな顔を見て異変に気付くと、私は長い黒髪を揺らしながら言葉もなくお辞儀して部屋を出た。
さて、どういうことだろう。
首を傾げ、ひんやりした廊下を歩きだす。
世界が私の知らぬ間にすりかえられてしまっていないかぎり、次の時間は化学のはずだ。11月の肌寒い校内を歩いてわざわざ教室からやってきたというのに、そこにいたのは別のクラスの生徒だった。
小脇に抱えるのは教科書にノート。それと、滅多に使わないカラーの資料集とたくさんのプリント。これらを抱えてまた教室に戻れというのか。まさに徒労というにふさわしい。腕が地面に引っ張られる思いだ。
私はメトロノームのようなつまらないリズムで足音を立てながら歩いた。
ふたつ隣の教室を通り過ぎたところでドアがガラっと開き、中年男性のやや高い声に呼び止められた。
「初月さん」
振り向くと、やや小柄で眼鏡をかけた細身の教師が立っていた。物理の池上先生だ。
「どうしたの? もう授業始まってるよ」
「え ...... ?」
動揺した顔で唇に手を置く。すると彼は私の手元に目をやる。
「化学の国広先生から聞いてない? この時間、物理と交換になったって」
なるほど、そういうことか。
私は黙って首を振る。
「まぁいいや、入って。今日はプリントだから、ノートと筆記用具があればいいよ」
「はい ...... 」 12
中に入ると、視線が集まる。つい1分前にも味わったものだ。なんら変わりない。どのみちクラスメートの顔をほとんど覚えていないからだ。だからこそ、さっきも知らない教師の顔を見るまで異変に気付かなかったのだ。
男子の興味なさそうな顔と女子のくすくす笑いを受けながら静かに席に着いた。すると何事もなかったかのように授業が再開した。
一瞬、なぜ自分だけが授業変更を知らなかったのだろうと考えた。恐らく先程の休み時間に先生が来て変更を伝えたのだろう。私はそのとき教室にいなかったが、ほかにも教室にいなかった生徒はいたはずだ。ならばなぜ。
答えは簡単。
茶色い革のペン入れからシャーペンをすっと取り出す。
――それは、誰も教えてくれる人がいないから。
クラス委員の鈴木君もきっと誰かが私に伝えると思って管理を怠ったのだろう。なぁに、いつものことじゃないか。
授業後は教室へ戻ってHRだ。担任の影山先生が来て期末試験について話した。
そういえばそろそろ期末のシーズンか。もう12月になるもんな。
HRが終わると部活の時間だが、帰宅部の私はやることがない。周りがどんどん教室から出て行く。私も早々と教室を出た。
つまらない1日がまた終わる。
友達もいないし、受験にも興味がない。私はなんのために学校に来ているのだろう。
廊下の窓から落ちかけた陽光が差し込む。不思議と人を鬱にさせる光だ。
こんな場所にはいたくないという思いがふっと頭をよぎる。もっと私にふさわしい世界があるはずだ。メンタルなホスピタル以外で。
私は 頭の中でぐるぐる考えた。
どうして小説の中では当たり前に起こっていることが私の人生には起こらないのだろう。
どうしてこの世界には神も悪魔も魔法もないのだろう。
どうして誰も異世界から私を迎えに来てくれないのだろう。
この世界はおかしい...... 。 13
とぼとぼ歩いていると、男子の声に呼び止められた。ゆっくり振り向くと、そこには同じクラスとおぼしき長身の少年が立っていた。
整髪料で綺麗にセットした読者モデルみたいなヘアに痩せマッチョな体格。すっとした顔で明るそうな人。
松本君、だったかな。何度か見たことある。そういえばクラスの女子がよく噂している。イケメンで人気があるんだそうだ。
「初月 ...... さん」
呼び捨てを一瞬ためらうところが進学校の生徒だなぁと思いつつ頷く。
「あの、ちょっと話があるんだけど、いいかな」
「あ、はい」
ずっと黙っていたので思わず低い無愛想な声が出てしまい、慌てて喉を鳴らす。彼は人のいなくなった教室に目をやると、私を中へ誘導した。
はじめは世間話だった。といっても向こうが一方的に話すだけだが。内容は部活のこととか。バスケ部だそうだ。
愛想良く返していると、彼はだんだん言いにくそうな雰囲気になってきた。
「その ...... 初月ってさ」
いつのまにか呼び捨て。
「わりと一人でいること多いじゃん?」
「友達いませんから」
サクっと切り返されて戸惑う松本君。
「いや、その...... 。それで、今誰か付き合ってるやつとか...... 」
私はゆっくり首を振る。
「いませんけど」
「あ、そうなんだ。いや、俺も今いないんだよね」
なるほど、そういうことか。
私は心中で頭を抱えた。彼は明らかに過大評価している。誤解といってもいい。普段の私の脳内 ボイスを聞かせたらさぞやドン引きすることだろう。
どうしよう。困ったな。 14
「もしよかったら...... その」
「――でも、お話したのは今が初めてですよね」
やんわりと断る私に、彼は気まずそうな笑みを浮かべる。
「そうだけど、俺のほうはずっと初月を見てたんだよね......1年のときから」
ふぅと鼻で静かにため息をつく私。
「私の何が良かったんでしょう」
「その ...... 落ち着いたところとか。あと、見た目も可愛いし」
私は「そうですか」と言って席に着いた。
「初月ってさ、何が趣味なの?」
椅子を引っ張って彼も席に着く。
「そうですね。読書でしょうか」
「いいじゃん。何読むの?」
「文学とかですかね。...... あとたまにファンタジー小説も」
嘘です、主に後者です。私の主成分です。水より比率が大きいんです。――とは言えず。
「文学かぁ。理系なのに凄いじゃん。でも意外だな。初月って勉強ばっかしてるのかと思ってた。ほら、いつもテストで一位だし」
「いえ ...... 」
「顔も芸能人みたいだし、その上勉強もできるなんて凄いよな」
「そんなことないです」
でも、褒められて少し嬉しい。ちょっと緊張がほぐれてきた。彼は見た目も良いし振舞いも明るいし、女子が噂するのも分かる気がする。
私は調子に乗って少しだけ――ほんの少しだけ自分を見せてもいいかなと思った。
「それに私、本当はファンタジー小説じゃなくてファンタジーそのものが好きなんです」
「え、どういう意味?」
「つまり異世界が本当にあって、行けたらいいなと思ってるんです」
「異世界って、指輪物語みたいな?」
「えぇ。互いに言語も通じないような異世界です。それでファンタジーが好きなんです」
私にしてはけっこう勇気を出したつもりだった。ふだん人にはこんな話をしないから。 15
しかし彼は冗談だと思ったのか、「それウケる!」と言って笑った――声を立てて。
「え ...... 」
予想外の反応に戸惑う私。こちらの真面目な顔が見えなかったのだろうか。彼は無邪気な顔で笑う。無邪気な笑いがいかに人を傷つけるかを知らない子供のように。
「てっきり初月って冗談言わない系かと思ってたよ」
「あ ...... 」
少しも冗談なんかではない。異世界旅行は私にとって長年の夢だ。それなのに...... 。
私は急激に悲しくなると、俯いてしまった。普段頭の中では飄々としているくせに、いざ人と話すと引っ込み思案で傷つきやすい。こんな自分が嫌いだ。なのに必死になって守ろうとするのは滑稽だ。
「やっぱり...... 笑うんですね」
ほら、また意気地なしの私が守りに入ってしまう。
「え、何が?」
しかし私は何も答えず、憮然とした表情で立ち上がる。
「えっ ...... あ、いやいや、ちがうって! 別に初月を笑ったんじゃないよ。今の異世界ってのが面白いから笑っただけだって」
とはいえ、この男の鈍感さにも脱帽だ。
「もういいです」
椅子を片付けようとすると、彼は私の手を掴んできた。男の人に触られたことなどないので、急に赤くなって手が震える。
「ちょ、待ってって」
「...... 冗談なんかじゃありません」
「え?」
彼の手を解くと、私はかばんを手に取る。
「私のことテストで一位って言ってましたよね。あれだって同じなんです」
「同じって、何が」
「私が勉強している理由です」
「勉強する理由って...... そりゃ東大とか行きたいからだろ?」
私は小さくため息をついた。 16
――この人は、ちがう。
そして口を開く。
「もしも別の世界にいる魔法使いが、この世界に嫌気のさした私に気付いてくれたとき、新しい世界でも不自由なくやっていけるように、ですよ」
「ごめん、言ってる意味がよく...... 」
私は悲しそうにくすっと笑った。
「こんなだから、友達がいないんです」
そう言い残すと、私はドアをくぐった。
「初月」
後ろから声が追いかけてくる。
「俺、まだ返事聞いてないんだけど」
ひとつ分かったことがある。彼は相当なマゾの使い手だ。この状況で拒絶以外の何を期待しているのだろう。
「はぁ ...... 」
聞こえないように溜息をつく。少しでも期待した私が馬鹿だった。はじめからこう答えていれば良かったのだ。
「いくら人の顔を覚えるのが苦手な私でも、たまには覚えているものです」
「え?」
「つい先日まで2-Bの窪園さんと付き合っていた男性が一年前から私のことを好きだったなどという嘘をつかなければ、違った結果が得られていたかもしれませんね」
静かになった後方を振り返ることなく、私はその場を去った。
下駄箱でこげ茶色のローファーに履き替えると、昇降口を出てまっすぐ歩く。左右に点在するスクールバスを素通りし、正門のアーチに向かって下を向いて歩く。いつもはバスに乗るが、今日は歩くことにした。
生徒のほとんどはバス通学なので、正門を出て左に折れた瞬間、ほとんど人がいなくなる。
5分も歩かないうちに私は地面にしゃがみこんだ。スカートが汚れないように手で押さえ、膝に乗せたかばんに額を押し当てた。 17
「もう ...... 」
喉がぎゅっとなる。
「もーっ」
なんだか頭の中が暑くてもやもやしてきた。
「なに やってんだろ、私」
誰もいない道なのに、それでも周りに聞こえない声で呟く。
「こんなんじゃ...... だめだよ」
ごんごんと頭をかばんにぶつける。
「なんでだろう...... 。なんでいつも...... こうなっちゃうんだろう」
ふてくされた顔で立ち上がると、私はゆっくり首を振った。
「...... こんなことしてる場合じゃない。『準備』しなくちゃ」
私にとって「準備」とは勉強を意味する暗号だ。それはある日突然魔法の国から使者がやってきたとき、すぐに活躍できるようにしておくことを意味する。
子供のころからずっと不思議だった。どうして私はこの世界になじめないのだろうと。友達もいないし、誰かと出会ってもすぐに人が去っていく。人間関係はもって1年だ。
原因に心当たりがない。周りと同じように人並みに気を使っているつもりだ。なのにどうして私だけ疎外されるのだろう。
そしてあるとき気付いた。私はきっとこの世界の人間ではないのだと。私が間違っているのではなく、この世界が間違っているのだと。少なくとも私はこの世界にいるべき人間ではないのだ。
そして思った。いつかきっと誰かが私を正しい世界に導いてくれると。
それは魔法の世界かもしれない。それは剣の世界かもしれない。それは現代社会となんら変わらない世界かもしれない。でもそこがきっと私のいるべき世界なのだ。
ではこの間違った世界で私がすべきことは何か。それは準備だ。私を異世界に召喚するからには、きっとその世界の人たちは私を救世主として必要としているに違いない。
だから彼らをがっかりさせることがないよう、私はありとあらゆる知識を身に付け ようと思ったのだ。
駅に向かって歩いていく。人通りの少ない小道だ。たまにこの周辺に住んでいるウチの18 生徒が横を自転車で通り過ぎるだけで、車の往来も少ない。
身に付けようと思ったのは知識だけではない。異世界でサバイバルしたり戦ったりするには武術も必要だ。それで剣道や合気道を習って段位も取った。163cmで45kgという細身の体だが、柔軟でしなやかな筋肉のおかげで見た目よりはずっと強い。
知識と武術のほかに重視したのは健康だ。なるべく無添加のものを食べるし、甘いものは食べない。異世界に歯医者があるとは限らないので、虫歯になるわけにはいかないからだ。
乳酸菌もしっかり摂っている。向こうが不衛生な場所かもしれないので、腸内環境を整えて免疫を強化しておかなければならないからだ。
ときに、私の考えでは異世界は地球によく似ているはずだ。私が召喚されて現地で生存できる以上、環境が地球とほぼ同じでなければならないからだ。
例えば陸と海の比率が逆転しただけで、地球はヒトの住める気温ではなくなってしまう。となると大陸の大きさは大差ないはずだ。地球も最初はパンゲアというひとつの大きな大陸があった。これと同じくらいの大陸が向こうにもあるはずだ。
大陸の割れ方は多少異なっているだろうが、それだってプレートなどの関係からある程度割れ方が決まってくる。恣意的に世界は作られない。
そう考えていくときっと異世界の世界地図も気候も、従って動物や植生に至るまで――そこが私の生存できる空間なら――だいぶ地球と似通っているはずだ。
これが私の持論、異世界観だ。
橋を越えて大きな横断歩道を渡ると住宅街になり、人も増えてきた。駅に近付くと商店街があり、吸い寄せられるようにお店に入った。
そこは文房具屋だった。私の行く店といえば、本屋と文房具屋、それに雑貨店 と大体相場が決まっているのだ。
店内は半分が本屋で半分が文房具屋という造りだった。店の左奥に進むと一冊の本が目に留まる。
それは手に持つとしっかりとした重みを感じさせる本だった。本といっても中は白紙で、至って簡素だ。装丁はわりとしっかりしていて、ハードカバーになっている。何度開いても壊れなさそうな、丈夫な本だ。 19
ノートといったほうが正確だろうか。しかし外見からは本に見える。
思わずそれを手に取る。誰にも買われなかったその本は、店主にさえ無視されていたかのように薄い埃を帯びていた。
中を開き、ぱらぱらとページを捲る。周りの客に気取られないように鼻を近づけ、紙の匂い を嗅ぐ。手垢や油の付いていない紙の独特な匂いが好きだ。
埃を手で払うとレジに持っていく。精算を済ませると店員は紙袋に本を入れてくれた。店員の声に送り出されて店を出る。一度立ち止まって振り返り、店の看板を見る。ここは気に入ったので覚えておこう。
鞄を開けると袋を中にしまう。ふぅと一息つく。外は少し寒い。それはそうだ、なにせもう明日から12月なのだから。
私は道に迷った子供のようにきょろきょろと辺りを見回した。方向が逆転したので自分がどちらから来たのか一瞬分からなくなってしまった。来た道を確認すると、右手に向かって歩いていった。
私の髪は肩より長く、ストレートに伸ばしている。歩くたびに制服のスカートや鞄が髪と一緒にゆったりとしたリズムで揺れる。
突然、胸ポケットのケータイが揺れた。そうだ、学校にいたからマナーモードにしたままだった。
電話かなと思いケータイを取り出すが、はたしてそれはメールだった。送信者は母親。内容は簡素なもので、「今日も遅くなるから夕飯お願いね」だ。
ため息をつくと、即座に「分かった」と打つ。思い出したように「今朝、台所の床が濡れてたけど、どうしたの?」と付け加えて送信した。
ケータイを胸ポケットにしまうと、ふたたび歩き出す。これから電車に乗るのでマナーモードのままでいい。するとまもなくメールが返ってきた。
「知らない。コップが倒れたのかな。拭いてくれた?」
いや、自分のコップではない。飲んだら必ず片付ける。それに、床もきちんと拭いておいた。そのままだとフローリングの床が大変なことになってしまう。
「うん、拭いたよ。で、お父さんも遅いの? 夕飯、いる?」と返す。
駅に着く。いつもはバスで別の駅に行くが、徒歩だとこの駅が一番近い。何度か来たことがあるという程度で、普段は利用しない。 20
駅前にはファーストフードの店舗が立ち並ぶが、どれもあまり興味がない。料理は自分でするし、添加物はなるべく避けたいからだ。
エスカレーターで改札口へ上がる。後ろに男の人が立つが、スカートは十分長いので気にならない。スカートの長さは規定というか買ったときのままで、少しも短くしていない。いまどき珍しいと大人には好意的に見られるが、同級生には揶揄される。
揶揄されても短くする気はない。世のおじさんたちは勘違いしているが、女子がスカートを短くしているのは可愛いからでも男に媚びているからでもなく、単に周りの女子から干されないためだ。
だが、そんなことしてまで周りに合わせる必要はないというのが私の考えだ。はい、友達がいない理由その1。探せばあるもんだ。ほかにも探せばざっくざくだろうが、怖いので蓋をしておく。
エスカレーターを降りると、改札に入って階段を下りていく。電光掲示板を見る。あと少しで電車が来るようだ。
反対側のホームに電車が来る。上りの電車を見送ると、母親からようやくメールが返ってきた。
「さぁ、遅いんじゃない?」
一瞬、何のことか分からなかった。そういえば先ほど父の帰宅を問うたのだった。私はふと、こうメールを返そうかと思ったが、やはり止めた。
「今日が何の日か覚えてる?」
喉まで、もとい、親指の第一関節まで出掛かった言葉だ。
11月30日。今日、私は17歳になった。
もとより友人などいないので、祝ってくれるとすれば親くらいのものだ。別に心の底から祝ってほしいわけではないが、忘れられれば悲しい。何か一言くらいあっても...... 早く帰ってきてくれてもいいのではないか。
私に兄弟はない。一人っ子だ。ふつう一人っ子はもっと愛されると思うのだが、どうもウチの場合は事情が違うらしい。
もっとも、愛されていないと感じたことはない。単に共働きの親が多忙なだけだ。多忙は人間から心を奪う。現に心を亡くすと書いて忙しいではないか。しょうがない。そう、しょうがない。 21
ケータイを胸にしまった。タイミングよく電車が来る。椅子に座ってぼーっと窓の外を眺めているうちに、すぐ乗り換え駅に着き、電車を乗り換えた。
何の気なしに定期を見る。額面を日数で割ったところ、ものすごく割安であることに気付いた。流石は学割だ。私立で授業料が高いので、せめてこれくらいは安くしてくれないとなと思う。
私の通う北城高校はこの辺りでは有名な名門校で、生徒の素行も悪くない。現在、偏差値は70を若干下回るが、特進クラスは確実に70に入っている。私はその特進クラスの人間だ。しかもその中でトップの座を常に占めている。事実上、二年生で最も勉強ができる人間だ。
ウチは理系が優遇される学校だ。表立って口外はしていないが、内部では理系>文系、国立>私立の図式がしっかり行き渡っており、私は勝手に周りから国立理系狙いだという位置付けで評価されている。自分としては理系も文系も得意だし、将来何になりたいというものもないのでどちらでもいいのだが。
電車が来る。私は感傷に浸りながら窓の外を見つめた。せめて松本君も私のことが好きだというのなら誕生日くらい調べておいてくれてもよかったのではないか。それにしても親にすら忘れられているとは驚きだ。
帰宅部の私はいつもなら授業が終わるとバスで即座に帰るのだが、今日は違っていた。何となく、そう、何となく――歩きたくなったのだ。ぶらっと。歩いたからといって何かに出会うわけではないと知っていたのに。
数駅でターミナル駅に着く。また乗り換えだ。いつもと違うルートで帰宅するせいか、乗り換えが無駄に多い。今度は定期を使う。席に座って窓の外を眺めていると、窓の外の景色が徐々に田舎になっていく。
電車が2番ホームに着くと、かばんを胸に抱えて席を立った。改札を抜けて階段を降りる。駅周りは鄙びている。あるといえば銀行の支店やケーキ屋や、なぜか二件存在するメガネ屋くらいのものだ。
ちなみにこのケーキ屋は評判が良く、秋には安売りセールをする。母親は気に入っていて、毎年この時期になるとケーキを買ってくる。もっとも私は虫歯になりたくないので、甘いものは食べないが。 22
以前は駅前に本屋もあったのだが潰れてしまった。本好きの私にはちょっとしたダメージだ。
東口を出ると直進し、十字路に出る。そこから少し歩くと家に着く。
私の住んでいるところは典型的なベッドタウンで、ドーナツ化現象に貢献している。3人きりの核家族で、二階 建ての一軒家だ。ベッドタウンにありがちな分譲住宅で、周りの家は大体似たような建築様式をしている。
15年前に企業が行った分譲の抽選があり、それに見事当選したのがウチの両親だ。引っ越してきたときはまだ2歳ほどだったからまるで記憶にない。当時は辺り一面タンポポ畑だったそうだ。
小さいころは随分大きな家だと思ったが、中学にもなるとすっかり慣れてしまった。体が成長したからかもしれない。とはいえ兄弟がいないので手狭と感じることもなく快適だ。
かばんから鍵を取り出し、ドアに挿す。ふとそのとき後ろに人の気配を感じて振り返った。
「......気のせいか」
視界には無人の道路と向かいの家が広がっているだけだった。首を伸ばして右向いの小さな公園に目を向けるが、そこにも人の気配はない。
「――もしかして」
回想を中断し、目を開く。レインの家の天井が見える。
「このときやっぱり誰かいたのかも...... 。門の影かなんかに隠れてさ」
ありえる。確かにあのとき人の気配を感じた。だとしたら金髪は私の後に続いて入ってきたことになる。
「入ってすぐ鍵を閉めたはずなんだけどなぁ」
だが事実金髪は入ってきていたわけだから、鍵をかけ忘れたのかもしれない。
いずれにせよ金髪がやってきて、私は今ここにいる。これは拉致されたと見てよいのだろうか。
「いや、しかしなぁ...... 」 23
拉致ならなんでこんな民家に? レインは私を見て驚いていたから事情を知らないはず。彼女はこの家の住人のようだから、実は彼女も拉致されているというケースは考えにくい。というか、そもそも拉致うんぬん以前にここはどこなんだ。
ついに念願の異世界かとも思ったが、いざこういう状況になると常識が先に立ってしまい、拉致などの可能性を考えてしまう。
窓の外は暗い。時差はあるのだろうか。時計を探すと部屋の隅に大きな柱時計があった。
時間は7時半すぎ。最後に私の部屋で時計を見たときも7時半だった気がする。もしかして時差があるのだろうか。胸ポケットに手を入れてケータイを探すが見つからない。
そうだ、机の上に置きっぱだったんだ...... 。
持っているものといえば、突如現れた金髪に投げつけようとした本だけ。帰りがけに買った日記用のノートだ。さっきレインを助けた倉庫に落ちていたのでここまで持ってきた。ほかに持ってきたものといえば着ている制服くらいのものだ。
参ったなぁ。これじゃ何もできない。時差を計ることすら。 でも待って。そもそも私、どれだけ寝てたんだろう。寝てた時間によって時差が分かるんじゃないの? ああ、ウチの時計! あれがあればここの時計との時差でおおよその位置が掴めるのに!
恨めしそうに柱時計を見る。そこでふと妙なことに気付き、そろそろと立ち上がる。
「あれぇ ...... ?」
時計はふつうの柱時計だ。左回転というわけでもない。だがヘンなのだ。何がヘンかというと、文字盤だ。1と書いてあるべき場所に8という文字が書いてある。ほかの11個の文字 もすべてそうだ。アラビア数字でもローマ数字でもない。見たこともない字だ。
私はディヴィッド=クリスタルの『言語学百科事典』を持っているし、三省堂の『言語学大辞典』も持っている。別巻の『世界文字事典』には古今東西の文字が約300種並んでいる。そのすべてに目を通したことがあるが、このような文字は記憶にない。
部屋 を見回すと、壁に何かの紙が貼ってあるのに気付いた。上段に"mel 406"と書いてあり、その下では=や(や)という文字が若干緑色に光っている。これは何だろう。
目を細めて凝視する。するとレインがトレイを持ってきた。トレイにはティーカップやら何やらが乗っている。 24
"mitua, halka na hao kulan malia"
「あ、ありがとう。そんなお気遣いなさらずに」などと敬語で言ってはみるものの、通じはしまい。だが、つい癖でお辞儀をしてしまう。ここではお辞儀が通じるかどうかも分からないのに。
レインはお辞儀に対して微笑みを返した。お辞儀が通用するのか。あるいは単に謝意が通じたのか。
トレイがテーブルに置かれる。レインはカップや皿を配る。トレイには透明なティーポットがあり、茶葉が対流の中で優雅に舞うのが見える。彼女はカップに紅茶を注ぎ、私の前に置いた。
「ありがとう」
互いに微笑む。しかし、ここの文化では客は主人にもてなされっぱなしで良いのだろうかと少し不安になる。
トレイには籠があり、そこには1斤ほどのパンが入っていた。ほかにパンを切り分けるナイフや生野菜やハムなどがあった。レインはパンを切り、野菜やハムと一緒に皿に乗せ、差し出した。
両親に食事を出すことはあっても誰かに出されたためしはない。ありがたいことは確かだが、非常に居心地が悪いというか、落ち着かない。
まさかこんな知らないところでいきなり言葉も通じない子と食事をすることになるとはね。
それにしても、あの時計盤の文字は何なんだろう。あんな文字は見たことない。アラビア数字ってもっとワールドワイドだと思っていたのだけど。
どこか知らない孤立した文化なのかな。ほら、僻地のさ。...... いや、それにしては住宅が近代的でしっかりしているな 。
彼女の手前ジロジロ見るわけにはいかないが、さっき見た感じではここは涼しさより暖かさ重視の住宅のようだ。
ドアも壁も窓も防風がしっかりされている。日本家屋みたいな風通しの良さはあまり考慮されてない。
恐らく気温や湿度が低い国なのだろう。かといってここが高緯度地方とも言い切れない。25 高山地帯かもしれないからだ。
日本は周りが海で湿気が酷いから涼しさ重視・風通し重視の家屋だ。でも、ほぼ同じ緯度にある韓国だと暖かさが重視される。風通しよりも暖を取る住宅設計だ。床暖房の一種のオンドルが歴史的に発達してきたことからもそのことが伺える。
日本と韓国のようにほぼ同じ緯度でも、家屋に求めるものは湿度などの条件によって異なる。ここが暖かさ重視の住宅だからといって、必ずしも高緯度地方だということにはならない。
レインは胸に手を当てて"al karte"と言う。
今のは「いただきます」みたいな感じだろうか。私も言うべきか。
「あの ...... 」
レインは目を開く。くりっとした二重だがやや垂れ目というか、穏やかな目をしている。男子にモテそうだ。
「私もその食前のお祈りみたいのしたほうがいいの?」と言いながら手を胸に当てる。だがレインは"a... meid alna vil eld halkan, lua xion. mist rens to?"と首を傾げる。
「紫苑って名前は理解してくれてるみたいだけど、自分の名前しか聞き取れないわ。ねぇ、そういえばさっき紫苑って名乗ったとき驚かなかった? 同じ名前の知り合いがいるの?」
"mm? xion?"
「そう、紫苑よ。私の名前を聞いてやけに驚いてたよね」
胸に手を当てて「紫苑」と何度か繰り返す。ところがレインは苦笑いを浮かべて首を傾げ、"halka mist tor? meid ser moa miest halkan. tu et xion, ax malia?"と言うだけだ。
だめだ、伝わってない。とりあえず、ここでは分からないときは苦笑いする習慣があるということは分かったけど。
「とりあえず食べましょう。っていっても、あなたが先に食べないと気まずいんだけど」
伝わったのか、レインは苦笑して紅茶を一啜りし、パンに手を伸ばす。
いま分かってるのはこの子の名前くらいか。「あー」とか「んー」みたいなつなぎ言葉、いわゆるフィラーを使うのは分かった。ボディランゲージもいくつか獲得した。しかし肝心の言語が分からない。 26
思わずうーんと唸った。そしてふっと思い出して、持ってきた本を手に取った。本にはお気に入りのボールペンが挟まっている。こないだ替えたばかりだからまだインクはたっぷりある。
レインから見えないように、真面目な顔つきでぐしゃぐしゃ――スチールウールのような模様――を紙一面に書いた。そしてそれを自信有り気に見せ付けた。レインはじっと見入った。
私はそっと耳をそばだてた。好機が来るのを待って。やがて怪訝そうな顔をして、彼女はそっと呟いた。
"tu et to?"
トゥウェット? トゥウェットって言ったの?
とっさにIPAで音声表記に直し、記憶する。
今度はパンの塊を手に取った。これが丁寧な持ち方とは思えないが仕方ない。そして口ぶりや発音をできるだけ正確に真似て、パンを見せながら「トゥウェット?」と言った。
レインは「え?」という顔をした。ややあって、ためらいがちに"pof?"と返した。
よし、よし。行けそう。ポフね、ポフ。
パンを指差しながら「ポフ?」と聞いた。するとレインは無言で頷く。
次にナイフを指差し「トゥウェット?」と言った。彼女は何を指差されたか分からないようなので、脅かさないようにゆっくりナイフを持ち上げ、先端を自分の方に向けながらもう一度聞いた。
この時点でようやくレインはこちらの意図を理解したようで、ぱっと顔を明るくし、はっきり"tips!"と答えた。
やった、伝わった! ナイフはティプスね。ははは、伝わった。
私が はじめ に書いたスチールウールはまったく何の意味もない。あれはさも意味ありげに見せることによって「何これ?」という言葉を引き出すための道具だったのだ。
この手法は言語学者の金田一京助がアイヌ語研究の際に現地人に使ったものだ。こうして彼は情報を獲得していった。
以前本で得た言語学の知識が役に立った。みんなが参考書を読んでいる横で新書を読んでいた私が初めて得をした。
これでレインに学習意欲を示したことになる。彼女は私が言葉を学びたいということを27 理解しただろう。
続けて皿を指して同じことをした。皿はハットというらしい。同じくパンに乗っていたレタスはシャクンで、ハムはトックルというらしい。
念のためスライスされたパンのほうを聞いてみたらポフと言われたが、その後続けてレインはコカと言った。
「コカ?」
"ax, tu et koka tan antisse"
面白い。夕飯にいきなりパンを持ってきたことからある程度予想はしていたが、やはりここはパン食のようだ。この家がというより、ここの文化がパン食のようだ。
日本では米と稲は別の単語で言い分けても、パンとスライスパンは区別しない。どちらもパンだ。逆に英語だと米食ではないのでriceは稲も米も同時に表す。
つまり、その文化にとってその物がどれだけ重要かによって単語の細かさが変わるということだ。スライスパンが単純語を持つというなら、それはここがパン食であることの根拠のひとつになる。
恐らくここでは小麦がよく生産されるはず。よっぽど言葉が変わるくらい昔から輸入に頼って食文化が変わってない限りは。
小麦がメインとなると、ある程度気候も限られてくるわね。
パンを常食すると仮定すると、米は常食ではないだろう。米は夏に大量の雨が降り、湿気と高い気温が保たれないと育たない。
日本の東北地方では夏にやませ という冷たく湿った北東風が降りることがある。そうなると米は育たない。これがいわゆる冷害だ。このように、米は夏の暑さと雨が必要だ。
少なくともこの地方の気候は日本的ではない という予想が立つ。まだ予想の範囲でしかないが、当たらずとも遠からずだろう。
しかし、食卓ひとつ取っても様々な情報を見出すことができるようだ。それもこれも日頃の読書の賜物かもしれない。それにしても、何でもない日常の風景の中にこれだけたくさんの言語と文化が詰まっているとは驚きだ。
次に机を指差して「トゥウェット?」と問うたが、机は広すぎて何を指しているのか分からないようだ。机の端を握り、がたがたと軽く揺らしながらもう一度聞いた。 28
"ratsrats?"
ちょっと自信なさげなレイン。ちゃんと伝わっているのだろうか。
ともあれ、机はラッツラッツでいいのかな。机は基本語だろうに、意外と長いのね。
次に椅子を指差したが、レインはスカートか脚のことかと思ったようで答えに窮してしまった。しょうがないので立ち上がって椅子を持ち、やはり軽く揺らして問うた。
"ratsrats?"
怪訝そうな顔で答えるレイン。
椅子もラッツラッツっていうの? 椅子と机を区別しないの? だから語形が長いのかな。ちょっと待って。彼女の怪訝そうな顔が気になる。もしかして意図が通じてないんじゃない?
試しに椅子から手を離してラッツラッツと言ってみるが、レインは首を傾げる。
あぁ、やっぱり。じゃあ私が聞いたのは何? ラッツラッツって何なの?
机と椅子にした共通点を考えてみた。
あ――揺らした。私、どっちもガタガタ揺らした。もしかして今のは揺らすとかガタガタという言葉なの?
そう思って皿を持ち、同じく揺らしてみながら「ラッツラッツ?」と聞いた。するとレインはハッキリ頷いた。その顔つきからして肯定のようだ。どうも肯定に対しては頷く文化のようだ。良かった、共通していて。
やっぱり椅子や机の件は通じてなかったみたいね。参ったなぁ。
今度は椅子を指し、揺らさずにもう一度「トゥウェット?」と聞いてみた。すると今度は"skil"と言った。
椅子はスキルね、スキル。なるほど。
この流れを崩さないうちに机を指し、再度問う。ようやくこちらの意図が伝わったようで、"elen"と答えた。
よし、机はエレンね。いや、しかしレインは頭が良いわ。余計なことを言わずに単語だけ教えてくれる。余分な語を挟まれたりセンテンスの中で使われたりしたら、どれがその語なのか分からないもの。
ほかに気になることがある。
スライスを1枚取り、指差して「コカ?」と聞いた。当然頷くレイン。今度はもう1枚29 追加して、2枚同時に指差して「コカ?」と聞いた。するとレインは首を傾げながらも頷いた。何がしたいのだろうというような顔つきだ。
今したかったのは単数形・複数形の有無を確認することだ。どうも単複の違いはないらしい。スライスが不可算名詞ということは考えられない。
なるほど、中国語なんかと同じで単複はないのね。
しかも冠詞もないし、日本語の助数詞に当たる中国語の量詞もない。この点は 日本語によく似ていてラッキーだ。...... いや、もしかしたら冠詞などはあるのかもしれない。単に単語を言うときには省いているだけかもしれない。だが今はそこまで判断できない。
次に紅茶がエテックで、カップがテクスだと知った。うん、だんだん名詞が増えてきたな。まとめておかないと不便だ。
食事をのろのろ取りながら、言葉の勉強をした。どちらも熱心だ。こちらは覚えるために必死だし、レインもそれによく応じてくれている。というか、レインは言葉を教えることが楽しいようだ。未知の不思議な人間との会話が楽しいだけかもしれないが、若干興奮しているようにも見える。
次は文字を知りたいものね。...... よし。
「ねぇ、レイン。文字を知りたいんだけど、書いてくれる?」
通じないと知りつつも、言葉にしながら動いたほうがやりやすい。本を開き、白紙のところに指を差し、持てとばかりにペンを突き出す。レインは分からぬままペンを受け取る。
試しにハットと言いながらペンで何かを書く素振りをした。ハットハットと何度も言ううちにレインに意図が伝わり、彼女は紙にhatと書いた。
それを見た私は仰天した。耳で聞くのと目で見るのでは驚きの種類が違った。
彼女の桃色の唇から紡ぎ出されるハットという音はやや耳慣れないといった程度だが、文字は違う。
見慣れないなんていうレベルではない。もちろん平仮名とも片仮名とも違う。慣れ親しんだ漢字やアルファベットとも違う。ハングルやデーヴァナーガリーや世界の様々な文字とも違う。それはまったく見知らぬものだった。
「これは ...... 。ハット?」
レインは頷く。私は指で文字をなぞり、凝視する。そこにはhatという3文字があった。
ハットを[hat]という音声記号で解すると、ちょうど数が合う。漢字のような表意文字で30 はなく、アルファベットのような表音文字ということになる。偶然かどうか知らないが、3音に3文字がピッタリ合っている。
はじめ の文字はhに似ている。が、余計な装飾も何もなく、少しhと形が違う。一瞬アルファベットの改良版かと期待したが、どうもその可能性は少なそうだ。まして後の2文字はまるで異なる。
ペンをレインから返してもらい、恐る恐るhatと書いてみる。そして「ハット?」と聞くと、彼女はにこりとして"ya, hat"と言った。どうやら肯定はヤーというらしい。ドイツ語のようだ。でも、ドイツ語のヤーよりは短く、歯切れが良い感じ。ヤーッという感じに聞こえる。
"aa... len"
レインは静かに呟いた。少し表情が残念そうだ。
"non at evit on lu et ansiel xion. tet tu et ilpasso mil lu alkat non siina, fien lu te lua xion"
「ん、どうしたの?」
突然レインは"myun vat"と言ってどこかに去ってしまったが、すぐに戻ってきた。手にはペンと本が握られている。「あぁ、やる気だな」と思った。彼女は非常に協力的で助かる。良い人に助けられたというべきか、良い人を助けたというべきか。
彼女は何かの辞書とおぼしき分厚い茶色のカバーの本を広げた。そして指でくいくいと示してとある表を見せてくる。
「うわぁ」と無意識のうちに声が出てしまった。それはこんな表だった。
31 t tes k ket x xal s sol n nim v vin f fox m mir d dur g gat p par b bel h hac y yun c cuk r rus z zom j jok w wit l lex a aa i ii o oo e ee u uu
32
「これは ...... 」
先ほどの字が入っているところからすると、レインの言語における表音文字のリストなのだろうか。
"ilpasso? kit, tu et tes"
レインは表の左上を指した。どうやらこの言語は左から右、上から下に文字 を進めるようだ。つまり英語などと同じ書き順の横書きだ。縦書きではない。また、一行ごとに左から書き始めたり右から書き始めたりと交互に変わっていく牛耕式でもない。
"alna? tu et tes"
「え、なんて言ってるの?」
分からないという反応を示すと、レインはうーんと悩んで左上の字だけを指差し、"tes, tes"と何度も言った。
あぁ、この文字がテスという名前だと言いたいのね。そういえばtの文字はhatのところでも[t]だったな。
よく見るとこの表の小さいほうの文字列はどれも見出しの大きい文字から始まってる。例えばtの文字ならtesのように、t音から始まっている。英語でbを[bi:]というのと同じで、ある文字の名前はその音で始まるというわけだ。分かりやすい。
"ket"
ひとつ右の文字を指して言う。なるほど、これがケット、と。
"xal... sol..."
その右がシャルとソル。これで1段目は終わりね。ここは要するにt, k, sh, sって感じね。
レインはそうして順に文字を教えてくれた。2段目はニム、ヴィン、フォシュ、ミル。アルファベットでいうとn, v, f, mか。ニムはnと形が同じだから覚えやすい。
3段目はドゥル、ガット、パル、ベル......d, g, p, b。うん、bも覚えやすいな。
次はハル、ユン、ルック、ルス。h, yと来て ...... 。
ルックはイタリア語などの舌を何度も叩きつけるラ行みたいね。
IPAではふるえ音というのだが、要するにべらんめぇ口調のラ行だ。レインのような大人しそうな顔でこの音を発音されると少し面食らう。
次のルスは英語のrの音と同じようなのでrと転写しておこう。 33
そして5段目に来た。ゾム、ジョック、ウィット。そして最後の文字は私が読んだ。
「レッシュ?」
"ya"
最後になってようやく前の状況から音を予想することができた。5段目はz, j, w, lだ。
なるほど、これがこの言語の子音か。4かける5で20文字ね。どれも単純な字形だ。単純な字形のバリエーションは限られているから、アルファベットやギリシャ文字や平仮名などと大体かぶっている。それだけに覚えやすいが、混同しないよう注意がいる。
ともあれ、いきなり20文字も覚えられないから、転写法を作っておこう。
アルファベットで転写することにした。基本的に英語に合わせることにしようと思う。
ヤ行をyとjのどちらにしようかと思ったが、ユンの文字がyに似ているので、yで転写した。そうなるとjはジャ行になる。文字の形はjなのでむしろsで転写したいが、そうもいくまい。
よく見るとこの字はすべて一筆書きだ。アルファベットでさえ2画のものがあるのに、これはすべて1画で書ける。合理的だ。
ただ、アルファベットでいうところのdとbのような鏡文字があるようだ。もっとも、鏡文字が多いからといって慣れれば混乱することはなさそうだ。dとbも中学で英語を習いたてのころは間違えるが、そのうち間違えなくなる。それと同じだろう。
転写して困ったのはルックとシャルだ。シャ行をshにすると2文字になって転写しづらい。どうしよう。
あ、そうだ、ポルトガル語だとシャ行はxだったわね。ちょうどいまxは残ってるわ。じゃあxをシャ行にしましょう。
アルファベットで転写して文字が足りるかな。この言語は子音が20個でしょ。子音の下に書いてあるのは母音だろうから、合わせて25文字。アルファベットは26文字だから足りるね。
i, e, a, o, uは母音に使うとして...... 残る子音字はcとqか。べらんめぇのラ行をどちらに宛てるか...... 。まぁcでいいか。別にqでもいいけど、ルックのクってことで、cを使おっと。
自分の家から持ってきた例のノートに転写を書き、レインの描いた文字を模写しておく。34 でも本当はできるだけ転写に頼らずこの文字に慣れたほうがいいだろう。
「ええと、上の表が子音なわけね。じゃあ下は母音ってことになるね。どの字がどの母音かっていうのは、子音の表の中で何度も出てきてるからもう分かるわ。順に...... 」
ここで一拍置いて指で文字を追う。
「アー、イー、オー、エー、ウー?」
"ya, tia"
良さそうだ。なるほど、これで文字は分かった。何より書きやすい文字で良かった。数も少ないし、形も複雑でない。
字形が単純で助かったわ。これってアルファベットみたいな自然文字なのかな。それともハングルみたいな人工文字だったりして。
しかし言語学の色々な情報を見てきたが、こんな文字は見たことも聞いたこともない。異世界へ行きたいと願い続けている私からすれば、ここが異世界ではないかという期待は十二分に ある。だが常識で考えればまだ地球である可能性を捨てきれない。しかし今は検証ができる状況ではない。
まずは文字に慣れなくっちゃ。
試しに紙にxionと書いた。これで紫苑という名前のはず。もしこの文字が書いたまま読むのだとしたら。つまり、英語のように綴りと読みが一致しないことがなければだが。
「シオン?」と尋ねると、にっこり頷いて"ya, tu et xion"と言う。肯定したようだ。次にleinと書いて「レイン?」と聞くと、"ya, tu et lein, est noan"と肯定するように言う。
よかった、とりあえず互いの名前は書けるようになった。次は文だ。文が書きたい。
ペンで書く身振りをしながら、レインに「トゥウェット」と言った。レインは"kaz"と言う。
違う。多分ペンのことを言ったのだろう。ペンのことを聞いているのではない。「トゥウェット」という文を書いてほしいのだ。
「あー、しょうがないな」と言って試しにtuwettoと書いてみた。そしてしきりに「トゥウェット?」と繰り返す。
するとようやく理解してくれたようで、"a, tee, tee"と言い、"tu, et, to"と単語を区切って発音しながら書いてくれた。レインが書いたのは"tu et to?"だ。最後の?という文字は35
「?」に当たるものだろう。
あぁ、なるほど。これで「トゥウェット」なわけね。文字を忠実に読むとむしろ「トゥエット」なのね。ウの後にエがあるから唇音化して聞こえてたわけか...... なるほど。
ともあれ、これで文がひとつ書けるようになったわ。よし。面白い。
ところで、この言語は何語というのだろう。いまのところはレイン語と呼ぶしかない。しかしこの言葉は何語かなんてどうやって聞けばいいのだろう。まだまだ先の話だなぁ。
"pof!"
「え?」
レインはポフポフと繰り返す。ペンを動かしている。書けというジェスチャーなのだろう。面白いことに、ペンを動かす点では日本と共通したジェスチャーだが、動かし方が違う。
日本人は1マス辺りの密度が濃い漢字を書くせいか、ペンをその場でごちゃごちゃと動かし、手を横にずらす速度は遅い。
それに比べてレインの場合、その場で動く量は少なく、横にずらす速度が速い。まるで手が「〜」という文字の軌跡を描くように、すーっと横に動いていく。
なるほど、この文字を日常使っていると、書くというジェスチャーひとつ取ってもこれだけの違いが出てくるのか。そう思いながらpofと書いた。どうも練習させたいらしい。
"ya, tu et pof"
レインは肯定的に述べた。ただ肝心のレインの言葉が分からないのでは、いくら単語が書けても仕方がない。試しに今レインが言った言葉を書いてみる。
音的には「ヤッ、トゥウェットポフ」と聞こえた。どこで区切るのか分からないが、「トゥウェット」の部分は先と同じだとすると、次のようになるだろう。
"ya tu et pof"
レインはそれを見てyaの後に「,」を入れた。なるほど、区切りはこれで表すのか。カンマによく似ている。
しかし、"tu et to?"が「これは何ですか」で、"tu et pof"が「これはパンです」だとすると、少なくともtoというのが「何」に当たる語なのだろう。となると疑問文は英語のような倒置をしないということになる。 36
ではtuとetはどういう意味だろう。仮にこの文をthis is whatと考えると、tuはthisで「これ」になる。一方etはisでbe動詞、すなわち繋辞になる。だがそう簡単に考えて良いものか。
仮にtuとetのどちらかが「これ」だとしよう。アラビア語のようなVSC(動詞・主語・補語 )の語順だとしたら、etが「これ」になるはずだ。英語のようなSVC(主語・動詞・補語 )ならtuが「これ」になる。いったいtuとetのどちらが「これ」なのだろう。
...... そうか、「これ」を「私」に変えさせればいいんだ!
紙に"tu et xion"と書いた。もしtuが「これ」なら、この文は「これは紫苑」という意味になる。人間を「これ」呼ばわりするとは思えないので、tuを「私」に相当する単語に置き換えてくれるはず。
するとレインは"ya, tu tan et ax. tet tur, tyu rens ax non et xion"と言いながら、tuの下にnonと書き足した。
ビンゴ! 思わず顔がにやけてしまう。やはりtuが「これ」だ。そしてnonが「私」だ。
続けて"non et lein"と書いてみる。「私はレイン」という意味になるはずだ。もちろんこの文は間違い。「あなたはレイン」が正しい。こう書けば「あなた」という単語を引き出せるはずだ。
"tee, tee. sol non et lein. tyu axt hao en non tet tyu im tu"
レインはnonにバツ印 を付けると、tyuと書いた。罰点はダメを意味するようだ。どうやら「あなた」はtyuというらしい。一応確認しておこう。
試しに自分を指してノンと言ってみた。レインは頷く。やはりノンで「私」らしい。次にレインを指差して、テュと言ってみた。レインは少し眉を顰めながら頷いた。
あ、しまった。人を指差すのは失礼か。じゃなくて、テュと呼びかけるのが無礼なのかも。フランス語みたいに親しくないうちはvousで、親しくなってからtuと呼ぶような言語もあることだし。うーん、参ったな、どっちだろう。
わざと間違えて自分の胸に手を置き、「テュ?」と聞いた。するとレインは首を振って
"tee, tee"と言う。このテーテーというのはさっきから聞くが、どうもダメとか違うとか、そういうニュアンスの言葉のようだ。なんとなく鳴き声みたいで可愛い。 37
しかも首を振るのが否定を表すらしい。よかった、日本と同じだ。ギリシャだと首の振り方がおよそ日本と逆だが、そういう文化圏でなくて助かった。
レインは手の平を上にしてこちらへ差し出すと、"tyu"と言った。私が欲しかったのは身振りのほうだ。問題は人の指し方だったようだ。指差すのは良くないらしい。手の平を差し出すのが丁寧なようだ。
今初めて理解したような顔でレインに手を向けてtyuと言ったら、彼女はにこりとした。
よし、人称代名詞が分かったわ。となると残ったetは恐らく繋辞ね。英語のbe動詞やフランス語のetre動詞やドイツ語のsein動詞や中国語の「是」に当たるものみたい。一番近いのは「是」ね。いまのところ活用しないみたいだから。
レインは「んー」と呟きながら膝を伸ばし、虚空を見つめる。ふっと何か気付いた顔になると、ててっと階段のほうへ走っていった。
なんだろう...... 。
少しすると"in, in"と言いながら降りてきた。手には写真が数枚。
"xion, in tu sec"
写真を見せてくるレイン。そこには一人の中年男性が写っていた。
「あら、かっこいい」
金髪で細く、背の高い男性だ。清潔そうで優しそう。へそ曲がりの私でも素直に好感のもてるタイプだ。
"lu et papa noan. varma sete? non rens lu et en farm tet varma xalt mana e"
「これ誰なの。レインのご家族? お父さんかな」
レインは男性を指差し"vik"と言う。
「ヴィックさんていうの?」
次に自分を指して"min"という。
「ん?」
さらに私を指して"min"という。
「私もレインもミン? ミンってなんのこと? 若いって意味?」
続いて別の写真を見せてきた。街中の写真だ。中央に先ほどの男性とレインの子供時代と思われる幼女がいた。水色のフリフリのドレスを着ている。白のミニ日傘も愛らしい。
レインについては素直に可愛いと評価しておくが、同時にお父さん には若干 ツッコ みを38 入れたいところだ。少なくともウチのお父さんはこんな恥ずかしい格好を私にさせなかっただけマシだ。
「レイン、お人形さんみたいね。ところでやっぱりこの人がお父さんだったのね」
写真には道行く人々が写っている。レインは一人ひとり指さして、minだのvikだのと言っていく。数人過ぎたところで、私はそれが男女のことだと気付いた。どうやらミンが女で、ヴィックが男らしい。
"tyu xaklik tutu eks to sete"
続けてレインは紙に絵を描きだした。一人はスカートを穿いている女の子。minと書いてあるので間違いないだろう。吹き出しにnonと書いてある。
横に男性の絵を書いて、吹き出しにanと書く。こちらはvikと書いてあるので男性でいいだろう。
「吹き出しは何の意味だろ。自分を指すときにvikはanと言い、minはnonと言うってこと? つまり、一人称の性差を説明したいのね」
どうやらこの言語には男言葉と女言葉があるようだ。レインは女が男を指差す絵を描き、吹き出しにtyuと書いた。逆に男が女を指す絵にはtiと書いた 。
「なるほど、二人称も男女によって異なるのね。私は女だから一人称にはnon、二人称にはtyuを使えということか」
うん、人称代名詞は分かったわ。じゃあ、次は...... 。
私は座ったまま柱時計を指差した。
"tu et to?"
"le et melk"
時計はメルクというらしい。だがトゥでなくレと言った。トゥは指示詞ではなかったのか? もしかして遠近の違いかもしれない。
試しに壁にかかっている光る紙を指差し、"tu et to? le et to? tu et to? le et to? ねぇ、tu? le? tu? le?"とまくし立てた。
"en tu, le, le! yan le et papx"
レインは「レ!」と強調した。遠くのものは「あれ」で、「あれ」はレというらしい。
そしてあの光っている紙はパプシュというらしい。それが何かは分からないが。 39
さて次はと思っていたらレインが席を立った。質問攻めにあって疲れたのだろう。食器を片付けだした。
「待って。私も手伝うよ」
"mm? tyu alk non siina?"
「手伝うって言ってるの。任せきりじゃ悪いから。台所、そっちね」
台所は日本でいうシステムキッチンのような感じで、近代化されている。ふつうに蛇口があるし、流しもある。電子レンジもあるし、IHヒーターのようなものもある。
炊飯器はない。やはり米は常食としないのだろう。かといってパン焼き機も見当たらない。買うのか、あるいはオーブンでも使って本格的に焼くのだろうか。
当然のことながら冷蔵庫もある。どこの国でも基本は同じようなものだなと思った。
レインはトレイに乗せたものを食器洗い機に入れると、機械に対応していない籠などをどけてからスイッチを入れた。これで食器洗いは終了。手伝う暇もなかった。簡単なものだ。
"leev"
レインが手を引っ張る。レーヴというのは「来て」などに当たる言葉だろうか。付いていくとそこは洗面所だった。風呂と分離していて、トイレとも分離している。つまりユニットバスではないということだ。
洗面所の棚は開閉式で、中にはコップと歯ブラシがあった。レインは新しいコップと歯ブラシを下ろすと、渡してくれた。
歯ブラシは日本で売っているようなものと若干違った。まず、ケースがないのだ。使われていない綺麗な歯ブラシが無造作に箱の中に数本溜まっていた。ふつう歯ブラシといえばプラスチックケースに入っていて、裏面は紙で、そこに能書きが書いてある。だが、ここにはそんなものはない。ケースを捨ててしまっているのだろうか。
「あの、これ...... 借りていいの?」
"tyu yol flen tutu, xion"
まだ出会ってすぐだというのに、レインは随分打ち解けてくれている。口調も随分緊張がほぐれている。良かった。
歯を磨く。互いに目が合うと、何となくおかしくなって笑ってしまう。よかった、良い40 友達になれそうだ。
それにしても、レインの家族はどこにいるのだろう。人の気配が感じられない。
そもそもここは本当にレインの家なんだろうか。...... まぁ、それは間違いないだろう。立ち居振る舞いが明らかにここの住人だ。
ここに来たとき意識はなかったが、眠っていたのは長くとも数分から数十分程度のことだろう。 あるいはほんの一瞬かもしれない。起きたときに口の中がミルクの味がしたからだ。金髪に連れてこられる前に飲んだばかりだ。長く寝てたら口の中がこも るはず。それに、お腹も減ってなかった。
時差が分からないから何ともいえないが、数分で外国に行けるはずがないから、ワープか何かをしたのかもしれない。
歯磨きを終えて口を濯ぐと居間に戻る。先程は不思議な文字盤の時計に目を奪われて気付かなかったが、壁には大きなスクリーンが貼ってあった。
「テ レビ ...... かしら」
80型はあろうか。かなり大きい。今まで気付かなかったのが我ながら不思議だ。画面は厚みが一切感じられない。まるで壁に紙が貼ってあるかのようだ。
「スイッチもリモコンも見当たらないんだけどなぁ...... 」
呟きながら玄関へ向かった。玄関を開けようとするとレインが飛んできた。
"xion, tyu leev fonl atu mil si ra sete. tu et lami e"
よく分からないが、外へ出てはいけないと言っているようだ。もう夜だし、知らない国を歩くのは確かに危険だろう。仕方ないので諦める。
そのまま二階 へ連れて行かれる。階段を上って廊下を渡り、左手の部屋へ通される。そこは人が住んでいる気配のある部屋だった。誰の部屋だろう。
書類がたくさんあり、デスクがあり、ベッドがある。クローゼットもある。カーテンは灰色で、シックな感じがする。全体的にカラーが黒系で、男性の部屋という感じだ。
どう見てもレインの印象には合わない。やはりレインには家族がいるようだ。
レインはベッドに寄るとシーツを剥いで、クローゼットから新しいシーツを出して敷いた。まさか...... この部屋を貸してくれるというのか。じゃあこの部屋の住人はどうするの? 41
「あの ...... レイン、ご家族は?」
レインという言葉にだけかろうじて反応してこちらを向く。
"xidia flen atu mil non laf tu ez a tyu fien, xink, tu at ez e kaan noan"
「ここ、誰かの部屋なんじゃないの? いまどこかに行ってるの?」
レインは分からないという顔で首を振り、ベッドをぱんぱんと叩いて誘導した。誘われるままにベッドに座る。
"yol flen tu mokt"
「え、寝ろってこと? でもまだ少し早くないかなぁ」
とりあえず言われたままに横になってみる。
"ep? tyu xidia map,?? fien tur et lit fenzel tis"
「え、何? 寝ちゃまずいの?」
起き上がる私を制するレイン。
"passo, passo. xidia flen im tur ol lax. tyu lunas i fia alt sete? non xar tyu na ani tintin"
「ええと ...... おやすみなさい、とりあえず」
するとレインはにこりとしてベッドから立ち上がり、xidiaと言った。今のがおやすみという意味の言葉なのだろうか。xidiaと試しに言ってみたら彼女はにこりとした。
多分 ...... 合ってる。
レインはドアに寄ると、ノブのところの鍵を指差し、"tyu ar sen kuki atu"と言った。どうやら物を指すときは指で差してもいいようだ。どうも鍵を指しているらしい。
"tu et to? le et to? tu? le?"
"io et passo... aa... tyu ser lan vetyolom na. ya, son tu, im tur, tu!"
レインはトゥと強調した。レかトゥか聞いたのだが、レインはトゥが良いと言った......のだと思う。なるほど、レは遠称を表すが、このように話し相手がその対象の近くにいると、近称のトゥを使うようだ。ふむふむ。
「で、えっと...... 。tu et to?」
"kuki"
"tu et kuki?"
"tia"
あれ? ヤーではなく、ティアと言ったぞ。肯定しているムードだからヤーと同じかな。肯定の語が1語しかない訳がないもんね。中国語だって肯定は「是」でもいいし「没錯」42 でもいいわけだし。ニュアンスが違うだけだよね、きっと。
で、鍵はクキと。あれ、でも「鍵」って日本語おかしいよね。鍵はキーのことをいうんであって、レインが指してるのはむしろ錠のほうじゃないの? 日本人はどっちも鍵っていうけど、本来錠と鍵は別物よね。もしかしてクキって錠なのかも。
もう一度xidiaと言ってレインは去った。
...... とりあえず寝よう。
だがその前に起き上がって鍵を閉める。摘みを捻るタイプの簡素な鍵だ。
ドアの横には電気のスイッチがある。ウチと同じシーリングライトだ。電気のスイッチはオンオフ式でなく、レベルゲージになっている。DJが使うサンプラーのつまみのようなもので、上下に摘みをスライドさせることによって照度が変わる仕組みだ。つまみを上にするほど明るくなる。この辺の感覚は日本と同じようだ。
電気を消す前に部屋を見回した。書類が山のようにあり、あまり綺麗ではない。掃除も行き届いていない。今はだれも使ってないのだろうか。
書類を見ると、先ほどの謎文字がプリンタで刷られて整然と並んでいた。表音文字なので読めるといえば読めるが、意味は分からない。それにまだ知らない記号がいくつか見える。
なんだろう、この国は...... 。
時計が壁にかかっているが、やはり居間のと同じ文字盤だ。先ほどの光る表もある。デスクの近くにあるが、これは何なのだろう。
ふと窓を見ると、その向こうにはベランダがある。カラカラと窓を開け、外に出てみる。
目下 はこの家の庭だった。照明があり、かろうじて様子が見える。庭は結構な広さだ。その向こうに門があり、門を越えると道路なのだが...... そこは人でごったがえしていた。
「...... うそ」
そういえば何やら騒がしいなと思っていたが、こんなに人が集まっていたとは。
通りの照明は明るく、たくさんの人が見える。彼らは歩いていた。どこに向かうというわけでもなく、行ったり来たりをしていた。統率も取れていないし、着ている服も人それぞれだ。これはまるで...... お祭り?
そう、それは怒れる群集の行進ではなく、むしろお祭りだった。よく見ると屋台らしきものまで出ている。 43
そうか、それでレインは外へ出すのを嫌がったのか。もし私が出ていったら必ず道に迷う。そのときここの言葉が話せなかったらどうなるだろう。夜道で言葉も分からない少女が外国で ...... 。ロクな目には合わないだろう。
街並みが明らかに日本ではない。まず電柱がない。電気が通ってる以上、電柱は必要だ。電柱はないけど電気は通っている。なら地下ケーブルがあるということになる。地下ケーブルは地震の多い日本にはあまり適さない。つまり――
「ここは少なくとも日本ではない、か」
見える家々も明らかに日本のものではないし、アジアのものでもない。一番近いのは西洋だ。
だが、時差もなくどうやって西洋に?
部屋の時計は10時前。自分の意識としても多分それくらいだろうと思っている。金髪に連れてこられたのが一瞬のことで時差がないとしたら...... ここはどこだ?
西洋っぽくて時差がない。...... オーストラリア?
コリオリの力で南半球かどうか試してみるか。ほら、お風呂場で渦でも作って。でも無理。渦の巻き方を見れば分かるっていっても、蛇口の渦くらいじゃコリオリの力は有効には働かない。あれは海にできた大きな渦とか台風とかそういうレベルで初めて 効果が出てくるものだから、ここでやっても仕方 がない。となると...... 。
空を見る。月は...... ない。
じゃあ星は?
私は世界中のどこに行っても位置を把握できるよう、星座を88天すべて覚えている。
「星は見える...... 。月がないおかげでよく見えるね」
今は11月の終わりの午後10時ごろだから、天頂にペルセウス、南東にシリウス、東にプロキオン、北東に北斗七星ね。
「ここからだと...... シリウスが見えないなぁ。ここ、緯度が36より上なのかしら。......あ、カペラみっけ!」
窓から身を乗り出すと、東の高い方にカペラが見えた。
カペラはぎょしゃ座だから...... うーん、北半球で間違いないようね。
「あれ、アルデバランかな。ちょっと南東の...... 。この窓、南向きっぽいね。カペラは見づらいわ。ベテルギウスは...... って、星の観察してる場合じゃないわ。もう十分」 44
明らかに北半球だ。でも、逆に言えばここは地球。だってこれらの星が見えてるんだから。
でも待って。時差がなく、北半球で日本じゃない。中国か韓国? あるいはロシアの東端? いや、そんなに寒くないし、中国や韓国の街並みではない。どうなってるの?
地球 ...... に似た星。
そしたら確実に異世界ね。万々歳。でもどうなんだろ。宇宙にある地球に似た別の星とか? 例えば火星のような。
いや、それはないか。私の持論通り、地球の環境じゃなければ今私が生きていられるはずがない。地球じゃなきゃ温度も違うし、何もかも環境が異なる。じゃあ、ここは別の世界の地球っぽい星ってことになるわね。でも...... 。
「もしか してふつうに日本にこういう場所があるのかもしれない。確かめないと」
明日どうにかレインから聞き出さねばなるまい。
「ちょっと寒いかな」
中へ戻る。窓に鍵をかけて照明を落とし、ベッドに入った。
レインに聞く前に自分でも情報を整理する必要があるわね。学校から帰って門の前で人の気配がしたところまでチェックしたんだっけ。
それからあの金髪に会うまで何をしたんだったか。私は暗くなった部屋で闇を見つめながら振り返った。
「確か――」
門のところで人の気配がしたが、振り向くとそこには誰もいなかった。私は首を傾げながら玄関を開け、素早く中に入った。
「ただいま」
私はいわゆる鍵っ子だ。親が昔から共働きなので、小学生のころから「ただいま」という言葉に誰も返してくれたことがない。
親はどちらも外資系の商社に勤めており、幸いなことに経済的な不安はない。一人娘が県立ではなく私立の高校に行きたいと言っても何ら金銭的な問題は浮上しなかった。 45
小中のころは公立に通った。親が特にお受験に興味を示さなかったからだ。小学校は家の裏手で近かったから、体が小さい6年間の間は随分楽な思いをした。
しかし 中学に進学すると学校は随分遠くなってしまった。中学の思い出はこれといってない。真面目に勉強し、生活し、運動しただけだ。
これといった友人はいない。苛められているわけではないものの、特に深い付き合いの友人はない。会えば話すという浅い付き合いしかない。それは小学校のころからずっとそうだった。
ただ、能力の高さと人付き合いの悪さから陰口は随分叩かれたし、揶揄もされた。嫌味や嫌がらせを受けることもあった。
中学3年のとき、皆が高校受験に勤しんでいる間、私は塾にも行かず悠々自適に過ごし、それでも首席を維持していた。学校は県内一の公立校を薦めた。別に親に金を出させたいわけでもないし、そこに行ける生徒は限られているので承諾した。
中学校での人間関係を解消したかったというのもある。ウチの中学からその高校に行ける生徒はまずいないので、それもいいだろうと考えた。
だが一応念のため、親の薦めで私立も受けることにした。学校は自分で探した。家から通える範囲で地元の人間に会わずに済むところ。そこは偏差値も十分届くレベルで、3教科が得意な私は公立の滑り止めくらいに考えていた。
誰もが私が公立に受かると思っていた。実際、実力はあったと思う。ところが試験当日に体調を崩し、結果は不合格。
一方、私立の受験の際はこういったトラブルはなく、すんなりテストは終わった。結果は合格。そういう経緯でウチの高校に入って、もう2年が経とうとしている。
洗面所で手を洗い、うがいをする。異世界に行ったときに風邪を引いていたら困るのでいつも 注意している。
イソジンを薄め、15秒ぶくぶくしてから吐き出す。次に天井を見て、ガラガラと盛大な音を立てて15秒。これを2回。およそ1分強ですべてが終わる。これで風邪を引かないなら安上がりではないか。
居間に入り、台所へ行く。少し年を取った白い冷蔵庫を開けて牛乳を飲む。牛乳をしまうとコップを流しに置き、水を入れておく。牛乳の飲みっぱなしは良くない。後が面倒だ。 46
自室は 二階 にある。広くも狭くもない6畳間。昔からここが私の部屋だ。窓は通りに面しているのでカーテンをかけている。
部屋の中は簡素で、机とベッドと本棚とパソコン程度のものしかない。女らしいものといえば母がなかば押し付け気味に買ってくれた化粧台くらいだ。
窓の前の机は小学校のときに買ってもらったもので、未だに使っている。デスクマットがぼろぼろになって引退したくらいしか変わっていない。椅子は回転式で、高さも調節できる。
押入れはクローゼットとして使っている。中には服の他に合気道着や剣道着が入っている。
ベッドの横には本棚がある。かなり膨大な量が入っているが、本はこれだけではない。使わない分は押入れにしまってある。合わせればかなりの数になるだろう。専門書も多いので、かなりの額だ。
電気を点け、部屋のドアを閉める。電灯はシーリングライトでインテリアとして見栄えが良く、傘が邪魔にならない。
床はフローリングだ。以前はカーペットを敷いていたのだが、ハウスダストやアレルゲンという言葉が気になってからは外してしまった。中学ごろから花粉症を患っているので、それを緩和する目的もある。フローリングなので冬は足が寒く、スリッパは欠かせない。
買ってきた本を鞄から出し、胸ポケットのケータイとともに窓際の机に置く。鞄を床に置いて着替えようとしたが、買ってきた本が気になるので先に机に座った。
サーッとカーテンを開ける。もう暗くなってしまった。通りの明かりが見える。時間は7時ごろだ。もうそろそろ夕飯の支度をしなければ。
袋から本を取り出し、袋をゴミ箱に捨てる。机の引き出しから古ぼけたノートを取り出す。
100ページの分厚いノートだが、糊付けなので装丁が脆く、長く使っているうちにバラバラになってしまった。どうにかセロテープで補強しているのだが、長くはもたないだろう。
内容は日記というか...... 毎日書いているわけではない文書だ。何かあったときに書く。気が向いたときに書くので「気記」と呼んでいる。
書き はじめ たのは小学生のとき、7歳だ。もう10年になる。もちろん同じノートに書47 いているわけではない。いまでこそ100枚綴りの ノートだが、それこそ昔は可愛らしいキャラ物の薄いノートなどを使用していた。
引き出しにはほとんどノートばかりが入っている。10年分の気記だ。そしてそれを書くのに使う専用の筆記用具が入っている。引き出しから筆記用具と最近の気記を取り出した。
実は最近のものはもうほとんどページがなくなってしまっている。まだ書こうと思えば書けるのだが、今日が誕生日なので心機一転して新しいノートを使うことにした。
そのために買ったのがこの本だ。糊付けのノートは脆いので、今回はしっかりした装丁のものを買った。
最近の気記をぱらぱらと捲る。その日あったことが主に書かれているが、それだけではない。そのころ考えていた思想などが所狭しと書き込まれている。
中でも繰り返し書かれている言葉が「異世界」だ。この言葉は7歳に気記を始めた時点から使われている。もっとも、そのころは「べつのせかい」と呼んでいたが。
7歳のころ、つまり小学校に入ったころから、私は自分が周りと違う異質な存在だということに気付いていた。頭の良さはテストの点で分かったし、見た目が良いことも周りの大人の反応で知っていた。
自分で言うのも何だが、目はくっきりした二重で、鼻はすっと通っている。歯並びは良く、虫歯もない。肌は白く、黒子は少ない。唇は肌同様色が薄く、仄かな桜色をしている。耳は白く、寒かったり恥ずかしかったりするとすぐ赤くなる。
趣味は学問と芸術。楽器はピアノが少しだけ。聞くほうはもっぱらワールドミュージック。色んな国の音楽を聴くのが好きだ。ワールドミュージックが好きなのは異言語と異文化が好きだからだ。
聞くのは何語でも良い。できるだけ色んな国の言語と音楽を聴いている。アイルランドの曲やフィンランドの曲も持っている。ヨーロッパだけではない。韓国、中国なども持っている。
絵も好きだ。描くのはもっぱら鉛筆画。画材屋でお気に入りの鉛筆を買って使っている。
見るほうは新古典主義に傾倒している。特に アングルが好きだ。「アンジェリカを救うルッジェーロ」がことのほか良い。ルーブル所蔵なので一度行ってみたいものだ。
私が新古典主義に傾倒しているのは、恐らくそれが神を描いたものだからだろう。宗教48 という意味でなく、ファンタジーという意味において、私の趣向と通じるところがあるのだ。そう、「異世界」という私の渇望を示すその趣向と...... 。
手垢で汚れたノートにそっと目をやる。このノートに散見され る「異世界」という言葉が私のすべての行動原理だ。
異世界といえばファンタジーの中ではお馴染みの概念だ。子供のころから様々な異世界物を読んできた。そして7歳のころには、いつか自分も異世界に行きたいと思うようになっていた。ここまでは子供にありがちなことだろう。
だが、私の場合はそれで終わらなかった。高学年になってもいつか自分は異世界に召喚され、異世界を救うために活躍するのだと思っていた。それは中学に入っても高校生になった今でも一向に変わらない。
異世界物を見るたびに異世界への憧憬を強めていったが、成長するにつれ、その商業性に気付いていった。異世界物は小説にせよ漫画にせよ、しょせんは売り物なのだ。売り物であるからには売れないと困るので、エンターテイメント性が求められる。その結果、ご都合主義が生じてリアルな部分が削られる。
異世界物で一番おかしいのは言葉だ。異世界で日本語や英語が通じるのはおかしい。作者の中には同じくおかしいと思う人もいるようで、現地の言語を作中に登場させるものもある。
だが、数ページもすると魔法だか魔法のアイテムだかで意思疎通ができるようになる。私はこれを魔法ではなく、小説という商品を成立させるためのご都合主義だと見なした。
私はいつしか本当の異世界はこういうもののはずだという想像をするようになった。小説に書いてあるのは嘘っぱち。でも異世界は本当にあって、いつか自分を迎えにくる。
じゃあもし私が無能だったらどうだろう。きっと迎えにきてくれない。
まずはとにかく頭が良くなくちゃダメ。向こうの科学力はこっちより下かもしれない。そしたら科学の知識がきっと役に立つ。
最も役に立つのは現代医学の知識だろう。民衆を治療して名を上げれば容易にパトロンを得られるはずだ。もっとも、あまりに出すぎた医学だと魔女扱いされる恐れもあるので、そこは空気を読まねばなるまいが。
また、向こうの社会を早く 把握できるよう、政治経済も勉強した。同じく 向こうの歴史49 をいち早く把握できるように歴史も勉強した。旅をするかもしれないから地理の知識も役に立つだろうと考え、地理も勉強した。
さらに向こうの言葉に慣れるために語学力を養った。それだけでは足りないと思った私は言語学にまで手を出した。これを語学に活かすことによってさらに語学力を高め、いつか来る当地での言語習得に備えた。
向こうの言語が話せなければ何もできない。そう思い、特に語学に力を入れた。
そんな毎日を送っていたので、正直言って塾に行く暇などなかったくらいだ。受験さえ面倒なだけだった。
そこまで徹底して異世界に行きたい理由は何か。それは自分でも分からない。ただ憧憬というのは掴みにくい感情で、把握できない分、無尽蔵の活力を人に与えるものだ。私は異世界への憧憬とひたむきな努力で今の自分を作り上げた。
精進すれば必要とされる人間になって、スカウトという形で異世界へ召喚されると信じていた。 ただ漫然と待つのではない。積極的に自分を磨きながら待つのだ。そうすれば異世界の使者がきっと私を迎えに来てくれると思っていた。
ここまで頑固に信じ続けたのは、恐らく親が忙しいことと、友達がいないことに起因するだろう。一人っ子だし、誰も遊ぶ相手がいなかった。本と空想だけが友達。
別に嫌われることをしているわけ でも自分から遠ざけているわけでもないのだが、皆に馴染めない。嫌われているというよりは、近付きがたい人間。言い換えれば別世界の人間。そう、奇しくも私は自分で自分を異世界の人間にしていたのだ。
ノートには異世界への憧憬が書かれている。行った場合どうするかをフローチャートにして書いてある。ちょっとした精神病なのではないかと思うときがある。
さて、今日はそんな精進の日で最も悲しい日だ。
誕生日。そう、この日になるとまた今年もダメだったという思いを感じるからだ。誕生日はこの世界に留まってしまっ た絶望の日。
私は正直焦っていた。心のどこかでは異世界から召喚されるなんてことはないんじゃないかとか、あったとしても別のもっと有能な人間が召喚されるのかもとか、戦いに不向きな女は用無しなのか、などと考えてしまう。
もう17だ。流石にハードなアドベンチャーは20までにしてほしい。異世界物の主人公50 の年齢がそのくらいの年であるということもあるが、単に体がついていかないというのもある。
「今年も来なかったな」
買ってきた本を広げる。日付を書こうと思ったが、この言葉が代用になると知っていたから止めた。
「今年も 来なかった。いつになったら異世界に召喚されるのか」
手が少し震える。新しい本だから? それとも不安だから?
「異世界に行きたい。ここにはもう...... いたくないの」
気付いたら泣いていた。
なんでだろう。なんで泣いてるんだろう。
異世界に行けないから?
誰も来てくれないから?
誰も私の誕生日を祝ってくれないから?
...... 誰も私を必要としてくれないから?
涙で滲んで視界がぼやける。
背中を椅子の背もたれに預けるとギッと音がして、私の顔は自然と涙を零さないよう天を向く。ぎゅっと目を閉じると、涙が頬を伝う。
一瞬、目の前が赤くぼんやりと光った気がした。手の甲で涙を拭う。息をついてティッシュを取ろうとするが、机の上にない。ベッドに置きっぱなしかなと思って後ろを振り返ると ...... 私の目の前に見知らぬ男がいた。
「...... え?」
――と言おうとしたが、声が乾いて出ない。
繰り返す。振り向いたら見知らぬ男が立っていた。音もなく、だ。
男は黙って私を見下ろしていた。日本人ではないようだ。かといってどこの人ともつかない。ただ、白人のように見える。肌は白く、目は青く、髪は黄色い。金髪よりももっと黄色に近い感じだ。髪は長く、顔は中性的だ。背丈は170cm以上あるだろう。中肉中背という感じだ。
男は長いローブを着ていた。黒いローブだ。裾も袖も長く、かろうじて手が覗いている51 程度だ。
彼はじっとこちらを見つめている。変質者...... には違いない。でも、性的な目的を持った変質者という感じではない。殺意も感じられない。穏やかであると同時に冷たい視線をこちらに注いでいる。
「...... 誰?」と聞いて答えるはずもないが、つい聞いてしまう。もちろん答えてはくれない。
男は右手をかざし、座っている私の額に近付ける。「ひっ」と小さな声をあげ、すくんでしまう。あまりのことに戦意が湧いてこないのだ。
彼は小さな声で何か囁いたが、聞き取ることはできなかった。次の瞬間、男の体から赤い光がぼんやりと炎のように発せられた。
眼前に男の右手が掲げられる。つい見入ってしまう。彼が右手を横にずらすと、私たちは目が合った。恐怖を感じた私は咄嗟に机の上の本を手に取って投げつけようとした。だがその瞬間、急に意識が朦朧とした。
真っ暗な世界が近付いてきた。抗ってみても襲ってくる睡魔に似ている。眠くて仕方がないときのような気持ちになり、私の意識は遠のいていった。
暗い ...... 暖かいような寒いような場所。
場所 ...... そうだ、何か感じている以上、私はどこかの場所に存在しているんだ。ここは...... 暗い。でも...... 同時に「どこか」なのだ。
ハッと目を覚ました。眠くてぼーっとしていた意識が急に消し飛んで覚醒したような感じだ。
刹那、私の周りを光が包んだ。大きくて明るい光。私は意識をそちらの光へ向けた。体が動いている気は少しもしない。でも、魂は動いているような気がする。
朝、どうしても起きられないとき、起きて自分はきちんと歯を磨きに歩いている図を思い浮かべることがある。すぐにそれが現実でなく、自分はまだ寝ていることに気付く。今はちょうどそんな感じだ。
ぼんやりとした意識の中で光の果てにたどり着いたとき、体がとても強い力で引っ張られるのを感じた。
眩しい光の中を出ると、まるで自分が卵から孵った雛のようだと感じた。しかしその卵はふつうと反対で、中が光で外が闇。光を出たら、またそこは真っ暗だった。 52
だが、今度は完全な闇ではない。そこは薄暗い部屋だった。どこかの部屋だ。目が慣れるより先に匂いの変化で場所が変わったと気付いた。徐々に目が慣れてくる。
――とそこで女の子の悲鳴が聞こえた。そう、レインの声だ。
そして現在に至る、と。
「...... 眠れない」
無理もない。まだ10時だ。健全な高校生は遊び ...... もとい勉強をしている時間だ。
思い起こしてみたが、あの金髪はやはり突然現れたようにしか感じられない。
ただ 、ワープしたときの感覚を思い出すことができたのは収穫だった。あれが単なる悪夢でないとするならば、やはり私はここにワープしてきたということになる。
しかしいったい何のために。あいつは私に何をさせたいんだろう。
「それを調べるにはまずこの国のことを知る 必要があるわね」
ともあれ、今日はもう休もう。無理にでも寝よう。体調を整えなくちゃ。
「xidiaとか言ってたっけな...... 」 53 1 1
朝日が眩しい。おかしいな、ベッドがこんなに眩しいなんて。
私のベッドには光はこんなに差し込まない。そう、私のベッドには。
――そうだ!
バッと跳ね起きた。
そうだ、ここは私の家じゃなかったんだ。気付いたら知らないとこにいて、レインっていう女の子に会って。言葉が通じなくて...... 。それでレインの家に泊めてもらったんだ。
とりあえず伸びをして欠伸をする。髪に手櫛を入れる。直毛なので寝癖はあまり付かない。手櫛で大抵は事足りる。
...... 初めて外泊しちゃったな。
うわ、忘れてた。そういえばお母さんたち、昨日どうしたんだろ。帰ったら私がいなくてビックリしただろうな。警察には行ってないといいけど...... 。いや、行くかな。...... 行くよな。
あらかじめ異世界に行ったときのことを考えて、毎年毎年書置きを机の中に残していたから、今頃それを見ているかもしれない。今年の分はこれから作るつもりだったが、内容が高校に入って以降のことなので、去年のものでも話の辻褄は合うだろう。
置手紙があっても親はまず間違いなく警察に行くだろう。その前に部屋を荒らし、荷物を探すだろう。だが親は私がどれだけ服を持っているのかを知らない。父親はもちろんのこと、母親もだ。
問題は制服がないことだ。制服のまま出て行ったのは不自然だ。しかし鞄が部屋にある以上、途中で誘拐されたのではなく自分から出て行ったと分かるだろう。
「まぁいずれにせよ、帰ったらお説教じゃ済まないことになるかもねぇ...... 」
部屋の空気を入れ替えようと窓を開け、ベランダに出る。西洋風の街並みが目に入ってくる。昨日の群集はすっかり撤収していて静かだ。あれはいったい何だったのだろう。
さわやかな朝の空気を胸いっぱいに吸い込んで吐く。空気は澄んでいて空は青い。昨日より景色が遠くまで見える。ただ、山らしきものが見えない。白んでいて分からないだけだろうか。日本の場合、大抵遠くには何かしらの山が見えるものだが...... 。
部屋に戻るが、引き続き換気するために網戸を閉めようとした。ところが網戸がない。54 昨日は気付かなかったが、ここには網戸がないようだ。
窓を開けたままにしておいてもかまわないだろうか。いや、昨日の男のこともあるし、それは少し心配だ。やはり閉めておこう。窓を閉め、鍵をかける。
ドアの鍵を開けて廊下に出る、できるだけ静かに。
するとちょうど向かいの部屋のドアが開いて、レインが出てきた。お互いまだ若干寝ぼけ眼だ。
「あ、おはよう」
"soonoyun, xion"
「そ〜のゆん」っていうのが朝の挨拶なのかな。真似してみよう。
"soonoyun, lein?"
自信がないので文末が尻上がりになってしまう。だがレインはにこりと微笑んだ。
洗面所で手と顔を洗って歯を磨くと、私たちは台所へ行った。朝の習慣はどこでも同じなのだなぁ。レインは私を居間の椅子に座らせようとしたが、手伝おうと思って台所に付いていった。
"ou, tyu alk non siina?"
オウというのは感動詞だとして、テュは「あなた」だから私、つまり紫苑になるのね。ノンは「私」なので、レインから見たレイン自身ね。で、アルクっていうのとシーナっていうのが分からない...... 。
さて、どう答えたものかしら。まぁ、沈黙は金。余計なことは言うまい。で、笑顔も金。とりあえず好意が伝われば良いとしよう。
レインは籠から昨日のパンを出し、ナイフやらを食器洗い機から取り出す。
"ren fatil xaki o gels... aa"
レインは何か指示したようで冷蔵庫を指したが、言葉が通じないことを思い出したようで、言葉を途中で止めた。
「何か取ってほしいの?」
するとレインは冷蔵庫に手を当て、"diittemk"と言った。なるほど、「ディートテムク」が冷蔵庫ね。
レインは中から卵とベーコンと玉ねぎとレタスを取り出すと、順に指差してxaki, fapx, 55 gels, xaknと説明した。
「シャキ、ファプシュ、ゲルス、シャクン...... と」
彼女はフライパンを暖め、ベーコンを乗せる。油がフライパンに染み渡る。油はベーコンの脂で十分なようだ。次に卵を落とす。それを尻目に私は野菜を取る。
「切って良い? サンドイッチでしょ?」
"milx tyu rens sen arka. hai tyu te lua xion sete. non xaklat tu im toxel"
「ええと、今のは切り方の説明だよね? ジェスチャー入れてくれないと分からないよ」
まぁ良いか。ダメなら止めるだろう。私は勝手に野菜を切りだした。
"tet tu et ilpasso. alfi, non sent tyu tiinal olta tyu te lua xion mil tyu alkat non siina"
「野菜の切り方はスライスでいいの? そういえば、玉ねぎのスライスもコカっていうの? っていうか今シオンって言った?」
レインは火を止め、皿に卵を乗せる。こちらも野菜を切り終わり、細く切った玉ねぎをフライパンに乗せる。レインからフライパンを借りると、余熱で少し焦がす。彼女はその様子をじいっと見てくる。少しして焦げ目が付くと、玉ねぎをレタスの上に乗せた。
「運ぶね」と言ってレインの手から皿を取ると、居間へ向かう。彼女はオレンジジュースを持ってやってきた。席に着くとまたお祈りをする。今度は聞こえた。"al karte"
アルカルテ? ア・ラ・カルトみたい。んなわけないか。それって私も言ったほうがいいのかな。でも宗教関係だったら勝手に信者でもない私がやって怒られたりしないかな......。
おずおずと真似してみる。
"al karte"
するとレインは"len, tyu tan et artist xan"と微笑んだ。
食事をしながら私は昨日の単語を思い出していた。パンはpofなどと。するとレインが顔を覗き込んできた。
"atx?"
「え、アチュ?」
"alfi... tyu siina xoi tuul? tee, tyu en ser arka. son tyu alna vil tu tan sin. saa, saa, non to ax eyo..." 56
きょろきょろ辺りを見回すレイン。立ち上がって冷蔵庫のところに行くと、小瓶を持ってきた。砂糖と塩...... に見える。
レインはパンを千切り、砂糖と塩をかけ、さらにオレンジジュースに浸し、それをレタスで巻いて食べた。
うわ、ここってこうやって食べるの? 気が早いよ。混ぜるのは胃の中にしなさいって。しかしレインはそれを口に入れると顔を顰め、"ag, yaamo!"と言った。
ヤーモ? 何がしたいんだろう。何か伝えたいみたいだけど。
次に彼女は皿の上のパンを取ると、バターを塗り、食べた。そして晴れやかな顔でまた
"aaatx!!"と言う。もしかして「まずい」と「おいしい」を伝えたいの?
私は塩の瓶を取り、オレンジジュースに入れる振りをしながら「やぁも?」と聞いた。するとレインは"ya, yaamo, yaamo!"と言う。
なるほど、どうもヤーモがまずいでアチュがおいしいのようだ。つまりレインははじめ食事がおいしいかと聞いてきたのだ。うーん、体を張った演技ありがとう、レイン。
私は本を開くとatx, yaamoと書いてみて、綴りの正しさを問うた。レインはマルを付ける。
うわ、マルで正解を表すのは日本と同じなんだ。バツもここではバツと書くんだっけ。欧米だとチェックで丸だから、私にはレイン語のほうが分かりやすい。
ところで、アチュは形容詞なのだろうか。だとしたら活用はあるのだろうか。それと形容詞は名詞の前に置く前置と後に置く後置のどちらだろうか。
「レイン」パンを持って問う。"atx pof? pof atx?"
"pof atx. pof atx et tia"
あ、分かった。いま初めて長めの文が理解できた。「おいしいパン、おいしいパンで当たりよ」って言ったんだ。確かティアは肯定の言葉だったよね。
形容詞は後置のようね。日本語や英語とは逆で、フランス語と同じ。ただフランス語は基本的な形容詞は前に来る。grand maisonのように。
フランス語みたいに基本語以外の形容詞が後置なのかしら。確かめてみないと。
パンを大きく千切り、もうひとつ小さく千切った。これで伝わるかな...... 。
「これ、大きいでしょ。大きいって何ていうの?」
"tyu okt lan to?"
大きい方を持ち、「大きい」。小さい方を持ち、「小さい」。これを何度か繰り返した。57 が、通じない。
今度は席を立って万歳して飛び跳ね、「大きい」と言った。次にしゃがんで「小さい」と言った。
"asp... evit sete"
レインは首を捻る。伝わっていないようだ。
無理! 形のないものは無理よ!
二日目にしてはや大問題に直面してしまった。うなだれる私。
...... いや、無理なはずはない。今ある色んな国の辞書だって、きっと先哲が同じ問題にぶつかりながら乗り越えてきたんだから!
鼻息荒く復活した私はレタスをちぎって大きい葉と小さい葉を作り、交互に指差す。
"xakn 大きい。xakn 小さい"
次に先ほどのパンを指す。
"pof 大きい。pof 小さい"
形容詞の入るべき部分に日本語を入れてみる。これで、意図が通じればいいのだが。
"aa! alna!"
幸いなことにレインは意図が分かったようで、両手を顎の前10cmほどのところで合わせた。これが理解したときのジェスチャーのようだ。「ごちそうさまでした」という吹き出しをつけたくなる。
"tu et pof kai. yan tu et pof lis"そして レタスを指差し"kok tutu, tu et xakn kai. yan tu et xakn lis"と言った。
繰り返しの中で大きいがカイで小さいがリスだと理解した。紙に書いて確認してもらう。
形容詞はやはり後置のようだ。大きいが基本語なのは疑いないが、これでも後置ということは、フランス語と違って純粋に形容詞は後置のようだ。
また、今のところ形容詞は活用していない。名詞に性別はないのだろうか。
食べ終わると、昨日と同じ要領で片付ける。歯を磨いて居間に戻るとふたたび席に着く。時計を見ると――この時計が日本のものと同じならの話だが――7時過ぎだ。健康的な時間だ。
レインはこの後どうするつもりだろう。見たところ家族はないが、年は私と同じくらい58 だ。学生か、そうでなくば働いているはずだ。
いずれにせよ今日が休みでなければ出かけるのではないか。だが急ぐ気配は見られない。
「あの ...... 学校とかないの?」
"mm?"
「ううん。なんでもない。いや、あるけど」
"a..."
何か言おうとしてレインは止めた。食事も終わったので黙っていると気まずい。ときに、気ま ずいという感覚は彼女にあるのだろうか。当然あるだろうな、人間だもん。
そうだ、今日はここが日本かどうか、そもそも地球かどうか調べるんだった。
私は自分のノートを開き、日本地図を描いて見せた。しかしレインは首を傾げる。これだけでは地図だということが理解できないのかもしれない。
韓国、中国と続けて描き、モンゴルや東南アジアを描き、南アジアと続く。中東、ロシア、東欧、西欧、グレートブリテン島などを加え、さらにはアイルランドやアイスランド、丁寧に南にはシチリア島なども加えて描いた。半島もすべて描いた。イベリア、イタリア、スカンジナビアはもちろんだ。
とりあえずユーラシアを描き終わったところでレインはそれが地図であることに気付いたらしく、"kaxa, kaxa?"と聞いてきた。正しく伝わっているなら、カシャが地図ということになる。
気になるのはレインの表情だ。レインは驚いたような顔で見ている。まるでそんな地図見たことないぞとばかりに。
私は日本を指しながら「ジャパン」と繰り返した。多分これが一番国際的な名だ。他の言語での読み方も知っているが、昨日通じなかった言語で読んでも仕方がないだろう。
"mm... tu et kaxa e fia tuan sete? see tyu lunas i tu kad in. len tyu lunas i fia alt"
「レインはどこにいるの? てゆうかここはどこ? 指差して」
レインの手を引き、人差し指を持ち、地図の上を周遊させる。すると彼女は"tee, tu te fia noan"と言って私の手から逃げる。そのまま奥に引っ込んでしまった。
怒らせたかなと思ったころ、レインは大きな紙を持ってきた。それは世界地図だった。
――この世界の。
59
それは地球に似た、しかし地球とは明らかに異なる世界だった。大陸の数や配置は似ているが、ところどころ形が違うし大きさも異なる。
「異世界があってもそこが私と同じような身体性を持った人間の世界であれば、それは地球と酷似した世界だろう」というのが私の長年の持論だが、奇しくもそれが証明された瞬間だった。
この瞬間、私は自分が異世界に来たことを確信した。恐らくそうだろうとは思ってはいたものの、これで確信できた。
仮に同じ夜空の星が見えようとも、私が生存できる空気や温度や湿度や食物があろうとも、ここは少なくとも地球ではないのだ。太陽が同じくらい眩しくても、ここは地球でも日本でもないのだ。
「来た ...... んだ。本当に。来てたんだ。あは、あはは...... 。凄い、叶っちゃった。10年目にしてようやく」
半ば呆然とする私を心配そうに覗き込むレイン。久しぶりに――いや、もしかしたら初めて――胸が高鳴った。足元から天に向かってふわっと浮き上がるくらいの多幸感に包まれた。
しばし感動を味わった後、徐々に冷静さを取り戻していった。私の脳に長い間刻み込まれてきた熟考の習慣がふたたび活動を始める。
何のためにあの金髪は私をここに連れてきたのだろう。
異世界に行ったらもっと混沌とした剣と魔法の生活になると思ってたのに、今のところ私がしたのは食っちゃ寝だけ。
それに、帰るにはどうすればいいんだろう。異世界に来たいとは思っていたし、帰れない覚悟もある程度はあった。だが、召喚した人間とコンタクトが取れないという状況は想定していなかった。用があって召喚する以上、召喚士が傍にいると思っていたからだ。
「ねぇ、レインはあの金髪のことなんか知らないのよね」
"mm?"
「知ってるわけないか。あなたは覆面に襲われてただけだもんね。それにしてもあの覆面、誰なの? 警察に言わなくていいの? 警察くらいあるでしょ」
レインは首を傾げる。私はため息をついて、「今いる所を教えて」とまた手を取る。今度は素直に応じ、地図の中心より左上の部分を指してくれた。 60
ふうん、大陸の国か。島国でも半島でもないみたいね。しかもレインが指差してるのは国境線の範囲で考えるとだいぶ上の方ね。ってことはこの辺りは内陸になるわね。東は地続きで、西は別の国を挟んで海か。
それにしても、この国の地図なのにこの国が地図の真ん中にないのか。もしかしてこの世界には万国共通の国際地図があるのかもしれない。
地図の中央部が赤道だとしたら、ここの北緯はわりと高いわね。地球でいうとイタリアかフランスくらいかな。うん、そういえば西洋によく似てる。
この国がある大陸が一番大きいみたい。ユーラシアに当たるわけね。この国は大陸の西端だから、やっぱりイタリアかフランスに当たりそう。この指の位置からすると緯度的に南仏辺りかな。
この地図を見る限り、確かに小麦がメインでもおかしくないわね。さっきのオレンジジュースは新鮮で、果肉と種も入ってた。濃縮還元じゃない味だ。ここは果樹栽培が盛んなのかもしれない。
バターも上等だった。酪農も盛んか。少なくとも一次産業品が新鮮なうちに入ってくる環境にあるようね。
家の中に悪臭はないし、汚れてもいない。洗面所も近代化されている。トイレも昨日見たが、日本と同じく洋式の水洗だった。ともあれ、剣と魔法の世界でないことは確かだ。意外と現代の日本に近いのかもしれない。
「で、この国の名前は何ていうの?」
レインの指を地図に軽く押し付ける。
「国、国」
"aa... m? atu? atu et arbazard"
「ごめん何、っていうか、ト?」
"arbazard, arbazard"
「アルバザード?」
レインは頷く。それ、国名なの? それともこの県? あるいは町? ていうか県なんてあるのかな...... 。
すると彼女は国境線をなぞり、"arbazard"と言い、その後国境線付近に書かれたアルバ61 ザードの文字を指差す。
本当だ、アルバザードって書いてある。つまりこの国はアルバザード。そしてレインの指している地名は......arna。
「アルナ?」
頷くレイン。そして奥に引っ込み、地図帳を持ってくる。あるページを開いて見せてくる。それはアルバザードの拡大地図だった。そこにはアルナも載っていた。県名か町名かは分からないが、とにかくここはアルナというらしい。
私は床を指しながら"arna?"と聞く。するとレインは"ya, atu et arna"といった。さしずめ
「そう、ここはアルナよ」といったところだろうか。そうすると「ここ」はアトゥということになる。試してみよう。
私はカテージュと書かれたところを指差し、"atu et kateej?"と聞く。すると"tia"と言う。アトゥは「ここ」でいい気がしてきた。
もう少し試してみよう。世界地図全体を指でくるくる指し、"atu et to?"と聞いた。すると"atolas"という。アトラス...... それは世界という意味か、あるいはこの星という意味か。
しかしアトゥは本当に場所を指すのだろうか。自分の本を指差し、"atu et to?"と聞いた。すると"tee, tee, en atu. tu et lei"という。さしずめ「ちがうちがう、エン・アトゥ。これはレイ」といったところか。
恐らく本はレイだろう。否定されてエン・アトゥと言われた。何のことか分からないが、やはり場所でない本にアトゥは使えないようだ。逆に言えばアトゥはやはり場所を指すのではないか。
アトゥは国だけでなく街にも世界全体にも使えた。では海は?
一番の大洋を指し、"atu et to?"と聞くと、"vark"という。ヴァルクというらしい。うん、やはりアトゥと言えるようだ。
"nee"
突然「ねぇ」と言われて驚いた。日本語と同じだからだ。今のは呼びかけか。ここでも
「ねぇ」って言うのか...... 。
"tu et fia tuan?"
レインは私の書いた地図を指す。「これはフィア・トゥアン?」とはどういう意味だろう。 62
"passo? tu et fia noan, atolas. aaatolas, fia noan"
アトラスがフィア・ノアンで、地球がフィア・トゥアンだそうだ。フィアというのが共通しているので、フィアは世界とかそういう意味ではないか。
となるとノアンはレインから見て「私の」という意味で、トゥアンというのは「あなたの」という意味だろうか。そういえば「私」のノンと「あなた」のテュに少しずつ似ている。
「え ...... と、つまり、fia tuan et atolasなの?」
"ya, fia noan et atolas. see fia tuan et to?"
どうも「私の世界はアトラスよ」と言ったらしい。そうだと意味が通じる。恐らくフィアは世界という意味で、アトラスは彼女の世界...... というか星の名前ではないか。
所有代名詞は分かった。nonの所有格がnoanのようだ。だが、一般名詞の所有はどう表現するのだろう。例えば「紫苑の本」と言いたいときは何と言えばいいのだろうか。
試しに"tu et lei xion?"と本を指した。
すると、レインは"ya, lei tuan"と返した。
「あ、いや、人称代名詞に置き換えないでほしいのよね...... 。lei xion? lei lein?」
"ya, tu et lei tuan. en lei noan. lala es tyu rensand lei e xion lei e xion..."
ん? いま、レイ・シオンでなく、レイ・エ・シオンと言わなかったか?
「レイン、lei xion? lei e xion?」
何度か繰り返すと、レインはハッという顔になった。どうやらこちらの意図を理解したようだ。
"alna, tyu ser lan vetyolom e "e" sete. qm, lei e xion et tia. lei e xion, lei eeeee xion"
「分かったわ、所有はエで表すのね」
"lei e xion K"
だんだん教え方の要領を得てきたようで助かる。
"hai, tyu en xax est e fia tuan sete. saia, tet non ser lan fi on tyu, xion"
「次は何を練習しよっか。とりあえずレインがゆっくり単語を区切って発音してくれるから助かるよ。独り言以外は、だけど。でも、ちゃんと私に教えてくれるつもりなんだね。ありがとう。nee」 63
"to?"
あ、通じた。やっぱり呼びかけは「ねぇ」でいいんだ。そしてその反応が「ト?」つまり「何?」なんだ。面白い。日本語や英語と同じノリだわ。"to?"と返すのが丁寧な反応かは分からないけど。
レインは私の唇あたりをじっと見ている。そういえば、彼女は話すときにこちらの顔を見て話す。どうやらこの文化だと話すときは相手の顔を見るらしい。
とはいえ、目は見てこない。先ほどから鼻や唇、首や鎖骨辺りを見ている。日本人ともアメリカ人とも異なる視線だ。あまり目を見られると緊張してしまうので、正直助かった。
緊張といえば、パーソナルスペースに関しても欧米人っぽく見えるわりには広い。人間が快適だと感じる対人距離は国によって異なるが、日本人は広いほうだ。
レインは日本人と同じくらいの距離を取っている。南仏っぽい場所にあるからフランス人みたいにパーソナルスペースが狭いかと思いきや、そうでもないようだ。
言葉を忘れてぼーっとレインを見ていたら、彼女は首を傾げて立ち上がった。
"kit, tyu xir arka. son... non to ax eyo"
するとレインはまた奥へ引っ込んだ。さっきからやたら小道具を持ってくるが、向こうには何でも揃っているのか。
今度はしばらくしてから戻ってきた。手には厚い本が2冊。1冊は少し埃を被っている。
"tua, klel fiina tyu"
「え、何コレ?」
分厚いハードカバーの本だ。中を見るとぎっしり文字が詰まっている。それはまるで辞書のようだった。
なるほど、これはアルバザードの国語辞典か。
背表紙を見ると、"mel 407, diaklel t'arbazard"と書いてある。見たことない3文字はあの壁の表にも書いてある。
ところで、背表紙にアルバザードと書いてあるのはどういうことだろう。ふつうここには出版社の名前や辞書の名前が書かれるはずではないか。
レインはもう1冊の辞書を手渡した。少し埃を帯びている。背表紙は同じように書いてあるが、"yuliklel"という文字が際立っていた。中を見ると、先のものより字が大きく、絵が多い。説明も短く見やすい。 64
これは ...... ラーナーズ用の国語辞典? あるいは子供用?
レインはページを捲り、私に差し出した。そこには人体の絵が載っていた。そしてパーツ毎に名前が付いていた。これを教材にしろということか。これはいい。
ふむふむ、目はinsで耳はtemで...... 。
見入っていると彼女は"ren in"と言って絵の人体の指を指した。
「レン・インって何? ren in et to?」
するとレインは人差し指を目のところに持っていった。そして本に向かって指を動かし、目線を描いた。どうもレン・インで「見る」とかそういう意味らしい。目がインスなので、近い感じがする。となると、「見る」はインのほうだろう。ではレンは何を意味する?
"ren et to?"
"non ret a tyu yul tyu in tu... xif sete...?"
レインはうーんと唸って、立ち上がる。てくてくと歩き出し、"non luk"と言う。
ルック? 歩くという意味だろうか。
次にその場走りをして、"non lef"と言う。レフは走るだろう。
続いてレインはお笑いの一人二役のコントのように、自分に向かって"re lef!"と言った。そして言われた側の役になり、今度は"ax, an lef!"と言い、一生懸命走っているフリをした。
えーと ......reというのはどうもこのコントから察するに命令か何かだろう。renというのを聞いてreが出てきたわけだが、reとrenの違いは何なのだろうか。
試しに言ってみよう。
"lein, re lef"
するとレインはふたたび走り出した。
「やはりreは命令のようね」
"xion, tyu rens ax en re tet ren. ren lef, ren lef"
「レン・レフ? そっ ちのほうがいいのね。じゃあren lef」
するとレインはまた走り出す。小さな子供が公園で遊んでいるみたいな感じだ。
うーん、ごめんね、食後に走らせて。
さて、歩くはlukだったわね。
"lein, ren luk" 65
するとレインは歩き出した。やはりrenは命令か。
"hqq, na ani. fians fan a. kes, non xax ax to eyo"
レインはペンを取ると、書く真似をしてaxtと言った。どうやら「書く」はアシュトというらしい。
次にレインはペンを机に置き、"axt sat, axt sat"と何度も繰り返しながらペンを取ろうとした。
そしてペンを握り、紙にペン先を付けると、今度は何度も"axt kit"と言った。
次に書きながら"axtor"と繰り返した。
どうもアシュトのバリエーションのようだ。動作の段階を説明しているので、さしずめアスペクトのことだろう。
レインは書き終わってペンを離すと"axtik"と言った。つまりこれが完了?
そして書き終わったleinという単語を指差し、"axtes"と言った。
今までのは「書く」に対する5つのアスペクトということだろうか。間の3つは分かる。開始とその過程の経過と完了だ。だが最初と最後の2つは何だろう。
書く前ということは、書こうとすること...... 日本語学でいうところの将然 相か。
では最後のは? 書き終わったものを指差してaxtesとは何か。完了後ということは、その動作の結果が継続していることを指すということだろう。日本語にするなら「書いてある」。段階としてはそれしか可能性がない。つまり、継続相とでもいうべきものか。
私はレインがやった言葉と動きをすべて再現してみた。すると5つの相についてすべてレインは頷いて肯定した。やはりこれは相――アスペ クトのようだ。
言語学をやっていなければ、そして異世界に行くことを想定して生きてこなかったら、こうまでスムーズには理解できなかっただろう。勉強しておいて良かった。
いま、アスペクトを5つ教わったが、実際によく使うのはaxtor, axtik, axtesの3つだろう。よく使いそうな相だけ動詞語尾で示し、ほかの相は副詞か何かと組み合わせて示すようだ。そのことを見ても、やはりこの3相をよく使うということが想像される。
満足した顔のレインは時計の絵を書いた。柱時計はいま8時。絵も8時を指している。
彼女は"tur"と言った。時計はメルクだから、トゥルは時計ではない。レインはしきりに柱時計と時計の絵を見比べているので、恐らく「今」と言いたいのだろう。 66
次に6時と10時を書いて、"ses, sil"と繰り返した。turが現在だとするなら、sesが過去で、silが未来だろう。どうやら時制、つまりテンスを教えたいようだ。
レインは立ち上がってパンを一切れ取ってくると、口に入れて"xen tur"と言った。なるほど、それが食べるね。私は面白がって席を立ち、レインを引っ張る。台所でコップを取って蛇口から水を取り、飲む。
"xen tur?"
"ya, ya"
ふむ、食べると飲むは同じ単語なのね。不思議な言語だわ。
ところで、お水はまずくなかったな。むしろおいしい。お腹を壊すことはない...... と期待する。
レインは私を居間へ連れ戻す。そして先ほどの8時の絵を指して"xen tur"と言う。次に6時の絵を指して"xen ses"、最後に10時の絵を指して"xen sil"と言う。順に「食べた」、
「食べる」、「食べるだろう」という意味だろう。
未来形silは独立 した時制なのね。英語や日本語だと未来形は未来形として独立していないから、アルバザード語はフランス語の単純未来に近いものがあるわね。
レインは紙にxen ses = xenatと書いた。
「この二重線は...... イコールの記号かな。地球のに似てるけど、上の棒がちょっと短いみたい」
ふむ、過去形は動詞語尾のatを使って表してもよいということか。確かに過去形はよく使うから、短く表せたほうがよさそうね。
現在形はturのようだが、先ほどの歩くや走るの例を見る限り、turをいちいちつけなくても現在の意味になるようだ。
「テンスとアスペクトは分かったよ。わりと簡単な仕組みで助かったわ」
レインが何か言おうと息を吸い込んだとき、玄関のドアがコンコンとノックされた。私たちがいる居間は玄関のドアを開けた目の前だから、ノックの音はよく聞こえる。
すっと立ち上がると、レインは玄関に近付く。
"tu et an, lein"
"etto?"
意外そうな声で玄関を開けるレイン。すると20代半ば と思しき男性が、木で編んだ籠67 を手に入ってきた。
"melka, limel. tu et fiina ti"
男性は果物のいっぱい入った籠をレインに渡すと、ドアを閉める。10cmくらいありそうなツンツンしたこげ茶色の髪に手櫛を入れると、彼はベージュのトレンチコートを脱ぎだした。
"melka. see sentant on tuumi vank"
ほぅ、この世界にもトレンチコートがあるのね。あれは第一次世界大戦のたまものだと思っていたけど、地球と異なる歴史がある世界でも結局人類は似たような服を開発するのねぇ。
男性が肩口までコートを脱ぐと、レインはそっと肩に手をやって脱がしてやり、手元のポールハンガーにかけてやった。気立てがいいなぁ。
"non nat tyu aror filnian ka fi kad melt"
"mon anot a. tal tu salt, an xal atu fiina ti, alfi... ist la"
"..."
"hei, ans ke--"
言いながら彼は居間に目をやり、私の存在に気付いた。そして私が視界に入った瞬間、
"ou"とやや驚いた声を上げた。
"pentant yunk, an en xaklat ti xa atu. mir xilhi an at xille"
突然、彼は執事がやりそうな格好で胸に手を当ててお辞儀をした。なんだかよく分からないが、友好的な感じには違いない。
私はどう返事をしたらいいものか分からず困った。私が異世界人であるということは悪戯に周りに知らせるべきではなかろう。余計な混乱を招くだけだ。
それに今のところこの世界の人はレインしか知らない。異世界人に寛容なのはもしかしたら彼女だけかもしれない。
「あむ ...... 」
私はレインがやるように口ごもって見せた。男性に気付か れない よう 目を 微かに 動かしてレインを見ると、勘の良い彼女は気付かれないように助け舟を出してくれた。
レインは彼の後ろでスカートをちょいと上に持ち上げて膝を軽く曲げるポーズをしていた。英語でいうカーツィのポーズだ。洋画で貴婦人がよくやるアレだ。 68
立ち上がってカーツィをすると、男性は"arxe, arxe alteems. anestol"と言った。私は微笑をたたえながらも、頭の中では脳をフル回転させて慣れない言語の文を理解していた。
恐らく彼はアルシェ=アルテームスというのだろう。最後のアネストルは「よろしく」という意味に違いない。
"non et xion, anestol"
私の言い方があまりに自然だったのだろう、レインは目をまんまるにして私を見てきた。まるで「あなた本当は喋れたの?」と言いたげな顔だ。
なんのことはない。ただ彼の発音を正確に真似し、恐らく「よろしく」であろう単語を彼のイントネーション通りに返しただけだ。
"tu et imyu xel lein meld semaim a ra. xink, an lunak atu lana xiit lu a xelk. ol ti ris elf tu, son ans ke das ok xok?"
困った、何一つ分からない。男性はまったく容赦ない速度で話しかけてくる。レインが今までいかにゆっくり話してくれていたかが分かる。
チラとレインを見ると、彼女は小さく頷いていた。私は日本人お得意の曖昧スマイルを浮かべつつ、おしとやかで無口な女を装ってゆったりと頷いた。
"pin etto, lena et vokka im tur ento tyu na ax ban tatta lena e..."
レインが何か男性に言うと、彼は笑顔で"passo, son fit kap al an im tiis em vek a"と言い、コートを再び羽織って出て行った。
ドアに鍵をかけると、レインは居間の椅子に戻る。
「あの ...... 今のアルシェって人は誰? あと、どうして出て行っちゃったの?」
"haa, non nat nik mil tyu wit a la ranel. len tyu et lexe ter. hai, la et arxe, salan noan tisse, fien tyu alna vil tu"
「えーと ...... ごめん、レイン。あなた早口に戻ってるよ。それじゃ聞き取れないって」
"dina, non pinat lena xelk kokko etto. non lo la xakl sil tyu te arban, tet tu et passo mil la siina soa kul na. diin non xax fan arka du fein kalt tu. kes, non xax fan freyu"
互いに少しも通じていない気がする。通じているとすれば偶々同じことを考えているときだけだ。前途多難だなぁ。
69
またアルカを教えることにしたらしい。彼女は突如寸劇を始めた。確かテンスとアスペクトまで教わったんだった。次は何だろう。
レインは右を向いて"den in"と言う。左を向いて、地図を見ようとして、"ax, an en in"と言って顔を手で覆った。
なるほど、読めてきた。これは「見るな」の芝居だろう。禁止はdenを動詞の前につけるようだ。
"tur non ransik den, son kes, to eyo"
私の本を取り、昨日書いた文字の表を指し、tes, ket, xal, solという文字を歌詞にした歌を歌いだした。どうもこれは文字の覚え歌のようだ。面白い。
聞いてみたところ音域が狭く、1オクターブ以内で収めてある。また、4文字ごとに1小節を取っており、計5小節で終わっている。綺麗にできた歌だ。これは面白いものを聞いた。
"tur non miksik"
「『いま、私はミクス』したって言いたいの? miksが『歌う』ね。うん、分かった」
レインはこちらに手のひらを向け、"ren miks"という。今のを歌えということか。
「テー、テー。無理だよ、いま聞いたばかりだし」
"son, tyu miks vil"
「ソンって何? 接続詞的なものかな。そういえば何度も文頭で出てきてるよね。残りの文は"tyu miks vil"、つまり『あなたは歌うヴィル』。うーん、ヴィルが分かんない」
"non miks sen, ya?"
「いやぁ、『やっ?』って言われても」
"tal, tyu miks vil"
どうやら私が「歌うヴィル」で、レインが「歌うセン」らしい。だけどヴィルとセンの意味が分からない。動詞にかかっているのかな。だとしたらこれらは副詞だ。
もうテンスやアスペクトは習ったし、肯定か否定の問題でもなさそう。他には何があるだろう。「歌いたい」と「歌いたくない」とか? そうか、希望か。
「なるほど、ヤーヤー。『〜したい』とか『〜したくない』ってことね」
"alna? son, miks xiit"
「シートって何?」
"non miks. yan tyu ren miks" 70
レインが歌って、ヤン...... これも文頭で多く出るね...... 何かの順接かな。で、私に歌ってくれ、と。つまり、一緒に歌いましょうってこと?
でも歌えない。歌を知らないから。しょうがない、こうしよう。
私は立ち上がり、"luk xiit"と言って歩くと、レインも歩く。よし、xiitは「〜しましょう」で間違いない。
レインはパンを台所から千切って持ってきた。そして"tu et atx"と言う。「うん、おいしいね」と私は頷く。彼女はそれを地面に落とす。
"tu at atx"
どうやら「これはおいしかった」と言いたいようだ。地面に落としたせいで今現在はまずくなったということだろう。atというのは動詞の過去形の語尾のようだが、単独で使うと繋辞――be動詞の過去形にもなるようだ。
となると、etはやっぱり繋辞か。etの過去形はetatでなくatだけでいいようね。
"hai, tu pof et yaamo"
トゥ・ポフ? どういう意味だろう。直訳すると「これパン」だけど...... 。
もしかして、代名詞の「これ」は形容詞にもなって、前置して「この」になるのかもしれない。そしたら、「このパンはもうまずい」という意味か。はいはい、了解です。
"son, non xen rin tu"
ソンが「だから」や「そして」だとすると...... 、「だから私はこれをシェン・リン」。
レインは落としてないパンのひとかけを取り 、"tal tu et atx"と言った。
タルっていうのも接続詞かな? まずいパンとおいしいパンの対比。ってことは逆接かな。talの意味は「しかし」が妥当。...... でも「一方」かもしれない。
"son non xen lan tu"
「だから私はこれをシェン・ラン」とはどういう意味だろう。
落ちたまずいパンは「食べるリン」で、落ちてないおいしいパンは「食べるラン」。うーむ、そろそろ難しくなってきたな。
なんだろ...... ランは希望かな。でも希望はさっき出てきたsenじゃなかったっけ。じゃあ意思? 意思かもしれない。ほら、「食べよう」とか。多分そうね。
"tur, tyu felik 4 freyu teu sen, vil, lan, rin"
71
レインは辞書の背表紙の"407"という字を指して"tyu isk vil. non isk sen"と言った。イスクとはどういう意味だろう。
"lein, isk et to?"
"aa, non xax ax teelvet na"
ふいに彼女は文字の表を書きはじめた。
t k x s n m v b f p d g y w c l r l z j a i o e
「これは ...... 何の表?」
レインは"aaaaaaaa, xxxxxxxxxxxxxx, ttttttttttttttt"と言った。日本語にすると「あーーー、しゅーーー(息だけ)、っっっっっと」という感じ。
彼女は表の左列にあるa, x, tの字を順番に指差しながら、axtという単語を一文字ずつ読む。そしていま指差した3つの文字を、今度は右の列を使って同じように順番に指差していく。
左列がaの場合、同じ行の右列はiになっている。左がxのときは右がsで、左がtのときは右がkになっている。目を追っていくと、それはiskという3つの文字だった。
つまり、axtはこの表を使うとiskに置き換わるということだ。
しかし、だから何なのだろう。彼女はパズルをしたいのだろうか。
「や、私はイスクの意味を聞いてるんだけど」 72
と言ったところで、ふと気付いた。
「イスクはこの表ではアシュトに置き換わるわけよね。で、アシュトは『書く』。じゃあ、イスクは ...... 」
レインは頭を振って、"non isk"と言いながら、本を取ってぱらぱらページをめくって読む振りをした。
「まさか ...... イスクは読むなの? この表ってそういう意味なの? 左列の単語を右列で置き換えると意味が逆になるってこと?」
"tyu alna eks t'isk,? az tyu xir ova fein e?"
レインは部屋に入っていく人の絵を描いた。
"tu et lat"
次に出て行く人の絵を描く。
"yan tu et rik"
そして表でlatがrikに変換できることを指で示した。
「入るがlatで、出るがrikってことなのね。この表を使えば反対語が作れるんだ。すごーい!」
まさかそんな言語があるなんて。地球じゃ考えられないわ。だけど、いくら異世界だからってこんな都合のいいことがあるのかな。言語学的にありえないよね。この性質は人為的に作られたものとしか思えない。
ただ、この変換テーブルはすべての概念に適応しているわけじゃないわね。例えば大きいはkaiだった。この表で変換すると小さいはtiaになるはず。でも小さいはlisって言ってたもの。
レインはふたたび辞書の背表紙の"407"という字を指して"tyu isk vil. non isk sen"と言った。iskは分かるようになった。「読む」ね。
でもsenが希望だとしたら「あなたは読みたくない。私は読みたい」になる。訳に何か違和感がある。
もしかしてsenは希望じゃなくて可能なのではないか。つまり「あなたは読めない。私は読める」。
...... そうだ、そうだ。senは希望じゃない。可能だ。じゃあさっきの"miks sen"と"miks vil"は「歌える」と「歌えない」か。 73
私は自分の誤りに気付いた。
「危うく間違えたまま覚えるとこだったよ...... 」
教科書で英語を勉強する場合は日本語で説明してくれるからまだ楽だ。こっちは覚えた内容が合っている保証すらない。だからこそ解釈を間違えないようにひとつずつ確認していくしかない。実地調査というかフィールドワークは地道な作業だ。
さて、そうするとlanとrinが「〜したい」と「〜したくない」になる可能性も出てくるわね。「落ちたまずいパンを食べたくない」だと意味が通る。
"ya, non isk vil tu, lein"
私は単語を細切れに話す。レインも聞き取らせるために区切って話してくる。そうでないと聞き取れない。今だってギリギリだ。
"tyu xen lan tu pof?"
"a... ya"本当は食べたくないが、授業だ。多分向こうは肯定を求めている。合わせよう。
"son, tyu xen flen tu"
食べたいなら、「じゃあこれをシェン・フレン」ってとこかな? flenは可能かな。senが能力可能で、flenが状況可能かもしれない。中国語にこの区別があるように。どちらか確かめてみよう。
能力可能と状況可能を明確に分けるためには...... 。うーん、ハッキリとは思いつかないわね。広義に解釈していけばどちらも同じような意味合いだし。
いや、ちょっと待った。...... もしかしたらflenは可能じゃないかもしれない。許可でもこの文だと意味が通る。そうだ、許可かもしれない。いったん許可のほうで保留にしておこう。
許可があるということは不許可もあるのではないか。わざと許可されないことをやってみよう。
落ちたパンを取り、"tu et to?"と言いながら地面に落とした。行為のことをトゥと言えるか甚だ不安だが、今は動詞の話をしているので通じるはずだ。
レインは察しよく"tyu met pof"と答えてくれた。よし、落とすはメットね。じゃあ......。
台所に行き、皿を取ってくる。そして少し怒られるかもしれない不安とともに、"non met 74 flen hat?"と聞いた。首を振りながら、これは演技だと伝えつつ。
気持ちはレインに届いたようだ。レインは苦笑しながら"tee, hao, tyu met xin hat"と言った。
ハオというのは分からないが、状況からするに「馬鹿ね」とか「しょうがないなぁ」とか「何言ってるの」とか「当たり前じゃない」とか「当然よ」とか、そういった意味合いだろうか。
いずれにせよ皿を落としてはいけないと言われたようだ。なら不許可を意味する単語はxinということになる。xinが不可能を意味する可能性も残っているが、皿を落としてはいけないという例から考えると不許可のほうがふさわしい。
...... にしても、そろそろ集中力が途切れてきた。
「うー、ちょっと休憩...... 」
勉強に疲れた私は椅子の背もたれに寄りかかり、天を仰いだ。
「もう頭がパンクしそうだよ〜」
大きく息を吐きながらレインを見る。彼女は穏やかな顔で微笑んでいる。
この子、よく疲れないなぁ...... 。ふだんからよく勉強してるのかね。
「あー、喋ったから喉乾いた」
一人でぶーぶー言ってると、レインは台所に引っ込んでいった。
ティーポットにお湯を注ぐ音がする。気を利かせてお茶を淹れてくれているようだ。
「...... お嫁にきてください」
思わず呟いてしまった。
ぼーっと彼女の後ろ姿を眺める。
面白い服を着ている。昨日は普通のセーターとスカートだったが、今日はシャツの上にケープだ。下はスカートを穿いている。
それでこのスカートが変わっている。前と後ろ2枚の布を紐で繋ぎ合わせてできているのだ。
布は重なり合っているのでスリットはあるものの、脚は見えない。人が動くとスリットもつられて動くので、こちらの目も釣られ――もとい、つられる。女同士だが何となく気になって目で追ってしまう。 75
レインの性格上、挑発的な服装をするとは思えない。となると恐らくこのスカートはここで一般的に穿かれているものなのだろう。
しかしまぁ、よく考えれば見えないんだから挑発的ではないな。
「お茶淹れてくれたの? 運ぼうか?」
立ち上がって台所に行く。レインは既に紅茶をトレイに載せて運ぼうとしていた。手際がいい。
「あ、スカートの帯がはみ出てるよ」
内側に 仕舞ってあげようと思い、くいっと引っ張った。
その瞬間――
「わっ、きゃあああ!」
私の声ではない。レインの悲鳴だ。あまりに日本語っぽかったので平仮名にしてみた。
彼女はバッとスカートを押さえてしゃがみこんだ。スリットが初めて期待通りの役目を果たす。トレイが宙を舞い、ガシャーンと盛大な音がしてカップが割れた。
――しまった、そういう仕組のスカートだったのか。どうやらこの帯はパンドラの箱だったようだ。引くと素敵なイベントが起こるフラグらしい。
姫君は下を向いてわなわなと震えていらっしゃる。
彼女の体からオーラが立ちこめるのがはっきりと見えた。
"xiiiiii...!"
「紫苑」と言いたいのか「死ね」と言いたいのか。
ともあれ、次に教えてほしい言葉が決まった。「ごめんなさい」。
惨劇の後どうにか機嫌を取り繕い、続きを教えてもらうことになった。
ちなみにあのスカートはルフィというらしい。ケープはラーサだそうだ。
トラウマになったのか、レインはふつうのスカートに穿き替えてしまった。ビジュアル的においし...... 惜しいことをした。
"see non xax fan freyu alt e"
彼女は窓を開けにいった。風が入ってきて寒い。
"tyu na sort?"
「あなたはソルトをナしますか」と言ったのかな? 76
"sort et to?"
私が聞くと、レインは冷蔵庫からオレンジジュース、冷凍庫から氷を取ってきた。
"ane, lisikane"と言ってオレンジジュースを指す。語形と物から想像するに、「ジュース、オレンジジュース」と言ったのではないか。
私は冷蔵庫に行き、チラとレインを見る。勝手に開けていいものか迷う。
"ya, leev, tyu hom flen diittemk"
多分「冷蔵庫を開けていいよ」と言ったのだろう。やはりflenは許可のようだ。となると、homが開けるか。
冷蔵庫を開け、ジュースを探す。グレープジュースがあった。
"ane?"
"ya, ane... rebane"
なるほど、複合語の造りは簡単なようね。要はオレンジがリシックで、ブドウがレブ。で、ジュースがアネか。
"hai, tutu ane et diit. diit"
んー、「ジュースはディート」って言いたいのかな。
"yan, vext et sort"
氷を差し出すレイン。「そして氷はソルト」と言ったのね。
「ジュースはちょこっと冷たくて、氷は冷たい」...... と言いたいのかな。ディートは「ちょこっと 冷たい 」でソルトは「冷たい 」ね。
そうか、もしかしたら冷蔵庫のディートテムクのディートもそうかもしれない。ってことは ...... 。
私は冷凍庫を指し、"sorttemk?"と聞いた。するとレインは喜んでヤーヤーと言った。
恐らくdiitは涼しいでsortは冷たいという意味だろう。
じゃあ「熱い」は何だろう?
私は火の絵を描いてこれは何かと聞くと、faiだと言う。なるほど、火はファイか。ファイアに似てると覚えておこう。
"fai et sort?"と首を振りながら聞く。この動作は私たちの中で「本当は答えを知ってて違うと思ってるけどあえて聞くのよ」という意味で使われだしている。
"hao, tee, fai et hart" 77
ここでもまたハオだ。このような当たり前のことを聞いたシーンで出てくる。となると、ハオは「当然」とかそういう意味になるのだろう。そして熱いはhartというようね。じゃあ、暖かいはなんだろう。
辺りを見回してポットからお湯を出し、カップに入れる。
"hart?"
"ya"
そして水を少し足し、"to?"と聞くと、笑顔で"melt"と言う。
なるほど、これで温度の表現は覚えたぞ。それにしてもレインはなんて頭が良いのかしら。
居間に戻ると、レインはふたたび質問をしてくる。
"tyu na sort?"
どうも「あなたは寒いをナしますか」と言いたいようだ。sortは冷たいのことだと思ったが、寒いと冷たいの違いはないのだろうか。
ところで、ナという動詞は何だろう。繋辞ではないから動詞だというのは分かる。思うや感じるの類か。あるいは好きか嫌いかもしれない。
ナの意味が「好き」だとしたらこう試してみよう。私はジュースを取って、"tyu na ane?"と聞いた。すると彼女は「は?」という顔をした。どうもナは好き嫌いには関係ないらしい。ではやはり思うや感じるの類か。
"tyu na sort? lein"
"ya, tyu tan na sort?"
タンというのはなんだろう。構文も同じで内容も同じ。主語が入れ替わっただけ。となると「〜も」という意味だろうか。それとも強調や反復を表すのだろうか。
"ya, non na sort"
"son tyu deyu dia tems?"
デユ・ディアというのは何か。あ、デユに副詞が付いているのか。窓が空いていて寒いのだから、「閉めたらどう?」的なことを言っているのだろう。恐らくデユは「閉める」で、ディアはなんというか...... 提案的な意味合いだろうか。
窓を閉めた。レインは何も言わない。問題なかったようだ。多分diaはwhy don't youの類なのだろう。 78
では主語をnonにしたらshall Iになるのだろうか。私はまた窓を開ける。レインは寒そうな顔をする。
"lein, tyu na sort?"
"ya"
"son, でいいのかな...... まぁ、あなたに合わせて使ってみるよ。son, non deyu dia tems?"
"ya, ret"
やはり"non deyu dia"で「閉めましょうか」になるようだ。
窓を閉める。
"sent"
「セントっていうのがお礼の言葉なの?」
こういう言葉はぜひ覚えておきたいところだ。セントで「ありがとう」。100倍感謝したときはドルと言うに違いない。
レインは台所に行き、コップを取るとpapと言った。そして水を汲んでerと言う。水はerのようだが、お湯はどうなんだろう。
ポットを開けて中のお湯を指し、「エル?」と聞いたらレインは頷いた。どうもお湯と水の区別はないらしい。
"tur, er xa pap"
「ええと、『いま、水はコップをシャします』? シャって何?」
レインは居間に移り、机の上の本を指して"lei xa elen"と言う。
もしかして、シャは「ある」という意味の動詞なのか。シャは目的語にそのまま場所を取れるようだ。
「ヤーヤー、分かったよ」
すると彼女は台所に戻り、水を捨てる。
"er mi pap"
ふむふむ。ミは「ない」で、「水がコップにない」という意味か。
レインは再度居間に戻り、私の本に絵を描く。水の入ってないコップと今の時刻、9時だ。
そして人間の絵をデフォルメして描く。棒人間のようないい加減な絵だ。でも胴体が棒79 でなく縦長の細い丸になっていて、手足も丸でできているから、日本のものとは少し異なる。
続けてレインは時計をいくつか描き、時間を進めていった。そして順に絵の人間をよたよたさせていき、手で喉を押さえさせ、吹き出しの中に"er!"と書いた。未だに絵の中のコップは空だ。
"lein, tu xen lan er?"
"tee, en tu. lu. lu xen lan er"
tuでなくluを使えということか。棒人間は人なので「これ」でなく「彼」にすべきということだろう。luで「彼」のようだ。enというのは否定だろう。notに当たるものだと思う。
私はパンを手に取る。
"lein, tu et en elen?"
"ya, tu te elen tet pof"
さしずめ「うん、これは机じゃない。しかしパンだ」といったところか。やはりenは否定らしい。
teというのは何度か今までに出てきたが、今の解釈からいくと、「〜でない」の意味ではないか。en etにあたるものだろう。
紙にen et = teと書いて見せたら、レインはヤーと言った。ただ、少し考えてから彼女はen et = deと書き足した。
「テとデは同じ意味なの?」
するとレインは二行書き足した。一行目にan, ti, de、二行目にnon, tyu, teと書いた。ここか ら察するに女言葉だとteで、それ以外はdeを使うようだ。そういえばdeよりもteのほうが音が柔らかい感じがする。
"son, lu xen lan er?"と最後の局面を指して聞く。「ソン、彼は水を飲みたい?」という意味のつもりだが、これで合っているのだろうか...... 。
"ya. yan, im tikno"と9時のシーンを指す。"lu xen rin er"
「ヤーヤー」
"tal, im kalzas"と9時間後の18時のシーンを指す。"lu xen lan er. lu xen fal er"
どうやらここでは新しい副詞のfalを教えたいようだ。rinは「〜したくない」で、lan80 は「〜したい」。さて、falはなんだろう。
9時の時点では水を飲んだからもう飲みたくない。でも18時になったら喉が渇いたので水を飲みたいし、同時に「水を飲むファル」するわけよね。さて、ファルはどういう意味だろう。
彼は水が飲みたいし、水をシェン・ファルする。意思の問題として飲みたいし、体の生理的な問題として水を飲む必要があるって言いたいのかな。
となるとファルは必要とか義務を表す副詞ってことかもしれない。つまり「水を飲まなくてはならない」のような。
"hai, non axt fan freyu wen le nan xaxes a tyu. diin tisoa"
彼女は笑って拍手した。拍手はどういう意味なのだろう。日本と同じで褒め称えるときなどに使うのか? つまり ...... これでひと段落着いたということか?
その後、レインは表を描いた。これまでの復習内容だった。私はレインの表を元に日本語を交えつつ、独自の表をノートに作った。通時欄の無標というのは「特に断りがなければアルカでは動詞の時制は通時がデフォルトになる」という意味だ。 81 ・テンス(時制)・テンス(時制)・テンス(時制)・テンス(時制)
過去 現在 未来 通時 at tur sil 無標
・アスペクト(相)・アスペクト(相)・アスペクト(相)・アスペクト(相)
将然 相 開始相 経過相 完了相 継続相 sat kit or ik es
将然 相 〜しようとしている 行為の開始時点よりも前の時点 開始相 〜し始める 行為の開始時点 経過相 〜している 行為の開始時点と完了時点の間 完了相 〜し終わった 行為 の完了 時点 継続相 〜してある 行為の 完了時点よりも後の時点 82 ・法副詞・法副詞・法副詞・法副詞
勧誘 〜しましょう 提案 〜したらどうか 許可 〜してもよい 不許可 〜してはいけない xiit dia flen xin
希望 〜したい 反希望 〜したくない 可能 〜できる 不可能 〜できない lan rin sen vil
命令 〜しろ 禁止 〜するな re den
83
ここで習った副詞は助動詞的に使われるので、法副詞と呼ぶことにした。言語学では「〜したい」などのことを法性とかモダリティという。
"haa! hac luut et myul a mana xan. lol lol an!"
レインはエサ缶を前にした猫のようにキラキラした目でまとめ書きの文字を見つめている。
そりゃ1画の表音文字を使ってる人間からすれば「何てごちゃごちゃした非合理的な文字を使うものかしら」と映るでしょうねぇ...... 。でも、漢字は漢字で凄いのよ。横長じゃないから省エネなのよ。なんて言っても分からないでしょうけど。
"nee, xion. tutu et hac t'eld tuan?"
しきりに文字を指差してくる。何この爛々とした瞳は。
「あぁ、これは私の国の言葉と文字よ。ジャパ...... 日本語っていうの。tu et nihongo, tu et kanji...... わかるかな?」
"qm... かんじ? tu et myul a harma in, fien tu et ikal fein. xom len el jins fan tu lex mana nod harma na"
顎に手を置くレイン。何か考えているようだ。私は微笑むと、ひらがなで「しおん」と書いてみせる。
「nee, これが紫苑よ。tu et xion. ほら、最初のが『し』」
レインの手を取って「し」の上に指を持ってくる。
"xion...? tu hac kim yunen xal et "xi" eyo? non lo... tu hac eks veel kok yula e"
「で、こっちが『お』ね。最後のが『ん』よ」
"hqmm, tu hac et xep on axt. it am el axt ax tu?"
何か聞いてくるが、こちらは分からないので苦笑して首を傾けるだけ。レインは両手を軽く前に出しておへそより少し高い位置で横に開いた。腕を回転させ、手の甲が見えていた状態から手の平が見える状態にした。欧米人が「やれやれ」というときにやる動作に少し似ている。
彼女は紙にペンを走らせると、私の書き順を真似て「しおん」と書いた。へたっぴだけど、初めてにしては上出来だ。
「すごいじゃない」
褒められたのが分かったのか、レインは照れくさそうに笑った。 84
続けて漢字とカタカナも教えようかと思ったが、混乱するだろうし、止めておいた。と同時に、日本語の表記体系が複雑であることに気付かされた。
外国語をやることで自国語がよく見えるようになるというが、まさに今それを実感した。たった25文字ですべてを表すこの言語は合理的といえる。それが優れているかは別として。
合理的といえば、活用や曲用がほとんどないところもそうだ。過去形に接尾辞のatを付けるといった現象も、あくまで頻度の高い時制にしか現れない。
フランス語みたいに代名詞ごとに動詞の活用形が変わることもないし、とても楽だ。アルバザード語の活用は意味を伝える上で必要なものしかない。かなりコンパクトな言語だ。
なんにせよ学習しやすくてよかったわ。でも、異世界の言語ってこうなのかしら。ここはアルバザードっていうらしいから恐らくこの言語はアルバザード語というのだろうけど、ほかの国の言語もこんなに簡単なのかしら。
「アルバザード人ってほかの言葉も喋れるの?」
"to?"
もちろんレインには通じない。「言葉」は何と言うのか。どうやって言葉という言葉を教え てもらえばいいのか。
「『言う』とか『喋る』って何ていうの?」
口の前で手をパクパクさせるが、レインは首を傾げるだけ。
「あー、あー。tur, non... to?」
"aa, aa, tur, tyu rens?"
通じた ...... か?
トは「何をするのか?」という疑問の代動詞になれるようだ。こういうのは代名詞の動詞版で代動詞という。
合理的な言語バンザイ。I am whatingと言えれば英語はどんなに楽だろう。
とりあえず何か喋ることはレンスだと分かった。しかしこれは単に声を出すという意味かもしれない。私は文字の表を指でなぞった。
"lein. tes, ket, xal, sol.... tur, non to?"
"tyu rensik hacm"
どうやら音声だけでなく言葉を言ったときもレンスでいいらしい。speak, talk, sayなど85 の違いはないのだろうか。
あと、思いがけず面白いことが分かった。この言語の文字はハルムというらしい。
"lein, ren rens tu hacm"
これでいいかなと思いつつ、mを指す。
"mir. tu et mir"
やった、通じた。凄いぞ、私。
私は耳に手を当てて、"non to?"と言った。こちらが知覚動詞を集めたがっていると分かったのだろう、苦笑して"tee, tee, tyu mox xin las kol a tem kol hot mil tu eks "an ter vil ti". son tyu yol fal las io a tem io yun soa"と言い、両手を両耳に当てた。聞くというジェスチャーはこうだと言いたげだ。私はすぐに真似をする。
"tyu ter"
なるほど、聞くはテルか。耳がテムだから似ているな。
よし、流れを崩しちゃいけない。彼女がこちらの意図を汲んでいる間に聞こう。
私はパンをくんくん嗅ぎ、これは何という動作か聞いた。すると嗅ぐはトアンだという。鼻がトアだから似ている。
次に右手で左手を触る。すると触るはオジュだと教えてくれた。
レインはパンを口に入れ、舌を口の中で動かし、ショイトだと言った。味わうという意味だろう。
最後にレインはじっと黙って、急にハッとして"navn!"と言った。何か思いついたのか。しかし何も言わず、その寸劇を繰り返す。このハッとする行為がナヴンだということは分かった。だが、五感 には関係ない。いきなり話が飛んだなと思った。
結局何度説明されてもナヴンの意味が分からなかった。もしかして五感 というのは日本人の数え方であって、アルバザードでは六感まであるのかもしれない。でも、何の感覚器官を使った表現なんだろう。文化が違うから色んなところで常識が通じなくて困る。
まぁいい、労力の無駄だ。これは放っておこう。
地球の地図を指す。そこに人を描き、レインがやったような吹き出しを作り、その中に
「おはよう」と書いた。
"lein, lu rens to?" 86
"en ser. lu rens eld tuan sete. ap, tet tu hac eks "oo" e?"
セルというのは聞いた覚えがある。エン・ セルというのは 動詞の否定形か。この状況からするに、「知らない」とか「分からない」とか「さぁ」とかそういう類だろう。
最後のセテはよくレインが言う言葉だ。多分何らかのモダリティを表しているのだろう。
問題はeld tuanだ。「あなたのエルド」だが、今の訳はおよそ「さぁ、彼はあなたのエルドを喋っている」だろう。となると、エルドが「言語」なのではないか。「文字」という解釈もありえるが、「文字」はハルムだと既に分かっている。
私はアルバザードの地図の上にペンを持っていき、"axt flen?"と聞いた。レインは頷く。良かった、協力惜しみないようだ。人を描いて吹き出しに"soonoyun"と書く。今朝聞いた言葉だ。
"lu rens eld tuan?"
"ya, lu rens eld lenan"
「レナンって何? lenan et to?」
"lenan... aa, ova..."
彼女は紙に人を描き、nonと描いた。そして横にもう一人描いてtyuと描いた。そしてその2人を丸で囲んでlenaと描いた。なるほど、レナはweのことか。
レナが「私たち」だというのは分かった。今問うたのはレナンだが、彼女はレナを代わりに答えた。エルドにかかっているからレナンは「私たちの」に相当するものと思われる。語形もよく似ている。
"son... lein, eld tuan et to? arbazardeld?"
"tu tan et tia. tal tu et arka"
ええと、「それも肯定」...... と言ったのかな。ティアは「正しい」と訳したほうがいいようね。つまり「それも正しい。けど、それはアルカ」と言ったのね。この言語の名前はアルカっていうのか。
「アルカ?」
"ya"
"eld tuan et arka?"
"ya, arka"
やはりアルバザード語はアルカというらしい。では他の国はどうか。私はアメリカに当たるルティアという国を指した。 87
"eld e lutia et to?"
"tiaren, arka"
ひとつずつ区切って教えてくれる。ルティア国はティアレンとアルカを使うらしい。アルカってわりと離れた国でも使われてるんだな。つまりアルバザードはそれだけ強国ということか。
何度か同じ作業を繰り返しているうちに、面白いことに気付いた。世界のかなりの部分でその国土着の言語以外にアルカが使われているのだ。英語以上にグローバルなようだ。
一般に言語は広まるほど単純になる傾向がある。となるとアルカが合理的な言語だというのにも納得が行く。
もっとも、いくら簡略化されようとaxtとisk、すなわち書くと読むのような例は生まれるはずがない。あれは明らかに自然言語にはない作為を感じる。
待てよ ...... 自然言語にはない...... ?
ならもしかしてアルカは人工言語なのではないか。エスペラントのような。そうだ、その可能性もあった。仮に世界が人工言語を採択したのだとしたら?
でも、おかしいな。採択したところでそう簡単に人工言語が広まるものだろうか。メジャーな言語を話す人がわざわざマイナーな言語を話す人のために人工言語を勉強しようとするだろうか。
逆に、マイナーな言語を話す人がお金にも商売にもならない人工言語を勉強するだろうか。特に貧乏な国の人は生活がかかっているから、すぐにでもお金になる言葉を覚えようとするはずだ。観光地の英語のように。
そもそも歴史を見れば分かるとおり、言語が広まる要因は人口や軍事力や経済力であって、慈善事業でも平和でも理想でもない。結局強い国の言葉が普及するわけで、そこに人工言語が介在する余地はない。
もしアルカが人工言語だとしたら、世界に広まるはずがない。しかし、この合理性は自然言語ではありえない。どういうことだろう。
折衷案はどうだろう。アルカはもともと英語のような何らかの自然言語だったが、普及していく上で人工言語として合理的に改良されたとか 。これならありえる。発想自体はオグデンのベーシックイングリッシュと同じだ。
だがそれを世界規模で広めるにはかなりの技術力が必要だ。地球では少なくとも無理だ。88 いまだに電話線さえ引かれていない地域が多い。
にもかかわらずこの世界では既に人工言語の普及が実現されているというのだろうか。いやいや、まだこれが人工言語と決まったわけではない。頭を冷やそう。
次に教える課題が決まったのか、レインは二階 に上がっていった。また何か小道具を持ってくるのだろうなと思っていたが、待てど暮らせど帰ってこない。
おかしいなと思い、二階 に上がってみた。廊下の右手がレインの部屋なのだが、そこを覗いても彼女の姿はなかった。
「私の借りてる部屋かな?」
ドアを開けるとそこにはレインがいた。
なぜか彼女は困惑した表情で立ち尽くしていた。目の前には何かの箱がある。
「どうしたの?」
彼女は私を見ると困ったような顔をし、一度自分の部屋に引っ込んだ。
机の上には空の箱がひとつ。何が入っていたのだろう。
戻ってきたレインは薄桃色の財布を手にしていた。花の刺繍がしてある。
"xion, in"
硬貨を取り出して見せてくる。銀色の小さい硬貨には数字らしき文字が書かれている。どちらが表かは分からないが、反対側には橋の絵が描かれている。
"kit, non xax ax alx palmel"
レインはメモに文字を書きだす。
0, 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9
辞書の表紙で見た字だ。硬貨にも書かれている。数字だろうか。
レインは拳を作ってユーと言った。次に指を1本立ててコーと言い、2本立ててターと続ける。
やはり数字のようだ。10進法らしい。ここでは人差し指から立てて数えていくみたいだ。
はじめ のが0で、次が1か。0と1はアラビア数字と形が同じだが、後の字は似ても似つかない。 89
これらが数だとは分かったが、読みが分からないのでレインの吐息に耳を傾けた。それによると0〜9はyuu, ko, ta, vi, val, lin, kis, nol, ten, losというらしい。4以降は順繰りにl, n, sの子音が語末に付いている。
10はonで、11はonko。100はgalで、1,000はkotだそうだ。ややこしいことに10,000はsenというらしい。日本語と違い、一万というときkosenとは言わず、単にsenというようだ。
位取りは4桁ずつなので日本語と同じようだ。桁区切りには'記号を使っている。例えば12,345なら1'2345と書いてsen takot vigal valon linと読むようだ。
数に関しては日本語と同じ数え方だから私には易しいみたいね。
数を教えると、彼女は改めて財布から色々なお金を出した。机の上にざっと並べる。
見たところ硬貨が1, 5, 10, 50, 100で、紙幣が500, 1000, 5000, 10000の計9種のようだ。穴あき硬貨はない。
"tu et rang, ko solt"
一番小さい1と書かれた硬貨を指して言う。どうやらこの国のお金の単位はソルトというらしい。そして1ソルト玉のことをラングというようだ。描かれている橋の名前だろう。
次にレインは下から小さめの缶ジュースを持ってきて、メモに25 soltと書いた。
缶ジュースが25ソルトか。日本のスーパーで約100円だとすると、およそ1ソルト4円の計算ね。
ところでさっき困ったような顔をしていたが、この箱には何が入っていたのだろう。今お金について説明したってことは、状況から考えて現金か。
箱の中を指して"to solt? to solt?"と繰り返すと意図が伝わったのか、メモに25'0000 soltと書いた。
「ほ ぅ、25万ソルト ...... 」
計算に一瞬手間取る。
「――って、100万円じゃない!?」
思わずぐはぁっと血を吐きそうなくらい驚いた。
そりゃ困った顔にもなるわな。てゆうか私だったらもっとオロオロしている。
「え、なに、ここに100万も入れてたの!? で、それがなくなっちゃったってこと!?」 90
"papa nektates gil atu. non o papa hot ser tu e"
「ねぇ、それって盗まれたってこと? だとしたら昨日の覆面なんじゃないの?」
軽くレインの肩を揺らす私。言葉が通じないってじれったい。
私はメモに覆面の絵を描いてお金を持たせ、「?」マークを添えた。「こいつが下手人では?」という意味だ。しかしレインは首を振る。
彼女は自分と父親の写真を見せると、一人ずつ指を差し、箱に写真をくっつけた。
「つまり ...... この箱のことを知っていたのはレインとお父さんだけって言いたいの?」
じゃあ普通に考えてお父さんが使ったんじゃないのか。盗まれたとかではなく。でもレインの顔色を見ているととてもそういう感じではない。
お父さんでもない、覆面でもない。むろん私でもない。となると誰が100万円もの大金を...... 。
恐らくレインは私に言葉を教えようと小道具を探している最中に、100万円が消えているのに気付いたのだろう。タンス預金などそんなに頻繁に確認するものでもないからな。
だとしたら無くなったのは昨日今日の話ではない可能性もある。本当に心当たりがないのだとしたら警察に届けるべきだと思うが、それを彼女に伝える術がない。
"passo... tu et saia e... tet, non pent papa mil vanot vil gil laat nyam..."
顔色が優れぬままレインは居間へ戻った。何となく空気が重い。励ましの言葉さえかけてあげられないのがもどかしい。
それにしても消えた100万円の謎か。穏やかじゃないわね。
私は静かに首を振った。
一階に戻ったレインは気を取り直して授業を再開した。一方こちらは警察に届けなくていいのだろうかと気が気でない。
"kes, non xax lan isti. non axt eda i tur. son ren in ranel, ren mal, passo?"
レインは私の本に何やら表を書き出した。そこにはan, ti, lu, tu, le, toなどが書いてあった。
91 isti asm ilm vaik xek fik jig yuu apia kum ne illan veilan xelan filan wellan yuulan mol luni to iltul veitul xetul fitul weltul yuutul mol
apiaisti
anapia tiapia luapia elapia
kum
an
ti frem:lu
el flon:la
luni
frem:tu flon:le
92
「これは代名詞の表?」
私はじっくり分析した。まずは下の表だ。こちらのほうが知っている語が多い。アンが1人称でティが2人称なのは分かっている。彼がルゥなので3人称。
ということは、エルは4人称になる。アルカには4人称まであるのか。その意味は察せないが。
ルニは3人称で初めて出現する。トゥが「これ」で、レが「あれ」だ。となるとクムは
「有生」でルニは「無生」ということだろう。
また、トゥにフレムと書いてあり、レにフロンと書いてある。axtとiskのように、音が変換関係にあるようだ。ただし、語頭のfを除いてだが。となるとこれらは反対語なのだろう。
意味は ...... 「これ」と「あれ」なので、フレムが「近い」でフロンが「遠い」だろうか。自信はないが。
彼はルゥだと思っていたが、よく見るとラーもあるようだ。フロンが「遠い」だとするなら、ラーは「遠くにいる彼」ということになる。恐らくルゥは「近くにいる彼」の意味だろう。実験してみよう。
私は本に棒人間を描いて、nonと言った。そして近くに棒人間をもう一人書いて、「ルゥ?」と聞く。レインは肯う。今度は遠くに棒人間を描き、今度は「ラー?」と聞く。するとレインは再度肯った。
よし、やはり遠近の問題のようだ。つまりluは「この人」でlaは「あの人」ということになる。
アルカは「こ」「そ」「あ」ではなく、近いか遠いかの2つしかな いのね。thisとthatしかない英語のようなものか。
ときに、下の表がapiaistiで、上のがistiとあるが、apiaやistiは何を意味するのだろうか。
上の右端にapiaって書いてあるわね。指示代名詞だけ数が多いから別記ってことかしら。
molは「別記」とか「下記」を意味するのかもしれない。となると恐らくapiaが「指示」で、istiが「代名詞」に当たるのではないか。
ところでアルカで代名詞という言い方は適切なのだろうか。トゥは「この」という意味にもなり、連体詞というか形容詞としても使えた。「このパン」のように。名詞以外にもなれるのなら、代名詞ではなく単に代詞と呼ぶのがふさわしいのではないか。 93
じゃあ下の表は「指示代詞」と訳しましょう。問題は上ねぇ。トが無生で「何?」だから...... アスムっていうのは「疑問」か。そうすると、有生で疑問のネは「誰?」を意味するわけね。ちょっとネを実用してみるか。
辞書をパラパラ捲ると、誰だか知らない人の顔が載っていた。おじさんだけど、とてもかっこいい。
"lein, tu... tee, tee, lu et ne?"
"lu et ca aster, mirok. aster mirok yutia"
ええと、よく分からないけど、何か名前を言ったのね。肩書きとかいま説明したんでしょ。かえって分かりにくいのよね。じゃあ...... 。
"nee, lein, non et ne?"
"tyu et xion"
"ya, son, tyu et ne?"
直訳すると「あんた誰?」なわけで、この聞き方は大丈夫だろうかと心配になる。が、レインは特に嫌な顔もせずに答えてくれた。
"non et lein, lein yutia"
「へぇ、レインってユティアって苗字だったんだ?」
いや待てよ。もしかしてレインが苗字かもしれないじゃん。さっきのアルシェって人もアルシェが苗字だったのかもしれない。
しばし考えたが、私はやはりレインが名前でユティアが苗字だと判断した。
人名の配列は所有の語順を見れば大方わかる。日本語や中国語のように「AのB」、「A的B」という語順だと、ふつう苗字が先に来る。「A家のBさん」という意味が根底にあるからだ。
事実、上代の日本人はそのような名前を持っていたではないか。山上憶良然り、柿本人麻呂然り。
逆に英語のような"B of A"の言語はJohn Smithのような語順を取る。スミス家のジョンという論理が根底にあるからだ。
アルカの場合英語と同じ語順なので、レインはファーストネームだと予想できる。
ただ、それは彼らが姓名を持てばの話だ。例えばアラブでは名前の後に父親の名前が来る。我々が苗字だと思っているものは実は父親の名前 だったりする。例を挙げるとサダム94 =フセインの場合、 フセインは苗字ではなくサダムの父の名前だ。 これと同じ理屈で、レインの持つユティア という語が苗字かどうかは判断できない。
"nee, tyu tan til rast sete? xalet tu te amanze nonno?"
「え、一気に言われても分からないよ」
するとレインは紙に"lein yutia"と書き、並行するように一段下に「しおん ????」と書いた。どうやら私の苗字を知りたいらしい。
「初月よ、はづき。non et xion hazki」
厳密にいえばhadzukiだが、実際の発音に合わせ紙に「hazki(はづき)」と書いてあげた。すると彼女はへぇという顔で頷いた。 そして 少しはしゃいだ顔で平仮名を写すと、5歳児みたいな字を得意げに見せてきた。
「しおん! しおん はずぎ!」
「いや、はづき...... ね」
「はずぎ!」
「...... 」
放っておいて代詞に戻ろう。私はもう一度表を見た。
アルカの代詞は随分体系的ね。kumが「有生」を意味するなら、lanというのは「人」や
「動物」を表すんでしょうね。luniが「無生」なら、tulは「物事」という意味かしら。
レインは本に5人の人間を描いた。それらをすべて囲み、ilと言った。なるほど、ilは「全員」という意味か。続いて2人だけ囲ってveiと言った。これは恐らく「一部」という意味だろう。つまり、全体と部分ね。
次はxeか。レインは一人だけ指差した。xeは「特定の一人」ということか。
続けてフィ。彼女は目を瞑り、適当な一人を指差した。何が言いたいんだろう。任意の誰かであって特定ではないということだろうか。一応頷いておく。
次にレインは台所からオレンジジュースとブドウジュースを持ってきた。
"xion, tyu xen lan wel?"
勘が鋭くなってきた。これは分かる。どちらが飲みたいと言いたいのだろう。つまり、welはどちらかという選択を指すのだ。
betweenとamongの違いはあるのだろうか。私は冷蔵庫を開け、飲み物を探した。おあつらえ向きにリンゴジュースらしき黄味がかった白いジュースを見つけた。それを取り出95 し、机に先のと合わせて3本乗せた。
"lein, tyu xen lan wel?"
"saa, non lax lisikane"
通じた。どうやら3つ以上でもwelでいいらしい。welは「どれ」で決定だ。
ところでラッシュという動詞は何だろう。
"lax et to?"
"aa... mm... tyu xen lan pof. son tyu lax pof. yan, tyu xen lan ane. son tyu lax ane. yan, tyu isk lan lei. son tyu lax lei"
「つまり ...... 『望む』とか『欲しい』ってこと? non lax le melk... tia?」
"ya, tia. el rens sen tu"
なるほど、laxは「望む」でいいようだ。
ところで、今レインは「そう、正しい。あなたはそう言える」のように言ったと思われるが、このとき主語がtyuでなく4人称のelだった。「そう言える」のは私だけでなくこの世の誰でもだからtyuを主語にしなかったのだろう。
4人称のelというのはどうやら総称のyouやtheyのような使い方をするようだ。フランス語のonに最も近いように思える。もっとも、onは3人称だが。
ときに、welの横にあるyuuというのは数字の0と同じだから、これはnobodyなどに相当するものだろう。日本語にすれば「誰も〜ない」や「何も〜ない」だ。
"haa, tyu alna vadel, xion"
レインは感心したように呟いた。
さて、時間は......10時か。それにしても、あの時計の字はなんなんだろう。
「ねぇレイン」
"son, kes et ayua. sa tu... le. ya, xion, in"
レインは本に男の人を2人描く。一人は筋肉モリモリでいかにも強そうだ。もう一人は背は同じだが貧弱そうだ。
"lu et vien. yan lu et ivn" 96
「ええと、これは強弱の話かな。強いがヴィエンで弱いがイーヴンってこと?」
レインは頭が良いので、きっと必要なものから教えてくれるに違いない。アルカに「マッチョな」という形容詞があるかどうか知らないが、それは基本語ではないから今は教えないはずだ。だからヴィエンは単に「強い」という意味だろう。
私は"tu et vien?"と予告してから、バンと机を叩いてみた。予告があったのでレインは驚かず、"ya, vien"と言った。どうもヴィエンは「強い」で確からしい。精神的な強さのほうは例示しにくいので止めておこう。
"tu et xelf. tur, tyu badik elen vienel"
「え?」
聞き取れず、私は首を傾げた。レインは机を叩くと"non badik elen"と言った。
「叩くはバッドというのね、了解」
"yan, tyu badat elen vienel"
「あなたは机を叩いた、ヴィエネル」と言ったようね。ヴィエンは「強い」だけど、エルって何かな。多分「あなたは強く机を叩いた」と言いたいんだろうから、ヴィエネルで
「強く」という副詞になるのかも。じゃあ、弱く叩いた場合はどうなるのだろう。
私は軽く机を叩くと、"non badik elen ivnel?"と聞いた。レインは"ya, soa e"と言った。
"el em l ol tu xike vet le til vesto on het ova kail telen kai. tet tyu loki vil non e..."
悩めるレイン。真面目な顔で考え込んでいる姿はなんだか愛らしい。
「大丈夫よ、だいたい想像つくから。副詞はelを形容詞の後ろに付けるんでしょう?」
レインはうにゃうにゃと何やら呟きながら、不安げに私を見た。
私は歩き出し、"non lukor"と言った。
"tyu xal atu sete? xom tyu rens ax, tio, non luk. tet... vinsa. kokka kakko"
彼女が頷くのを待ってから早足で歩き、"non toor?"と聞いた。
すかさずレインは"tee, en non toor tet non tor"と訂正するような言い方をしてきた。non toorではなくnon torだと言いたいようだ。
toorでなくtorになっているのが不思議だ。経過相にはorを付けるはず。torだとtoにrが付いていることになる。
もしかしてtoのように 母音で終わってる単語、つまり開音節の場合、orでなくrを付けるのではないか。母音連続を防ぐのは日本語にはあまりなじみがないが、言語一般には97 広く見られる性質なので、きっとそういうことだろう。
早歩きをしながら改めて"non tor?"と聞いた。今まで副詞の話題をしていたからレインはこちらの意図を汲んで"tyu luk taxel"と軽快に答えてくれた。「速く」はタシェルだそうだ。となると「速い」はタッシュになる。ダッシュみたいと覚えとこ。
"lein, ren axt, non lukor taxel"
"non lukor taxel"と書くようお願いすると、すぐに応じてくれた。だがよく見ると彼女が書いたのは"non luk taxel"だった。lukorではない。
そういえば今もlukorって言ったとき、ちょっと渋々な反応だったわね。orは経過相でいいのよね...... ?
「うーむ」
呻きながらペンを回す。
レインはチラと見てペンを指差し、"sef kaz a non"と言う。
「カズ? ...... あ、ペンのことかな。セフって何?」
ペンをくれと手を伸ばしてくる。
あ、「渡せ」ってことね。renがなくても命令形になれるみたい。英語と同じだね。
"hqmm... lala es lu hol kaz tis ka el eyo. kamil, tuube maip te xille on kad luut na"
「ねぇ、ア・ノンって何? a non et to?」
レインはペンを持つと、私のほうから自分のほうへ移動させていく。
"tu et a non. aa, yan tur, non sef tu a tyu"と言って今度は私にペンを渡す。
あぁ、つまりア・ノンは「私に」という意味ね。「渡す」という動詞が取る目的語はペンで、その着点はアで表されるのね。アは英語の前置詞toみたいなものか。
"non sef tu a tyu, et, tyu mix tu i non"
「『私があなたにこれを渡す』ことは『あなたはこれを私イ・ミシュする』ことだ」と言ったのね? ミシュは渡すの反対語かな。「受け取る」みたいな。
じゃあイはどんな意味? etの左辺と右辺が同じ内容を指してるんだから、「私はこれを貴方から受け取る」というのが自然な解釈ね。となると、イは奪格を表す前置詞か。英語でい うとfromね。
「ほかに前置詞はどんなのがあるの?」 98
"mm... kes, non xax ax to eyo. ya, tu"
レインは紙に"est noan et lein yutia"と書いた。「私の名前はレイン=ユティアです」といったところだろう。名前はエストというらしい。
そして"sol est noan et yul lein yutia"と書いた。sol, yulとは何だろう。私が分からないという顔をすると、レインはもっと文を簡単にした。
"non et lein. sol non et yul lein. yul lein et sol non"
今は前置詞の話をしているのだから、探すべきは前置詞か。となると恐らくこのソルというのが前置詞で、主語を表すのだろう。同じくユルも前置詞で、目的語を表すのだろう。
この例文を見る限り、ソルとユルは普段は省略されるが、文が倒置されると復活するようだ。
"lein, sol non badat yul elen, tia?"
"tia, tyu rens sen tu"
「そう、そう言っていいのよ」...... ね。やはりソルやユルは主格や対格を表すと見てよい。英語にはない前置詞だ。日本語の「は」と「を」に近い。
私はa, i, sol, yulをまとめて4指で差しながら、"tu et to?"と聞いた。しかしレインは
"tee, tee, tyu rens ax tutu et to?"と修正した。tuの複数形はtutuというようだ。
レインは思い出したように紙に書き足した。まずan, tuusと書いた。そして次の行にはnon, tutuと書く。
なるほど、tuの複数形は女言葉ではtutuで、男言葉ではtuusなのね。うわぁ...... 無生の代名詞にまで位相差があるのか。
再びa, i, sol, yulをまとめて4指で差しながら、"tutu et to?"と聞いた。
"tutu et pea"
「前置詞はペアっていうのね」
そのまま前置詞と訳しても良いのだが、動詞の格を示すので「格詞」としておく。
"xion, in"
レインは絵を描いた。自分と私の絵のようだ。それぞれの名前が書いてある。
ほぅ、絵が巧いのね。しかもデフォルメの仕方が日本の漫画みたい。こういうデフォルメ方法があるということは、この国にも発達した漫画文化があるってことなんでしょうね。 99
絵の中の私たちは家の中で着席している。家には矢印が引っ張ってあり、raと書いてある。柱時計は10時の位置を指している。
そして"lein rens arka ok xion kon klel ka ra im fenzel"と書いた。いまは格詞を教えたいのだろう。
"wel et pea,? lein"と聞くと、レインはok, kon, ka, imを指した。
「意味はだいたい予想できるわ。『レインは紫苑と...... 辞書を使って...... 家で』 ...... 最後が分からないけど」
指で最後の"im fenzel"を指す。するとレインはその下に"im miv 10"と書いた。時間のことらしい。10といえばここでは時間しかない。
フェンゼルというのは10時のことらしい。mivというのはhourのことだろう。ということは、imは時点を 表すことになる。
okは随伴格、konは具格と訳す。随伴者と道具は区別されているようだ。格詞は英語の前置詞より細かい。数が多いのかもしれない。
kaは処格で、imは時格だろう。日常的によく使う格詞を挙げたに違いない。
ふいにレインの左手が淡い緑色の光を放った。どうやら腕時計が光ったようだ。ポケットからケータイのようなものを出して画面に見入るレイン。
"aa, it etto xan. lena leev ax im tur"
「メール?」
レインの手首を見つめる。腕時計かと思ったが違うようで、巻きつけるタイプの端末だった。
「何これ。tu et to?」
"tu et anse tisse"
その機械はアンセというらしい。レインはぽちぽちとケータイの画面をいじると、またポケットにしまった。
"xion, non xar tyu en alna to et to, tet lena kor fan kacte lana akt arxe"
「え、アルシェ? それってさっきの男の人よね。彼がどうかしたの?」
レインは立ち上がると、私の手を引いて玄関へ行く。もしかして外に行くのだろうか。私はとっさに自分の本とレインの辞書を掴んだ。お、重いです...... 。
玄関は日本家屋のように一段低くなっている。靴を履き替える場所がある。そういえば100 レインは室内履きを履いている。スリッパのようなサンダルのような、そんな靴だ。
玄関には外履きらしき靴が置いてある。日本ともアメリカとも違う。日本では家の中で靴を履かない。アメリカでは家の中でも靴なので、ふつう玄関に靴を置かない。アメリカでは靴は服と似たような扱いだ。
アルバザードはその折衷というか、どちらでもない。室内で履く靴と屋外で履く靴を分けているのだろう。その結果、玄関に下駄箱があるようだ。
"eg, hel, tyu xir lasl"
私の足を見てくる。こっちは靴下しか履いていない。
"apen, non. mm... tet tyu til luwa l'et myul a noan on tus. xom tyu ren yol dials noan"
サンダルを出してきた。これを履けということらしい。まぁ、そんなに体格が変わらないし、足の大きさも見たところ同じくらいだ。サンダルなら大丈夫だろう。
言われるままに履いてみる。サイズは問題なかった。
玄関を開けると外は庭だった。花壇には多少花が植えてある。
彼女は左手をドアにかざす。いま何をしたのだろう。鍵はかけないのだろうか。先ほどのアンセをかざしていたが、もしやあれが鍵なのだろうか。電界を利用したものかもしれない。
玄関を出て左手には椅子とテーブルがあった。庭で本でも読みながら腰掛けたいものだ。テーブルの上には透明なボウルがあり、表面がキラキラ光っている。中には水が入っているようだが、なぜか鏡が沈めてあって、それが光を反射している。あれは何だろう。
門までは数十歩。日本の住宅よりも広い。門は立派な造りで、アーチまで付いていた。アーチは私の背丈よりも高いところにある。
家は通りに面していた。昨日の夜とは違って人の往来が少ない。
天気は良く、そんなに寒くもない。時間がずれていなければ今は12月のはずだ。地図で見た限り日本より高緯度なのに、思ったより暖かい。恐らく偏西風の影響だろう。西ヨーロッパと同じ理屈だ。
しばらく歩くと公園に着いた。ちらほらと人影が見える。入ったところのベンチに誰かが座っており、こちらに気付くと立ち上がって手を振ってきた。
「あ、アルシェさんだ」 101
なるほど、彼に会うために来たのか。
「ねぇ、私がいたら邪魔じゃないかな。もしかしてデートなんじゃないの? それに、私が地球人だってバレたらまずくない?」
アルシェさんはコンパスの長い脚で颯爽と歩み寄ると、私とレインに笑顔をくれた。多分25歳くらいだと思うけど、随分カッコイイ人だ。テレビに出ているイケメンよりもずっとイケメンだ。ウチのクラスの松本君はいわんや。
見たところ白人と黄色人種の混血児といったところだろうか。派手な顔ではないから日本人の私から見てもそんなに違和感がない。
茶色い綺麗な髪が光に映え、薄い色の瞳が優しい視線をレインに送っている。スタイルも良いし身なりも清潔だ。
この人、レインの彼氏さんなのかな。だとしたらこんな素敵な相手がいて羨ましいわね。
"qm..."
彼は私の服をチラっと見ると、不思議そうな顔をした。
"ti ke sil felka fin tu et melselnian?"
うむ、さっぱり分からんね。
「ごめん、レイン。もうごまかし効かないみたい」
一語一語ゆっくり話してくれるレインと違って、彼の容赦ないネイティブの発音はほとんど聞き取れない。
両手を合わせてレインの前でお辞儀をすると、彼は少し驚いた顔をして目を開いた。レインは苦笑してアルシェさんに目をやると、ベンチに彼を誘導した。きっと事情を説明するのだろう。私は遠巻きで彼らを見ていた。
時折アルシェさんがこちらを見てくる。そして一度目を大きく広げて凝視してきた。どうやら異世界人であることが伝わったようだ。
彼は私の視線を気にしてか、咳払いをして冷静な顔を装った。この辺りの仕草は日本人と変わらないのだな。
しばらくするとレインが手でちょいちょいと呼んできた。この国では手のひらを上にしてくいくいとやるようだ。
「特に問題なかったみたいね」
"nad elf e, xion. mon lu na nik on tyu et yumanan. tet tu te yet ter. rafa, lu xant fan anse 102 a tyu im kest ter"
レインは私の手を取ると、にっこり微笑んで歩き出した。どうやら話はまとまったようだ。何がどうまとまったのかは分からないが。
再び公園を歩く。ここはとても広く、中にはトイレやお店まであった。
テラス付きの喫茶店に入る。レインたちに連れられ、テラスの席に座る。前掛けをつけたお兄さんがやってきて注文を取る。また生アルバザード人だ。わくわくしながら観察した。
この国のウェイターは日本とそんなに変わらなく見える。汚れてもいいように前掛けをつけるという発想は異世界でも同じなようだ。日本だと注文を書き入れるための伝票や機械を持っているが、彼は手ぶらだ。注文は頭で覚えるらしい。
テーブルにはメニューがなく、ウェイターが小脇に抱えている。必要なら見せてもらうという仕組みのようだ。
私は最初ウェイターの態度に違和感を覚えた。日本人の場合、客に対して地声では接しない。女性は高く、男性も高く喋る。態度も従順で、言葉遣いだけでなく口調も変える。
ところがこのウェイターはふつうの街中の人のようにアルシェさんに話しかけてきた。その言い方は丁寧だが、口調はアルシェさんと変わらない。
ひょっとしてアルシェさんの知り合いなのかなと思ったが、他のウェイターも同じようにしているので違う。どうやらアルバザード人は素で接客するようだ。
アルシェさんはウェイターと世間話らしき口調で何か言うと、それから注文らしき言葉を伝えた。それを見てなるほどと思った。
そうか、この国の人は気さくで自然なんだ。ウェイターも「忙しいんだから話しかけるな」という顔をしない。むしろ楽しそうにしている。こういう文化の違いを見ると外国に来たなという感じがする。
ウェイターが引っ込むと、レインは私の本をくいくいと引っ張り、勉強の再開を暗示した。
「え、ここでやるの? いいけど、デートの途中じゃないの?」
"tyu alnat pea tuvalel in. xom kes et arki e"
レインは"lein xa ra. xion tan xa ra. son lein o xion xa ra"と書いた。タンは「も」とい103 う意味だったと思う。
ここでの新顔はoなので、これの説明をしたいのだろう。意味は明白で、アンドに違いない。つまり連言だ。
またレインはオレンジジュースとリンゴジュースを持ってきて、"tyu lax wel,? lisik az miik"と書く。ミークというのがリンゴのようだ。
「どっちが欲しい?」は分かるが、アズが不明だ。レインはオレンジとリンゴを交互に上げ下げし、"wel?"と聞いてくる。どうやらアズというのは選言らしい。orにあたるものだろう。
「ヤーヤー」
そろそろ「分かった」という語がほしい。ヤーしか言えないのは微妙だ。
レインはoとazを指し、"tutu et arki"と言った。接続詞のことをアルキというようだ。
「ヤーヤー...... 。tur, non rens to? en ya」
"a, tyu rens ax alna im tur"
分かったときはalnaとい うのか。ちなみにarnaはこの街の名前ね。
紅茶が運ばれてきた。ここではコーヒーは飲まないのか。そういえば喫茶店なのにコーヒーの香りがしない。
アルシェさんは興味津々といった顔で私たちを見ている。
"rulel lu en ser arka in"
"len?"
"ti et axk a xax ter, lein"
"soa e? eheh"
はにかむレイン。しかし私は蚊帳の外。
"qp, non xax ax le tan eyo"
思い出したように言うレイン。彼女はスカートを履いた髪の長い人を描いた。女だということを強調しているようだ。
そして猫の絵を描き、ketと書いた。猫はケットというようだ。さらにレインは"non ser min. lu siina ket"と書いた。
シーナ ...... ? さっきも出てきた気がするわね。 104
"siina et to?"
"a... ova non siina miik"と言ってリンゴの絵を見て明るい顔をする。
次にゴキブリらしき絵を描いて、実に嫌そうな顔で"tet non sin veliz..."と言う。ゴキブリかあるいは虫のことをヴェリーズというようだ。
もしかして「虫が嫌い」と言いたいのか。とすると、シンが「嫌う」で、シーナが「好き」という意味か。
"lein, tyu siina lisik?"
"ya"
ちょっと好き嫌いのなさそうな語で試してみよう。
"son, tyu siina... a... diittemk?"
レインはうーんと首を捻って"jins vil"と言った。
「ジンス?」
"non en ser nan siina diittemk az"
「エン・セル? あぁ、『知らない』ってことね」
そりゃそうよね。冷蔵庫が好きかなんて聞かれても判断しようがないわ。となると、やはりシーナやシンは好き嫌いを表すみたいね。
"son, tyu siina non?"
"ya, non siina tyu, xion"
えへへ、と照れる。一方レインは照れもせず穏やかな顔で見てくる。シーナが好きという意味でおおよそ当たっているとしても、意味合いが違うのかもしれない。語法の違いが一語一答式の翻訳に壁を作る。
"jolk"と言ってレインは先ほど書いた"non ser min. lu siina ket"という文の下に、"non ser min le siina ket"と書いた。上のとイコールだと言いたいようだ。
I know a womanとShe likes catsを言い換えたものだから、I know a woman who likes catsって言いたいのかな。日本語からじゃ分からないけど、英語からなら分かりやすい。
構文がまったく同じね。つまりこのleというのは関係詞か。leは主格の関係詞なのね。このwomanはいわゆる先行詞 だけど、先行詞が物になった場合はどうなるのかな。
私は"non in lei le xa elen"と書いた。"tia?"と聞くとレインは肯う。先行詞の有生無生に関わらず、主格はleで良いようだ。 105
レインは"non ser min. vik siina lu min"と書き、"non ser min le vik siina"と書いた。
ははぁ、これは対格の関係詞を説明したいのだろう。だが待て。主格も対格もleではないか。もしかして格に関係なくleを使うのだろうか。だとしたら中国語の「的」と同じだ。
次にレインは"non inat min. non fitat miik a lu"と書き、"non inat min le nan fit miik al"と書いた。
「私は女を見た。私は彼女にリンゴを与えた」を「私は私が リンゴを与えた女を見た」にしたってことね。alというのは与格か。与格はaだと思っていたけど、ここではalになっているわね。
今回は与格alの目的語であるminが先行詞に来ている。leは与格の関係詞の役目を果たしている。だが、主格や対格のときと同じくleはleのままだ。
面白いのは関係詞節中の動詞の時制が過去から現在になっている点だ。fitatでなくfitでいいのか指差しで確認すると、レインはティアと肯った。
どうやらアルカでは従属節の時制は主節の時制との対比で行われるようだ。リンゴをあげたときと女を見たときが同時な場合、従属節は現在形になるらしい。
では、もしリンゴをあげたのが女を見たときより前だったらどうなるのだろう。つまり大過去はどう表現するのか。従属節を過去形にして大過去ということにできないだろうか。
「レイン、『今日』って何ていうの?」
"to?"
「確か過去はsesとか言ってたよね。sesを名詞として使えるか分からないけど...... 」 私は"non in min im tur. non fitat miik a lu im ses"と"non in min le non fitat miik al"を本に書いた。
"tia?"
"tia"
私の仮説は正しそうだ。
レインは"lu et min. non mixat miik i lu min. lu et min le non mixat miik it"と書いた。 106
なるほど、「彼女は私がリンゴを受け取った女だ」か。奪格にもleは使えるようだ。
ただ、iがitに変わっているのが気になるところだ。先ほどはaもalに変わっていた。もしかして、iの原形がitで、aの原形がalなのかもしれない。
私は試しに"tu et las noan le non badik elen kon"と書いて、バンと机を叩いた。レインは"ya, tia, tyu et lexe"と言った。どうも褒められたような空気だ。
さて、関係詞も分かったことだし、あとは何かな。いくつ品詞があるのか知らないけど、どのみち大詰めよね。語学学習の効率からいって、関係詞は比較的終わりのほうで教えるはずだもの。
それにしてもだいぶ時間が経ったな。そろそろ疲れてきた。アルシェさんは面白そうに見ているが、せっかくのデートを潰されて内心つまらないだろう。これ以上は気が引ける。紅茶もなくなったことだし、そろそろ席を立ったほうがいいんじゃないか。そういえば、今は何時なのだろう。
肩を揉みながら時計を探す。ガラス越しに店内の時計が見えた。ちょっと距離があったが、視力2.0の私には問題ない。その時計にはレインの家の時計と同じような不思議な文字が書かれている。
そういえば、あの文字盤の文字は一体何なのだろう。私はすっと立ち上がると時計に近寄って文字を指す。レインたちも付いてくる。
"hacm et to?"
ふるえ音には慣れていないため、ハルムのルの部分を大げさに発音してしまう。
レインは"hacm et pit e hac... a, tyu asmik "tutu hacm et to?" sete. see tutu hacm et armiva"と答えた。
「アルミヴァ?」
"ya, tutu hacm et armiva"
意外なことにレインのcの発音ははじき音、すなわち日本語のラ行のように弱いものだった。文字と音を教えてくれたときはふるえ音だったのに、実際の彼女の発話を聞いているとはじき音を使っている。
それはさておき、tutu hacmで「これらの文字」という意味か。やはりコソアドのような指示詞は前置されるらしい。
107
ところでアルミヴァってなんだろう。一時間を意味する単語はmivだったから、少しそれに似ている気がするけど。
"luan et 12 mirok"
「るあん?」
"lu o lu. son luan"
「『彼と彼でルアン』? つまりluanはluの複数形ね。『彼らは12人のミロク』? 時計の文字盤に人名を使うんだね」
でもまぁ、ありえるか。英語でも月の名前には人名が含まれているし。July然り、August然り。
"armiva et mirok le vasat teems im vaste"
えと、「アルミヴァはヴァステのときテームスをヴァスしたミロクである」...... か。あぁ分からない。
ヴァスとは何かと聞くと、レインは2人の人間が剣を持って戦っている絵を描いた。多分、「戦 う」という意味だろう。
"teems et to?...... あ、違うか。戦ったんならneか。ネーネー?"
"lu et... rans sen en sofel... daiz e deem... tu et xif na"
レインは自信なさげに首を振る。しかしすぐにハッとして私が彼女の家からはるばる持ってきた辞書を引き、テームスの項を見せる。
そこには絵が出ていた。それは...... 何かのおぞましい塊だった。角の生えた動物と人間のキメラ、裸の女、筋骨隆々な男などがひとつの塊の中に身を半分埋めながら犇めき合っていた。
「ルゥって...... 言ったよね」
これ、生きてるの? え、この塊がテームス? 何かを吸収してるの?
この人たち、塊から出ようとしてるように見える。でも逃げようというよりは、出発しようという感じがする。
この禍々しい塊と彼らは同化し、そしてなお分離しようとしている。それは出発を思わせた。これは...... 逃げようではなく、どこかへ向かおうという感じではないか。
これがテームス...... 。これと戦ったのがアルミヴァ? そうか、これは架空...... 神話なんだ。――ってことは。
108
私はアルミヴァを辞書で引く。するとやはり絵が出ていた。きっちり数は12人。皆様々な姿をして描かれている。新古典主義を思わせる描き口だ。私の口に合う。誰が書いたのだろう。この世界の巨匠はどんな人たちなのだろう。俄然、興味が湧く。
恐らく、この時計の文字は彼らを表すシンボルマークなのね。そして彼らは神話上の神なんだわ。こちらはテームスと違って神聖に描かれているから恐らく神。そうか、ミロクというのは神のことなのね。
で、テームスというこの悪そうな塊が悪、と。正邪のハッキリした対立があるのね。アフラマズダとアーリマンの対立を持つゾロアスター教を髣髴させるわ。
"lein, est luan et to?"
"est luant tisse"
「あぁ、luanの所有格はluantっていうのね。『彼ら』がルアンで、『彼らの』がルアント。うーん、規則性に乏しいなぁ...... 」
レインは咳払いをし、指差しながら順に答えた。1時からだった。
"seinels, tiitel, poen, nermes, kleevel, kalzas, varfant, varzon, tikno, fenzel, nebra, konoote"
12時ではなく1時から はじめ たわけが分かった。アルミヴァの12神は12人いて、当然1人目から数えていく。そうすると0番目のアルミヴァというのは存在しない。だから1時から はじめ たのだ。最後のコノーテという神は0時で もあるが、それ以前に12時なのだ。
私は時計の文字をもう一度見た。そして本に書き写す。
なんだろう、もはやこれは異世界に行きたい日記ではなくなっている。アルカの学習書、そして異世界の記録。私だけの異世界体験記。
そうだ、これはもう体験記、ひとつの書物なのだ。
「決めた。今からこの本のタイトルは『紫苑の書』。私だけのアルバザード旅行記」
"mm?"
"tu, tu et lei e xion"
レインは黙ってこくんと頷いた。私は紫苑の書にアルミヴァをまとめて書いた。
109 8 9 0 - seinels tiitel poen nermes i o p @ kleevel kalzas varfant varzon k l ; : tikno fenzel nebra konoote
"lein, lu sislik arka tuvalel?"
"on vez, ya"
"son ans sins ax dipit onen tu kad. el sin vez tis man tuube et buuna"
"xam tyu, arxe. mon vez et buuna, see tu et volx tiina lana alna les lena xook"
"axma"
話しながらカフェを出ていく彼らを黙って追う。話せないというのはもどかしい。
"son ans ke am sei. fral ate et deyu im fis mil melsel. son felka et ak?"
"tet yuu xa lyu e"
"soa onna"
アルシェさんは顎に手を置いて唸った。何の話をしているのだろう。
"nee, kuim soonoyun et to on eld luut"
"mm? kuim on tu, non en ser a. xion"
急に呼ばれてびっくりして、「あ、はい!?」と思わず日本語で返してしまった。
"soonoyun et to on eld tuan?"
えぇと、「『ソーノユン』はあなたの言語でなんですか」と言いたいのかな。ソーノユ110 ンって「おはよう」のことだよね...... ? あれ、でもこの時間にそれを聞いてくるってヘンな気がするな。今の時間なら「こんにちは」を聞いてくるほうが自然よね。
もしかしてソーノユンは時間に関係なく使えるのかもしれない。ハローみたいな感じで。だとすると「こんにちは」を教えておくのが無難だろう。
「えーと、tu et konnitxiwa」
"kon...nitxiwa?"
"ya ya"
"tu eks to?"
今アルシェさんの台詞が聞き取れた。しかしeksの意味がよく分からない。前に何度かレインが言っていたと思うのだが。
"eks et to?"
すると彼は困った顔をした。彼は私の横に立つと、紫苑の書を開いた。ものすごく距離が近い。肩と肩が接する。彼が首を下に向けると、柑橘系のシャンプーの香りが仄かにした。
私は赤くなって口元を手で隠しながらも、「アルバザード人は体臭のない民族だな」などと冷静な分析を続けていた。
彼は細長い指でlの文字を指差した。
"ti isk sen tu hac?"
これは分かった。「この文字を読めるか?」と聞いたのだ。
"ya, tu et lex"
"son "l" eks lex. lex eks "l". lex eks tu hac"
eksは「〜と等しい」とか、「〜を意味する」という意味の定義動詞なのだろう。恐らく先ほど彼は「『こんにちは』はどういう意味ですか」と聞いていたのだ。
「なるほどね。konnitxiwa eks 今日よ」
"kyooyo?"
私はノートに0時を指す時計を描くと、針をぐるっと一周させる動きをして「今日」と言った。すると彼は首を傾げたがレインは分かったようで、"aa, kyooyo eks fis xan, etto"と言った。どうやら「今日」はfisというらしい。
"hqm? fis? ala tuube em sen wit?"
彼は意外そうな顔でレインを見たが、彼女は首を振るだけだ。どうしたんだろう。もし111 かして通じなかったのだろうか。
"xiel, tu et xik i xe vok ova "mir rakm fis nilel""
"ya ya, non xam sen tyu, etto"
そのときアルシェさんの手首の アンセが光った。彼はケータイを取り出すと"tixante?"と話しだした。
アルシェさんは電話を終えると、渋い顔でレインに何かを言った。
"pent, an leev fal im tu man bekka kekl an"
"hqm, tu et hao xel tales wit a hacn kokko noi im melselnian e"
そして私を見て何か言う。
"anpent, xion san. an xant van anse im kest. son andoova"
なんか今「紫苑さん」と呼ばれた気がしたが、幻聴だろう。
「え〜と、レインさん。彼はなんと?」
彼女に助け舟を求めるが、彼女も説明に困っているようだ。昨日アルカを始めたばかりの私に説明するのは難しいだろうな。
と思っているうちにアルシェさんは帰ってしまった。
「あ、あれ? 帰っちゃったよ。いいの? デートは? もしかして私のせい?」
しかしレインは何も言わず、私の手を引いて家に帰った。別に怒っている様子はないが、何も問題なかったのだろうか...... 。
家に着くと、ふたたび居間の机に座った。少し歩いて気分が良くなった。私は脚を伸ばして部屋をぐるっと見回す。
壁に貼ってある光る紙に目をやると、"le et to?"と聞いた。
"papx, haas non rensat"
「ぱぷしゅ?」
"ya, papx et les apia selal o palt. a, tee, tu et xif xalt tyu"
"mm?"とレインの口真似をしてみる。
"fis, passo,? fis et melsel. kit e... tee, xif me. aa, rens ax to eyo..."
レインは時計に近寄った。今はお昼の12時。彼女は針を回しながら"fis, fis"と繰り返した。そして23時を越えてさらに回し、24時になったとき"kest"と言った。 112
kestは「1日」という意味だろうか。いや、違う。それなら1日の範囲内、つまり23時で針を止めないとおかしい。24時を境にしているということは、kestは「明日」という意味ではないか。
今度は私が時計の針を回す。23時に戻してfisと言い、1周戻して11時にしてまたfisと言う。そのまま左回転で0時まで戻し、そこからさらに前日の23時に戻し、レインを見る。すると"toxel"と答えた。なるほど、「昨日」はtoxelか。
レインはpapxの光を指してfisという。fisは「今 日」だから、papxというのはカレンダーのことなのだろう。この光る紙はカレンダーだったということになる。
自動で日付が切り替わるのだろうか、昨日と表示が異なる。表は1段が7マスでできており、5段で計35マスになっている。マスの中には謎の文字が書かれている。そのうちの一番左上が淡く光っている。一見紙に書かれた文字のようだが、その文字だけが蛍光色を放っている。
これがカレンダーだとするなら、ここではグレゴリオ暦が通用しないことになるわね。この暦の1週は7日。そして段が5段あるから、1カ月は7かける5で35日。
...... いや、違うか。一番上の段は色がほかと違う。多分これは曜日の文字だ。日付のマスは7かける4で28マス。つまり、1カ月は28日間か。
レインは色違いの赤い文字を指し、"luan et soom. pit e deem"と言う。曜日はソームというらしい。
"i lank, velm, erva, satii, teeve, beezel, ilva, part"
うんうんと頷いて覚える。なるほどそれがソームとやらの名前か。忘れないうちに紫苑の書に書き留めておく。
~ ^ { [ } ] | velm erva satii teeve beezel ilva part
"soom et ne?" 113
"deem"
"deem et ne?"
"yulian e teems"
ソームはデーム。デームはテームスのユリアン。なんのこっちゃ。
"mm... yulian et ne?"
"en ne tet to. yulian et les el livl. a... vat"
レインはxiteという項を辞書で引く。そこには家系図が書いてあった。どうもxiteは家族という意味のようだ。「私も家族にして」と覚えよう。
家系図の中にユリアンはあった。図を見る限り、娘や息子のことのようだ。つまりは子供。私は併せてほかの親族名詞も覚えておいた。
ということはデームはテームスの子供ということか。あの絵に描かれた禍々しい塊に同化しかけた者たちのことを指すんだ...... 。
では、ソームの下にある28の字は誰を指すのだろうか。
"son, luan et ne?"
"luan et lantis. lantis et mei t'axet"
メイって何だろう。あるいは誰なんだろう。
"mei et to? ne?"
"to, et tia. saa, mei et... a..."
レインは家系図を指し、"tu et xite, pit e seim"と言う。
"pit et to?"
"aa, miik et vank. reb tan et vank"
"ya, ya"
"son, miik et pit e vank"
つまりpitは「種類」ってことね。じゃあ「家族」はseimの一種だと。
最初はhatを覚えるのも一苦労だったのに、いつの間にか抽象的な概念も聞き出せるようになった。
レインはソームのエルヴァを指す。
"erva et mei e soom. yan soom et pit e seim"
「ソームもセイムの一種で、エルヴァはそのソームのメイだ」ということね。つまり、114 セイムとメイは「上位概念」と「下位概念」みたいな感じかな。いや、それはピットか。
すると、さしずめメンバーとチームといった対立になるのかも。セイムがチームでメイがメンバー。一応いまのところはそうとしておこう。
"mm, son lantis et mei e axet"
"ya. tal tyu rens ax mei t'axet"
「メイ・エ・アシェットじゃなくて、メイ・タシェット? 何が違うの?」
"ol vet iten vesto, el yol en ee tet tes. ova... qm... faal t'axte o faal e flea"
「ん?」
"qm...lena en til est l'et kit i vesto nya.... ova... ova... elen"
レインは机を指差す。
「エレン、机ね」
次に机の脚を指し、"zam"と言う。
「机の脚はザムというのね」
"yan tu et zam t'elen"
「ザム・テレン? 机の脚と言いたいの?」
次にレインはスカートの裾を少しだけ上げ、自分の脚を指してやや恥ずかしそうに
"zam"と言った。
「人の脚もザムなのね。てゆうか、脚きれいね、レイン。背ちいさいのに、脚長っ!」
"tu et zam e lein. zam eeeee lein"
エの部分を強調する。「レインの脚」と言いたいようだ。一方、机の脚の場合はザム・テレンになっている。
「了解。『の』にあたる言葉はeとtなんだけど、有生の場合はeで、無生の場合はtを使うのね」
私の顔を見てレインはほっとした顔をする。そして椅子の脚を指して、"see tu et zam e skil"といった。
「あれ、無生なのにエを使うの? もしかして私、間違ってる? 生き物っぽいかどうか、いわゆるアニマシーの問題じゃないの?」
となるとほかの選択肢は...... なんだろう。エレンはtで、レインとスキルはeになる。これらの共通点は? 115
「...... そうか、音だ。エレンのように母音で始まる単語にはtを使うんだ」
私はにこっとして頷いた。
「で、もともとアシェットの話だったよね。son axet et to?」
"axe le vasat teems im ordin"
「ふむ、オーディンのときにテームスと戦った人たちなのね。じゃあこの人たちも神話のキャラなのね。なるほど、カレンダーは全部神話でできてるわけか」
レインは28人の名を読んでいった。頻繁に使うのか、略名らしきものまで教えてくれた。私は紫苑の書にそれを書いてまとめた。
116 1 ridia dia 2 ovi vio 3 kliiz lis 4 gil gil 5 fulmiia ful 6 ryuu dyu 7 mel mel q raldura ral w zana zan e paal pal r milf mik t faava fav y ruuj ruj u seren ser a rava rav s umtona tan d liine lin f relezona rez g jiil jil h lina din j eketone ket z enna len x axx lax c neene nen v pinena pin b mat mat n kunon kun m kmiir mir
表の一番上の段はソームの段だが、そのさらに上の中央部では1の文字が光っている。位置的に見て、どうやらこれが月を指すようだ。
グレゴリオ暦だと一月は約30日だから、曜日と日付が毎月ズレる。例えば1月1日が月曜の場合、2月1日は月曜日にはならない。
一方、この暦は一月が7の倍数の28なので、曜日と日付にズレがない。例えばリディアの日はヴェルムの曜日と決まっている。
一年は365日で13カ月。従って、同じ表が13回続く。だから月ごとのカレンダーはいらない。毎月異なるのは月を表す文字だけ。1の月からyの月まで同じものが続く。
では最後の1日はどうするのか。365日目のことだ。そう思っていたらレインはルージュの月の次に=という月を作った。そしてそこには曜日を書かず、(と)という2文字を書いた。読みは順にmyuxet, axet, teemsだそうだ。
これは曜日無しの特殊月か。1年に2日だけ曜日のない日があるという意味だろう。と117 いうことは、この暦では何年経ってもリディアの日は常にヴェルムの曜日ということになる。面白い。合理的だ。
1週間 何かレンタルしたら、年末だけ2日長く借りられるのかな。
レインは一年すべてを手で囲み、"tu et salt"と言った。サルトが一年と言いたいのだろう。次に一月だけ指して、"yan tu et xelt"といった。なるほど、月がシェルトか。
同じ要領で、日はセルというらしい。次にレインは2週間だけ指して"sol tu et adia"と言う。月を半分で割ってそれをアディアというらしい。半月、すなわち2週間のことだろう。
「ところで、テームスの日は毎年あるの? lein, son tu sel et... a... il salt?」
"ep? a, tyu rens lan total salt til sel e teems sete? mano soa, son evit"
「え、ええと...... 」
レインはテームスの日に"1 sel tat 4 salt"と書いた。「1日タット4年」 ...... 。これは閏年という意味だろう。やはりテームスの日は4年に一度。その点はグレゴリオ暦と同じようだ。1年が365日なのは天文学的に考えて当然そうなるはずだ。
タットというのは文脈で考えると「〜につき」という意味だろうから、ここは「4年につき1日」と訳すべきだろう。
「へぇ、面白い暦を使ってるんだねぇ。あんまり曜日の意味がない気がするけど、それでも曜日がある以上、なんらかの意味があるんでしょうね」
とっくにお昼を過ぎていた。随分勉強したものだ。はぁっと大きく息を吐いた。つられてレインもする。目が合って、あははと笑う。
"xion, tyu in lan tant?"
"tant?"
レインは箱の絵を描いて、中にpot、外にtantと書いた。なるほど、家の外を見てみたいかということか。また散歩するのもリフレッシュになっていいかもしれない。
"ya"
"xom, kor xiit"
外に出ると、先ほどとは違う道を歩く。なるべく早く私に道を覚えさせたいのだろう。
レインが道を指して"font"と言う。恐らく「道路」のことだろう。 118
"son, lena lukor font, tia?"
"ya, tia"
あれ、今回はlukorでも難色を示さなかったな。前にlukorと言ったときは一瞬間があったのに。
理由を考えてみた。先ほどと何が異なるだろうか。先ほどは家の中でその場歩きだった。今回はどこかへ向かっている。しいていうならそこが違いだ。
前はlukが「歩行」を意味していた。今回はどうだ。lukが「歩いて移動すること」を意味している。運動の動詞としての「歩行」と移動動詞としての「歩いて行く」という違いがあるのではないか。そしてその違いが何らかの形で経過相orを取る取らないに影響を与えているのではないだろうか。
仮にそうだとするなら、今回は移動動詞としての歩くだ。移動なのでゴールがある。ゴールがあるならその過程もある。だから経過相のorが使えた ...... ? 先ほどorが使えなかったのは、ゴールのないただの歩行運動 だったから?
だめだ、推測の域を出ない。だが、自分の勘が外れているようにも思えない。聞きたいが、今のアルカ力では問うことができない。
"lena lukor a to?"
"tee tee, en to tet am. lena koror am,? et tia"
"ya"
"alna"
「うん、alna。了解したらアルナだったね。で、『どこに行っている』はコロル・アム、と」
"hm... lu alnas ranel eyo..."
"son, koror am?"
"mm... fis, fral ate et is mil melsel. son xelk frem atu"
「またさっきの公園に行くの?」
"to?"
「公園よ、公園。えぇと、なんていえばいいかな。あ、そうだ。レイン、地図持ってない? 地図で指せば通じるでしょ。kaxaよ、kaxa」
"kaxa? tyu in lan tu?"
するとレインはケータイで地図を表示させた。 119
「えーと、non et am?」
"lena xa atu. in, tu et ra lenan"
レインは私のアルカを直しながら地図を指差した。
「レナン? 私も家の仲間扱いなの? ありがとう」
私はそのすぐ西にある大きな公園を指した。
「えーと、ここよ。この大きな公園」
"tu et kacte, le lena korat"
さっきの広い公園はカルテっていうのか。しかし、カルテという名の公園なのか、単にカルテが「公園」という意味なのか...... 。
"kacte et to?"
"sokl ha...kai alka e xial"
「カルテはシアルのアルカで大きいソクルなのね。alka et to?」
レインは立ち止まると紫苑の書に3人の絵を描いた。背が順に高くなっている。一番高いのを指して"lu et sor alka"と言う。なるほど、「背が高い」はsorで、alkaは恐らく「最高」という意味ね。じゃあ...... 。
一番低い人を指してみる。
"son lu et sor en alka, ya?"
"haan, tyu ser lan aven sete. lu et sor aven"
なるほど、最低はavenというようだ。
"son, xial et to?"
"xial et ova arna"
"ova?"
"a... ova e vank et miik, lisik, reb"
「あぁ、オヴァは『例』のことね。つまりアルナみたいなところをシアルという、と。シアルは首都や街みたいなものかな。sokl et to?」
"ova kacte"
なるほど、ソクルの一例がカルテということは、恐らくソクルが「公園」で間違いないだろう。そしてカルテは公園の一種なのだ。
レインは"sea"と言いながら地図の下のほうを指した。家のすぐ南だ。どうやらここに行120 くらしい。
彼女に連れられて異世界ののどかな通りを歩く。人通りが少ない。今日はカレンダーでいうと元旦のようだから、日本と同じく皆家に篭ってるのかもしれない。
セアという場所に着いた。どうやらそこはショッピングモールのようだった。アーケードのように細長く、アーチ状の天井が張り巡らされている。雨の日でも安心というわけだ。
モールの左右には店が立ち並んでいるが、今日はどこも閉まっている。途中にはトイレがあった。日本のより大きくて清潔感があるので、一見するとそれとは分からなかった。
私たちはモールのベンチに座る。のどかだ。ここが異世界だということを忘れてしまう。だが紛れもなくここは異世界なのだ。
ふと、私をここに連れてきた金髪の男を思い出す。彼はどうして私をここに連れてきたんだ ろう。私はなぜここにいるんだろう。
「ねぇ、どうして私はここに来たのかな? ...... 『なんで』って何ていうんだろ」
どうやって「なぜ」という単語を聞き出そうか。かなり難しそうだ。むしろこういう場合、相手に「なぜ」という言葉を出させる方法を考えて、それっぽいのが出たら検証するというやり方がいいだろう。
"non siina miik"
"a, ya? non tan so"
あれ、終わっちゃった。ソというのは代動詞だろうか。まぁ文脈的にそうだろうな。でなきゃ賛成するとか、そういう感じだろう。
"lein, non miks lan"
"a, ya? miks to? non ter lan tu. xom leev"
"a, tee tee, non ser lan arka"
"mm... tyu ser lan to vet?"
ヴェットとは何だ。「単語」あるいは「文法」?
それにしても「なぜ」なんて言葉、いつ出すんだろう。突拍子もない意外な言葉だと咄嗟に「なんで」って言うかも。
"n...non en siina arka"
"aa"苦笑するレイン。"soa nanna. tu et kin xalt mextan na" 121
あれ、ダメか。あまり驚かない。...... よし、レインの人の良さを信じよう。
"non ...en siina tyu!"
"ep?? lala es?"
怒るかと思ったらまるで見当違いで、むしろ泣きそうな顔になるレイン。
"lala es? tu et to?? tu et to?? non laxat tu. non siina tyu. non siina tyu!"
するとレインはこちらの意思を汲み取ってくれた。
"a, tyu solsat lan non rens "es" ul "lala" sete. lala ul es?"
"mm? ul et to? pit e az?...... あ、ちがった、pit t'az?"
彼女はリンゴとオレンジの絵を描いた。次にazと書き、選ぶように片方ずつ手で押さえた。次にulと書いて 同じく選ぶように片方 ずつ手で押さえた後、今度は両手で両方を押さえた 。
この仕草から察するに、azとulの違いは 論理学でいうところの強選言と弱選言の違いではない か。azが「どちらか片方」で、ulが「どちらか片方、もしくは両方」を意味するようだ。 実に 論理的な 言語 だ。地球だとフィンランド語がそういう言語だった気がする。
つまり、今レインは「ララとエスのどちらが云々」と言っていたのだろう。ララというのは何度か文頭で聞いたことがある。どうも語気が荒いときに使うようだ。となると、「なぜ」はエスの線が濃厚だな。
"es et to?"
"el yol es im ser lan man"
マンを知りたいときに使うもの。...... エスがwhyだとするならマンは「理由」...... かな。よし、試してみよう。
"lein, es tyu siina miik?"
"mi...man tu et atx"
どうもその予測で良いらしい。
「そういえば、どうしてesを聞こうとしたんだっけ? 話が入り組みすぎて分からなくなっちゃった。まぁいいか」
それにしても天気がいい。ここでウトウトしていると気分が安らぐ。
しかし、それとは裏腹に悩みもある。着替えだ。いきなり制服のまま連れてこられたので、着替えがない。異世界用に準備していた鞄も持ってきていないので使える荷物がない。 122
困ったな。歯ブラシや食事なんかは運良くどうにかなったけど、着替えがないもの。制服は丈夫だから毎日着ても大丈夫だけど、シャツとかは替えないと。けどまぁ、レインは靴のことも気遣ってくれたから、その辺も気遣ってくれるんじゃないかなぁ。
"saa, lena kolt xiit"
立ち上がるレイン。
「もう帰るの?」
ご主人様に従い、てくてく歩いていく。モールから家はそんなに遠くないので、すぐ家に着いた。レインは玄関に近寄ると、カギも開けずに中に入った。住民を認識する機能があるようだ。
さっそくうがいをすることにした。異世界で風邪を引いたら保険証がなくて病院も行けないから大変なことになりそうだ。
「洗面所借りるね」と言って奥に引っ込んだが、まだこの家に慣れていないせいか、トイレを開けてしまった。トイレは洋式で、日本と同じく紙が備え付けてある。ウォッシュレットもある。ウォッシュレットは日本くらいにしか普及していないと思っていた。
もらったコップでうがいをする。水が鏡に撥ねてしまった。そのままではレインに悪いので拭こうとするが、タオルがない。ティッシュを探すが、ティッシュもない。
一旦外へ出て、ティッシュを探す。しかし無い。うろうろしているとレインが近付いてくる。私は鼻をかむしぐさをした。すると二階 からティッシュを持ってきてくれた。木の箱に入ったもので、あまり使われた形跡がない。
"sent"
"tee, seere"
どうも感謝の意が大きいときはセーレというらしい。いや、違うかも。ティッシュ一枚で相手に大きく感謝しろとはいうまい。食事まで何も言わずにくれたのだから。
恐らく、自分で頼んだか否かの差ではないか。自分で頼んだらセーレで、相手が自発的にしてくれたらセントとか。一応矛盾はしない。だが確証はない。
"xion, xen xiit harx halm"
レインが台所から声をかけてくる。
「harxって何?」 123
"lena xenat pof, fapx, xakn sete?"
"ya"
"le et faax"
"alna, 朝食べたのがファーシュなのね。で、今からお昼か。son, tur, harx sete?"
"ya, lulu, tyu maisik "sete" tatta alk ter"
"mm?"
"vinsa, xi harx, xom cuux"
「朝ごはんがファーシュでお昼がハルシュで...... ルーシュって?」
"faax, harx, cuux..."
「あぁ、ルーシュが夕飯ってことね」
"cuux et xi harx"
"xi?"
レインは後ろを指し、xiと言った。前を指してsa、右を指してmik。左はlank、上がhalで下がmolだという。なるほど、方向か。「ルーシュは昼食の後ろ」というのはおかしいので、xiは空間だけでなく時間にも使えるということだろう。つまり、昼食の後がルーシュ。
"lena xen sil cuux im to?"
"en im to tet om"
「いつ」はオムというらしい。
"see lena xen cuux im cuuks, alfi... nermes via"
"via et to?"
聞くとレインは時計の針をいじり、4時にして"nermes"と言った。そしてそこから少し時間をずらして"nermes via"と言った。過去にしても未来にしてもどちらもvia。つまり、aboutとか「およそ」に当たる語なのだろう。
ということは、夕飯は4時ごろなのね。 ――えっ、早くない!?
"im nermes??"
"m? a, haan, tyu lo cuux et veer sete? tee, xi cuux, el xen dunex im varzon"
「え、何?」
"lena xen dunex im varzon via"
あ、はぁ! そうか、そうか。ルーシュが最後じゃないんだ。ルーシュが文字通り「夕124 飯」だというなら、ドゥネッシュが「夜ご飯」に当たるのね。どうもここは1日4食のようだ。3食という先入観のせいで誤解してしまった。
"fis, lena xen xiit harx yogel mil melsel"
レインは手を洗って料理を始める。私は何をすればいいのか分からないまま手を洗い、でき るだけ手伝った。冷蔵庫を開けてひとつひとつこれは何だと説明してくれるので、名詞の知識 ばかり が増えていく。
オレガノやマジョラムといった香辛料の類まで一々教えてくれた。lael, ameliaというらしい。マジョラムを知っていても、まだ「良い」とか「悪い」という単語さえ知らない。
形のないものは基本的なものでも分からず、形のあるものは頻度が低くても入ってくる。机の上で学んできた語学とは余りにも違う。そりゃそうよね、フィールドワークなんだから。
当然私は異世界に来ることを考慮してフィールドワークにも目を向けていた。フィールドワークに必要なのは何か。机上の言語学とは少し違う。
まず、健康な体。特に胃腸。当地の食べ物で一々おなかを壊したり倒れたりしてはいられない。もっとも私は鉄の胃腸を持っていないのが難点だが。胃が痛いとかそういうことはないが、緊張すると腹痛がするので、繊細なタイプなんだと思う。
あとは強靭な精神力。異世界などまったく情報ゼロの状態で行くのだから、どんな目に遭う か分からない。地球でのフィールドワークの場合は事前情報があるが、それでもストレスに耐えうる強靭な精神力がなければやっていられない。留学くらいの気持ちでいると痛い目を見る。
夏目漱石がおよそ100年前にロンドンに留学したとき、彼も憂き目にあったという。完璧主義の傾向があった彼は英語の個人レッスンを取っていたにもかかわらず、自分の英語力のなさ、特にリスニングとスピーキングを憂えた。実際の能力は人が羨むくらいなのにだ。
さらに漱石はストレスのため、精神状態も崩していた。滞在の最後のほうは世間との接触よりも個室での読書に耽っていたわけだから、あまり留学の意味をなさなかったのではないかと思う。
無論、この留学経験が後の彼の文学に大きな影響を与えたことは間違いない。が、それ125 でも本人が後にイギリスでの2年は人生で最も辛い2年だったと語っていることを考慮すれば、彼がどれだけの憂き目にあっていたかが分かる。
留学でこの有様だ。正直フィールドワークはもっとキツイ。特に未開の地に行くにはかなりの覚悟がいる。自分で幸運だったと思うのは、ここが現代的だという点だ。その上、いまのところ言語を覚えるのに関して かなり理想的な環境が整っている。
フィールドワークで重要なもののうち、見逃しやすいものは歯だ。特に上顎門歯、つまりは上の前歯が重要だ。この歯が言語音の発音にかなり関与してくる。歯音にとっては命ともいえる。
もしここが折れたりすれば義歯を入れることになるが、義歯は数年しかもたないので、いずれ入れ替えねばならない。しかし前の義歯と同じ具合というようにはいかないから、どうしても歯音の発音がしづらくなる。個人差はあるが、慣れるまでに時間がかかるという。
耳も重要だ。私はIPAに記載されている音声をほとんど聞き分け、発音することができる。おかげで語学は得意だ。だが、単音の聞き取りさえできれば文も聞き取れるほど言語は甘くない。
レイ ンがゆっくり話してくれる分には付いていける。だが、速くなると何語でもそうだが、音の脱落や同化などが起こって分からなくなる。
"xion, ren olx oga"
ジャガイモを洗わせるレイン。オルシュは「洗う」のようだ。
次にレインは"kes, ren sed yuka tuul"と言い、ジャガイモを途中まで剥く。セド・ユカで皮を剥くという意味のようだ。このようにしながら動詞も少しずつ覚えていった。
アルカを学びながらなので、作るのに時間がかかった。苦心して出来上がったのはじゃがいもやら野菜やらを煮込んだ具沢山のスープとヒラメのムニエル。
昼から豪華だなぁ。そうか、今日は正月だからか。でも、内陸地なのに魚介類を食べるのね。きっと南端のカテージュって街から運んでくるんだ。
ヒラメはeeliというそ うで、切り身でなく丸々1匹保管されていた。レインはうろこを取って頭を落としてから下ろした。
器用だなぁ...... 。家庭科とか得意なんだろうな。
身を取ったら塩胡椒をし、玉ねぎを刻む。慣れた手つきでバターを鍋に引き、玉ねぎを126 先に炒める。ローリエやら赤ワインやらを入れて煮込んだ。
10分ほどしてからレインはできたものを濾す。とろみを付けてからヒラメに小麦粉をまぶし、油を引いてフライパンで焼く。鍋はbeltで、フライパンはgimbeltだという。
どうもフライパンは鍋の仲間らしい。深鍋がdanbeltというので、恐らくgimは浅いとかそういう意味だろう。例の文字変換表を使えば理解でできる。
出来上がったらローリエを乗せ、赤ワインソースをかけて出来上がり。香ばしい。
そしてお決まりのパン。よく飽きないなぁ。ジュースは好きなものを選んだ。この料理の間に私は料理に関する名詞や動詞を覚えた。だが、形容詞が欠けている。難しいなぁ。
皿を持っていき、居間で昼食を取る。
「あ、おいしい。凄いね、レイン。tu et atx」
"na nau"と笑う。嬉しいと言ったのだろうか。良かったと言ったのだろうか。何かを感じると言ったらしい。
"a, hel. tua, tu et fiina tyu. tyu mal dia vet t'arka kokko tu"
差し出してきたのは開いた辞書。そこには単語のリストが載っている。
「何これ?」
"tu et klel"
私が何度か「何これ?」と言ってきたせいか、レインは自然と「何これ?」を覚えたようだ。
「クレールは辞書よね。それは知ってるけど...... 。まぁいいわ。これ、私にくれるの? ありがとう」
"tu et veteda sof. tyu mal dia arka kokko tu"
"mal? mal et to?"
レインは紙に人の顔を書いた。頭の中に脳を書き、矢印を書いてvetという語を脳の中に入れる。そしてそこにmalと書く。次に脳内からvetが出ていく絵を描き、kelと書く。
なるほど、malが「覚える」で、kelが「忘れ る」か。つまり、これ使ってアルカ覚えてってことね。
ところでソフとは何だろう。文法からして形容詞のようだが。名詞や動詞は形や動作が伴うことが多いので分かりやすいが、形容詞は性質や状態なので難しい。
"sent, lein. non mal sil tutu vet" 127
"en mal sil tet mal fan"
"mal fan。うん、non mal fan tutu vet!"
"ya, atte!"
通じている...... 。われながら今のはわりと難しい文じゃないの? ただのSVOすなわち第3文型といえばそれまでだけど、でも凄い。全然喋れなかった言語なのに。机の上とはかどり方が全然違うわ。フィールドワーク万歳。
昼食を終え、食器を片付け、歯を磨く。その後、もらった辞書を使って単語の勉強になった。挿絵付きで文字も大きく、簡単そうだ。多分子供向けに作られたものだろう。いや、もしかしたら外国人のために作られたものかもしれない。
辞書の本文を見てみる。こちらは英英辞典みたいな構成だ。だが英語の辞書と違って可算・不可算といった情報が書かれていない。それらしき略記号が見当たらないのだ。フランス語と違って名詞の性別マークも書かれていない。
可算だ不可算だというのは書いてないが、その代わり英英辞典のOEDのように、単語に初出やら造語者やら語源やらが書かれてある。もちろん読めるわけではないが、年号らしき数字や全体的な書式が地球のものと似通っているのでそうだと推測できる。
巻末には単語リストがついていた。恐らく頻出単語だろう。学習者が理解しやすいように挿絵がある。これをまず覚えておくとよいということか。
"tu et klel fiina mextan eu"
「ん?」
"nyaa... tyu alna vil non"
単語はハルムの表と同じ文字の順番で載っている。最初の単語はtだ。母音が辞書の終わりに来ているのは馴染めない。日本語の辞典はアから始まるからだ。だが子音から始まるといえば韓国語もそうだから、そんなに珍しくもない。
私は指で1ページ分の単語数を数え、ページ数をかけて総数を概算した。1ページ当たりの単語数は例文や説明や絵によって変わるが、概算すると少なく見積もっても全体で3000語はある。
"tyu mal sen il? tu... aa 3000 vet via in"
"mm? a, ya" 128
"haa, son tu mols toal, tyu lo?"
"non en alna tyu"
ようやくアルカで分からないと言えた。alnaが目的語に人を取れるのかは知らないが。だがレインはふつうに会話を進めたので、間違ってはいないようだ。
"non lo tu mols sil 3 xelt olta aven"
レインはカレンダーを指し、3カ月分ページを捲って"3000 vet"と言った。3000語覚えるのに3カ月はかかると言いたいようだ。
3000語ってvikot vetというのね。基数は前置されるということか。
アルカの文法はだいぶ分かってきた。語順はSVOで修飾は後置。メジャーな西洋語には見られないわね。フランス語でもgrandなんかは前置だし...... 。
前置詞に当たる格詞があり、後置詞はない。両者が混在するフィンランド語などとは違う特徴ね。
近いといえばインドネシア語かしら。名詞や形容詞に格変化がないのも似ているわね。もっとも、インドネシア語と違ってアルカは過去形などが活用するから、細かい点では異なるけど。
アルカでは修飾は基本的に後置なのに、基数は前置するようね。そういえばインドネシア語も基数を前置するわね。確か後置だと序数になるんだった。
つまり数字を置く位置で基数か序数か区別できる。英語みたいに序数にthを付けなくてもいい。もしかしたらアルカの序数も同じかもしれない。
"nee, lein, tu xelt et xelt ko e salt? tia?"
"ya, tia"
やはりそうだ。「この月は一年の1番目の月か」と聞いてみたのだが、「1番目の月」は"xelt ko"というらしい。やはり序数は後置するようだ。
よし、折角レインが辞書を貸してくれたんだ。覚えなくっちゃ。
よく見ると3000語のうち最初の1000語は超基本語で、残りの2000語が基本語のようだ。tesから始まっていったんuuで終わり、またtesから始まっているのでそのことに気付いた。
ということは、最初の1000語をまず覚えればいいということね。レインの予想だと3カ月で3000語らしいから、最初の1000語で1カ月ということになる。けどもっと早く覚129 えたい。
私はカレンダーの前に立つと2週間後の日付を指し、"1000 vet!"と宣言した。一日30個強覚えれば良い計算だ。することもないので毎日12時間はアルカに充てられる。1時間に3個の計算なら忘却分を見込んでもたやすい。
"tu eks tyu mal fan 1000 vet fol alisnakea? hqm, tu et kin na"
「大丈夫、がんばるよ」
私は机に戻ると辞書に没頭しはじめた。
レインはしばらくじっと見ていたが、やがて白紙の紙を差し出してきた。
"xom non mal fan hac tuan. ren axt tuus atu"
「え? 」
レインは「しおん」と平仮名を書いてきた。
「もしかして、平仮名を知りたいの?」
"tu mols fil xel el mais arka. xom tyu na sil kin on xook alen lena. alson non estel fan dosm e xook kokko aa... nihongo,? fastel"
「とにかく日本語を覚えたいのね? じゃあとりあえず文字を書いてあげるよ。これは平仮名っていうのよ。tutu et hilagana」
そう言いながら私は50音表とそのハルム転写を書いてあげた。自分で書けるよう、矢印と数字で運筆と書き順を示してあげた。
レインは"ya, seere"と言って、こちょこちょと鉛筆で文字を書き出した。私はにこりとして単語リストに目を落とした。
単語の覚え方にはコツがある。できるだけ日本語で理解せず、例文などからアルカで理解するのだ。何語の学習でもそうだが、これが一番良い方法だ。母語の干渉を避ける上では必然ともいえる。
日本語で「犬」という言葉を覚えたとき、親が犬の定義を教えてくれたわけではない。街やテレビや本で見る犬を犬と聞かされ、例示されただけだ。そして次に犬を見たときには自分から犬と言う。前に得たデータと照合し、類推した結果だ。
ときには間違えて猫を犬と呼ぶかもしれない。子供の中にはその間違いをするものが実際にいると言語学で知った。親が「あれは猫だよ」と否定すれば、類推に使うデータがよ130 り精密になり、次回は間違えないようになっていく。
犬の定義を聞かなくとも、あるいはdogなどと外国語で間接的に置き換えられなくとも、犬という語を獲得することができる。人間はこうして母語を覚える。これは凄い能力だと思う。だからできるだけ私はその方法を使って外国語を覚えるようにしている。
もちろんその方法にも功罪はある。例えば知ったつもりがそうだ。「すべからく」を「必ず」だと誤解している人間は多い。「助長」が本来悪い意味でしか使われないことを知らない人間も多い。それは単に文脈で意味を理解しているからだ。
理解できない単語はレインに意味を聞く。それ以外はその単語のまま覚えることにした。例えばkeaがそうだ。keaという語はよっぽど基本語らしく、説明を読んでも分からない。説明のほうが難しい語を使っているように思える。だがこの辞書の賢い点は、そういう語の説明を絵や例文に任せている点だ。
ただ、それでもkeaはよく分からない。どうも形容詞のようだ。例文やコロケーションが載っているので暗記する。コロケーションしている名詞に傾向を見つけ、どのような語かを考えることにした。
ちなみにコロケーションというのは「傘をさす」の「傘」と「さす」のように、単語同士のお決まりの組み合わせのことだ。例えば「傘」と「閉じる」ならコロケーションをなすが、 「傘」と「混ぜる」ではコロケーションをなさない。
コロケーションを見た感じ、どうもkeaというのはプラスの意味で使っていて、有生無生を問わず使えるようだ。時計が動いていればケアで、止まったりするとアヴィッシュというそうだ。
他にも色々用例が出ている。それを見るに、どうもケアというのは誰かや何かが「あるべき状態にあること」を指すのではないかと考えた。
日本語にはこれを表すのにしっくり来る日常的な形容詞がない。「赤い」とか「熱い」などはどちらの言語にもあるだろうし、意味の範囲もそんなに変わらない。だが特殊な意味の形容詞はそもそも片方の言語にしか存在しないことがある。
2時間ほどして、レインが平仮名のテストをしてほしいと言ってきた。
「えっ、もう覚えたっていうの? 早いわね。ren axt atu」
するとレインはすらすらと淀みなく50音図を書いてみせた。几帳面な小さい字でびっ131 しり書いてある。「ふぁ」や「が」なども入れてあるので実際は100近い文字数に上るというのに。
「...... なかなかやるわね。私が25文字で苦労してるっていうのに」
随分早いなと思った。確か福沢諭吉が蘭学を学んだとき、アルファベットを覚えるのに3日かかったという。その倍以上ある平仮名をこんな短時間で覚えるとは...... 。
"tutu et il hac?"
「文字はほかにもあるよ。じゃあ、カタカナと簡単な漢字も覚えてみる?」
とりあえずカタカナを書いてあげた。音は同じだと伝えた。
"hqm, lala es luus til hac enk l'apia lim kok eyo. xiel hilagana fiina min kont katakana fiina vik,? mil hilagana et siip fein.... tee, ol soa, xion lexe xax elf katakana a non mil non bas tu. xom... ova, hac len axt vet aal teu... mextvet...?"
ぶつぶつ言いながら、レインはカタカナを写経していた。
そして1時間ほど経ったところでまたテストしてくれと言う。
チラと見ると、まるで呪いの手紙かというくらい隙間なく紙が 細かい字で埋め尽くされていた。まぁその一文字一文字の丁寧なこと。方眼用紙でもないのにあたかも マス目の中に書 かれ たかのようだ。
テストしてみたところ、彼女はカタカナも完全に覚えていた。
「...... あなたが地球に迷い込んできたほうが早かったんじゃない?」
"xom tyu ren estel tutu vet a nihongo"
レインは私の読んでいる単語リストを指差した。
個々の単語を指しながら「にほんご、にほんご、なにこれ、なにこれ?」と言う。
「もしかして...... 私がアルカの単語を覚える間に、あなたは日本語の単語を覚えるってこと? 単語を訳せって言いたいの?」
レインは覚えたての平仮名で「のん まる ふぁん にほんご」と書いてきた。やはりそのつもりらしい。
「じゃあいいわ、一緒に覚えましょう。覚えた先から日本語に翻訳していくよ」
するとレインはちょこんと横に座る。甘くて柔らかな香りがする。一冊の本を共有しているので、肩と肩が接するほど近い。なんだかどきどきしてきた。
どうして美少女って良い匂いがするんだろう。なんていうか、美少女臭ってあるよね。132 ミルクのような甘い感じの。レインの香りもそれに違いない。でなきゃ、こやつは糖尿だ。
それからしばらく二人で単語を勉強した。やがてレインが時計を見て何か言った。
"xion, tyu en til ani on pitm?"
「え?」気付いて見上げると、レインの顔が夕日で赤らんでいた。日が暮れかけていた。もうそんな時間か。読み耽ってしまった。
しかし今レインは何と言ったのだろう。夕飯食べようとか、そんな感じだろうか。
「あ、ええと、夕飯の時間かな? まだお腹すいてないけど。aa... cuux?」
"ya, xom xen xiit cuux halm"
シェン・シートで「食べましょう」ね。
思わず笑みが漏れた。実はこの辞書を見ていて分かったことなのだが、レインはどうも今までずっと私に女言葉を教えていたらしいのだ。
レインはさっきから「食べる」をxenと言っているが、辞書の記述を見る限り、xenは
「飲む」という意味だ。「食べる」はkui。
ところが女はどうやらkuiを使わず、「食べる」も「飲む」もxenを使うようなのだ。日本語で「食う」は男しか言わないのと少し似ている。
「言う」という基本語に関しても男はkuで、女はrensというらしい。
ほかにもこういうのは色々見つかった。レインは口癖のようにsonとかxomと言うが、どうもxomというのはsonの語気を弱めたものらしい。そして女は頻繁にxomを使うようだ。こういう単語にすらアルカは女言葉が存在するということだ。 「しかし」はtalだが、女はtetを使うことが多いらしい。同じく「そして」はyanだが、女言葉だとseeということのほうが多いようだ。
レインはxenのことをkuiとは言わないが、yanとseeはどちらも使っている。どうも女でも接続詞は語気の強さに応じてどちらも使うようだ。
"ya, xen xiit cuux, lein. non es kulan"
"m? tyu males ratel ter. tu kuom e kulan et tia"
"non na nau. sent. non et lexe sete?"
"mm..."レインは少し面食らった顔で口を押さえる。"tyu at ank fein im rens vil arka"
「ん、早くて聞き取れなかった。ごめん、もいっかい。ええと、teeyu? teeyu?」 133
"olta teeyu, non rens vil me tuube a K"
レインは早口で言って、くすくす笑う。
...... なんだろ。
"lala non ar vil em reiarens mil lu or axk al arka"
わざとなのか、レインは早口で喋りながら席を立つ。
「むー」
うなりながら私も台所に行く。レインは戸棚からラスクを出し、紅茶を入れる。なるほど、4食といっても夕飯は軽食なのね。3時のおやつみたいなものか。もう日が暮れてるけど。
しかし紅茶の葉がたくさんあるわね。地図を見た限りここの風土だと紅茶はあまり採れなそうだけど...... 輸入品かしら。
逆にコーヒーが全然見当たらない。ミルもないし、豆どころかインスタントも見当たらない。カップに付いてるのは明らかに茶渋汚れだった。紅茶はかなり頻繁に飲むようだ。
不思議なのはレインの歯が白いこと。これだけ飲んでもステインが付かないのはよっぽどカルシウムを豊富に取っているのか...... それだけじゃムリね。
じゃあ歯医者に定期健診に行ってるのかな。あればの話だけど。でもまぁ、あるでしょうね、この文化レベルなら。
レインに気付かれないように口の中を見ていたのだが、虫歯になった形跡がなかった。
机に戻り、軽食を取る。ラスクを指して「何これ?」と聞く。
"a, tu et opo"
「オポ、ね。コカに比べればポフに音が似ているけど、有縁性は見られないか...... 」
"nee, tyu mal fan tutu il xanel?"
tutuは女言葉で「これら」という意味だった。男だと確かtuusだったかな。単語をすべて覚えるのかと聞いているようだ。
「シャンって何だろ」と言って辞書を見る。このリストにも載っている。無形の語の説明文はolという語で始まる文を持つことが多い。意味的に「もし」のようだ。 「もし」で始まる説明が多いので、この辞書はCOBUILD英英辞典に似ているといえる。あれと書き口がよく似ている。
あの方法は適切に利用すればかなり力を発揮する。私のようにアルカの基本語さえ知ら134 ない場合、意味を定義されても分かるはずがない。だから絵を使うのだが、無形物の場合はどうしようもない。そこで、COBUILD式の出番となる。
シャンというのはどうも真実のことを述べているようだ。"ol el et min, ku nos et min, son lu ku xan"などと書いてある。
nosというのは調べたところによると「自分」を指すらしい。つまり、「もし誰かが女で、自分は女だと言えば、その人はシャンを言うことになる」という意味だ。
この状況から考えて、シャンは真実とか事実とか本当という意味だろう。そして恐らく
「本当」ではなく「真実」だと思う。というのも、次の例文による。
"ol jan et soret, son "jan et soret" et xan"。janを調べると、絵が出ていた。空のようだ。またsoretは「青」。
つまり「もし空が青いとき、『空が青い』はシャンだ」と言っている。これは客観的事実なので本当か嘘かではない。従ってシャンは「本当」ではなく「真実」と訳すべきだろう。
色が出てきたので調べてみた。色はnimというらしい。
基本色が載っている。全部で10色のようだ。fir, verが白黒の2対で、har, soret, diia, imelが赤青緑黄の4対。そしてlette, kaaf, dolf, lejemmeが茶桃灰紫の4対。英語の基本色に比べるとオレンジが欠けている。日本語より基本色は多い。
"lein, tu et to nim?"と言って机を指す。すると"lette"と答えてくる。
うん、机は茶色か、確かに。
"son, tu et to nim?"と紅茶を指す。すると意外にも"lette"と答えた。
え、赤じゃないの? いや、そうか。紅茶っていう字を考えるからダメなんだ。確かに紅茶は茶色い。
そうか、日本語は基本色が4色しかないもんね。日本語は黒・白・赤・青の4色の中に色を収めようとする傾向がある。
赤松だって赤くはない。青黴だって青くはない。青空は青いけど、青蛙は青くない。白味噌は白くない。赤味噌も赤くない。しいていえば4色の中のどれに近いかという評価でしかない。そこに押し込めようというのが日本語のやり方だ。
アルカもそのやり方を採用していると思う。それが人間にとって自然で合理的だからだ。一々細かい色名で語るのは不便だ。 135
ただアルカの場合、基本色が10あるというのが違いだ。レインが紅茶を茶色と呼んだのは細かく表現したわけでなく、日本人が紅茶といって4色の中に押し込めたように、10色の中に押し込めたにすぎない。しかし、そのことをどう検証すればよいだろうか。
よし、背理法で試してみよう。もしこれが間違ってるんだとしたら...... 。
私はオレンジジュースを出して、"tu et to nim?"と聞いた。するとレインは"imel"と言った。
やはりな。オレンジという基本色はない。そこでオレンジを見せると黄色という。面白いものだ。
続けてレインは"a, lisiknim tan et passo"と言う。
パッソというのは何度も聞いたが、多分「大丈夫」的な意味だろう。つまり「オレンジ色でも大丈夫よ」という意味だろう。うんうん、こちらが厳密な色の指定だな。
面白い。ここの人たちは何でも10色で捉えるようだ。日本人の場合、基本色が少ないので、4色の範囲を超えて色名を指定することが日常的には多い。しかし10色もあれば普段は不自由しないだろうから、何でも10色に収めようとする習慣ができる。基本色が多いため、かえってふだんは細かい色の表現をしないのかもしれない。
随分ブランクを開けてしまった後、レインは再度"saa, tyu mal fan tutu il xanel?"と聞いてくる。
むろん単語リストは覚えるつもりだ。私は"ya"と答えて食事を終え、片付ける。そしてまた辞書に集中した。
次にレインに呼ばれて顔を上げると、いつの間にか部屋の明かりがついていた。時計を見るともう7時。そろそろ夕飯の支度をすべきだろうか。
「ねぇ しおん これ」
再びレインに呼ばれて振り返る。彼女の日本語の発音はアルカ式だが、一応日本語になっている。
"to,? lein"
"non na tyu xir tu"
それは袋に入った着替えだった。新品のようだ。これを使えと言っているようで、すっと差し出してきた。
"sent, sent!" 136
助かった。流石 レイン。気が利くなぁ。
レインは私の手を引き、洗濯機のところへ案内する。日本と同じで風呂の近くにある。水物は水物でまとめているのだろうか。台所などと近い。口頭と身振りで洗濯機の使い方を教えてもらう。
私は部屋に戻って着替えると、下に戻る。練習を兼ねてレインの洗濯物と一緒に洗ってみた。洗濯機には乾燥機が付いているようだが、干す必要はないのだろうか。この時間に洗濯するくらいだ、恐らくその必要はないのだろう。
2人で夜ご飯の支度をした。メルセルというのは正月で、やはり食事は豪華なのだろうか。冷蔵庫にはかなり高価そうな食材がある。
レインの指揮でできあがったのはローストビーフの野菜盛り合わせ。そして具沢山のミネストローネ。日本と違ってベーコンではなく生ハムを入れていたのが特徴的だった。
さらに鮪を出したかと思うとカルパッチョまで作りだした。私はそこまで作ったことはない。そしてバゲットを1本出し、バターを持ってきた。結構夜は豪勢なようだ。いや、昨日はあんまり豪華じゃなかったから今日が特別なのかもしれない。
8時ごろに夕飯となった。正直レインのほうが料理が巧い。敗北感を感じつつも素直に褒めた。言葉がろくに通じなくとも嬉しそうだった。
私は料理を毎日のようにするが、メニューは簡単なもので、栄養のバランスを第一としている。簡単で安く栄養がある。これだけ。とっとと作って勉強したいからだ。食べるのもさっさと食べてしまう。
だが今日は違った。ゆっくり味わって食べた。この味にはその価値がある。
食後は少し体を休ませるために歓談をした。といってもアルカができない以上、授業になる。私は単語リストを読んでいて疑問に思ったことを色々とぶつけた。レインは丁寧に対応してくれた。そしてまた辞書を使って勉強した。
夜というのは時間が早く経つもので、あっという間に寝る時間となってしまった。11時くらいだろうか。レインは"non es omo. xom xidia xiit"と言った。寝たいようだ。賛成して 二階 に行き、部屋に入った。
今日一日でずいぶんアルカができるようになったなぁ。進歩だ。
カーテンを開ける。通りは嘘みたいに静かだ。窓を開けてベランダへ出る。肌寒いが空137 気は綺麗だ。胸いっぱい吸い込む。
どうも田舎ではないみたいね。田園は見えないし、家畜の強烈な匂いもしない。家畜が数キロ以内にいれば空気が臭くなるから分かる。ここは都会なのだろうか。
「んー、それにしても、今日はよく勉強したなぁ」
部屋に入り鍵をかけて照明を落とし、ベッドにもぐりこんだ。不思議なもので、レインといると寂しくないが、こうして1人になって暗い天井を見上げた瞬間、寂しくなる。
お母さん...... どうしてるかな。心配でどうにかなっちゃってないかな。お父さんも。仕事休んだり辞めたりしてないかな。そしたら困るな。私のわがままのせいで折角がんばって今の会社で築いた地位を失っちゃう。それはダメ。だから、私の書置きに忠実に動いてほしい。
でも ...... 本当にそうされると私はあまり大事じゃないってことで、それはそれで寂しい。あの2人が取り乱すのを見てみたい一方で、迷惑をかけたくない自分がいる。
まいったな、だんだん鬱になってきた。頭の使いすぎかな。甘いものが足りないのかも。もしかしたらグルタミン酸不足かもね。醤油だっけ? 海外出張のノイローゼの日本人に醤油を与えたら快方に向かうことがあるとかなんとか。どこまで本当か分からないけど、醤油中毒になってるってことは確かだと思う。
レインの料理はおいしい。でも2日目にしてもう和食が恋しい。お米...... 食べてないな。パンはお腹がすぐすくよ、お母さん...... 。だからここの人たちは4食なのかな。
くすん、と、いつのまにか泣いていた。帰りたいわけではない。異世界は自分で望んだことだ。この上なく良い待遇だし、レインのことも好きだ。外人どころか異世界人なのに、初めてまともな友達になれそうだ。
でも、寂しいのも事実。私はえんえんと声を出して泣いた。わざと派手に泣いた。でも、レインに聞こえないように。
なんでもない、これは誰でもかかる不安とホームシックだ。このストレスは速やかに発散すべきだ。だからわざと大げさに泣いて発散した。5分も泣くと疲れて眠ってしまった。 138 1 2
朝日というのは不思議だ。夜、鬱になっていても朝日のおかげで希望と活力が戻る。鬱病は朝悪化するものが多いが、私の場合は夜に寂しさから鬱になるため、朝日は至上の薬だ。
目覚ましもないのに不思議と早く起きてしまう。時間は......6時だ。ベランダでストレッチをしてから下へ行く。レインはもう起きていた。ちょうど歯を磨いていた。挨拶して入れ替わりで歯を磨く。
レインは少しくせっ毛だ。朝は寝癖がついている。ふつうの寝癖でなく、静電気を帯びた下敷きを上から当てられたように髪が立っている。日本人にはまず見られない。
彼女は霧吹きで水らしきものをかけ、整髪する。年頃の女の子なのに整髪料すら使わないようだ。でもその水は微かに桃の香りが付けてあるようで、清潔で控えめな空気が漂っていた。
朝起きでもレインは可愛い。化粧をしていないから常にすっぴんだが、それでも可愛い。せいぜい寝起きで顔がむくんでいるくらいか。羨ましい。
朝食は簡単で、シリアルだった。ようやくパン以外の穀物を食べた気がした。食後は一休みした。
"nee, lein. tyu te felan?"
felは「学ぶ」という意味。anは「人」なので、felanで「学生」だ。私は覚えたての単語を使ってみたくて聞いてみた。発音にも少し慣れてきた。
"m... tyu rens sen arka ekosel ter. tinka. see tee, non et felan"
ekosというのが分からないので、すかさず辞書を引く。どうやら「流暢」とかそういう感じの意味らしい。分からない単語が出るたびに辞書を引くことにした。
"ya, non alnak vei. tyu et felan sete. son es tyu en kor felka?"
学生なのは分かったが、学校に行かんのかね。
"mil melselnian"
"aa... om tyu kor kit felka?"
正月休みか。じゃあいつから行くんだろう。
"sel e rava e. non xax fan arka a tyu kalt tu eu" 139
どうやらあと10日以上 休みがあるらしい。今は 長期休暇中のようだ。それまでアルカを教えてくれるとのこと。でも、長期休暇なら宿題があるのではないだろうか。それに予習や復習もあるだろう。迷惑にならないか心配だ。
"tu te yet? mm... non et xet na"
するとレインは目を丸くして首を振った。
"teo, teo! non sent tyu tiinal"
覆面から助けてもらったことをありがたく思っているようだ。
"alna, non na nau"
"a, tyu rens ax en alna tet atta wen im tur"
"mm... ?a... ya, atta"
レインは微笑んだ。私は安心して単語勉強に戻った。彼女も横に来て日本語を学ぶ。
私たちは一日中、言葉の勉強をした。
夕方ごろ、アルシェさんがまた遊びに来た。昨日よりアルカができるようになっていたので少し驚いたようだ。
なんと彼は私にアンセを持ってきてくれたのだ。アンセというのはレインたちが手首にはめている携帯電話のことだが、実はお財布ケータイにもなっている。アンセでの買い物はバイオメトリクス認証で、セキュリティが高いらしい。
中には免許や保険証や身分証なども電子データとして組み込まれているので、これひとつで暮らしていくことができる優れものだ。
アルシェさんのお父さんはなにやら国の偉い人だそうで、特別に私にアンセを発行してくれたらしい。ただ、私はまだ彼らの言葉をよく理解できないので、詳しいことは今度聞くつもりだ。
お礼を言うと彼は紳士的な優しい笑顔を見せ、お茶も飲まずに去っていった。
私はレインを横目でチラと見る。
「ごめんね、レイン。デートの邪魔して...... 」
しかし彼女は白くて細長い脚をぷらぷらさせながら、ただ私が書いた日本語の単語をぶつぶつ呟いていた。
しばらくするとレインは立ち上がって風呂場に行った。私も付いていき、風呂の入れ方140 を教わった。どうもアルバザード人は風呂を好むらしい。シャワーもあるが、あまり使わないようだ。
風呂は日本のと比べて広いが、やけに浅い。明らかに全身浸かることはできない。 浸かるとすれば半分寝そべるような形になる。丸まってしゃがんで入る日本の風呂とは明らかに違う。
一番風呂というのはここでどのような意味を持つのか分からない。風呂を穢れを落とす場所と考えていれば、家主であるレインに譲るべきだ。だが客を先に入れるのが向こうの礼儀だとしたら話は変わってくる。
てゆうか一緒に入る文化だったらどうしよう...... 。風邪引いたふりしようかな。
横目で見ていると、彼女はさっさと先に一人で入ってしまった。こちらを気にしている様子もない。入りたい人間が勝手に入れということなのだろう。特に順序など気にしないようだ。
レインが上がるのを待ち、私も入る。私は音を注意深く聞いていた。どのように風呂に入るのか分からないので音で学ぼうとした。傍から見れば明らかに出歯亀だ。
音からするとレインはシャワーを使っていなかった。ざぁっと流す音がしたので体を洗って桶でお湯をかけて流したのだろう。当然というか、先に洗ってから入るようだ。
出てきたレインは服が変わっていた。薄いピンクのブラウスと、白いフリルの付いた上着を羽織っている。下は相変わらずスカートだが、左右非対称になっている。リボンのついた白い靴下が愛らしい。
昨日の服にしてもこれにしてもデザインが派手でない。そして制服のように丈夫そうだ。一着を長く大切に着る文化なのだろうか。
交代で風呂に入った。脱ぐ前にレインが来て、シャンプーやリンスや石鹸などを説明した。そして手ぬぐいをくれた。脱衣所には鍵が付いていた。日本では考えられない。
鍵をかけ、服を脱いで中へ入る。なぜか知らないが、自分の家以外で裸になるのは凄く不安だ。
借りた手ぬぐいを濡らして石鹸をつけ、体を洗う。髪も洗って桶で流す。風呂に入り、温まる。浅い代わりに足を伸ばしてくつろげる。自然と半身浴になる。これは健康に良さそうだ。お湯は日本のものよりぬるい。
レインは30分ほど入っていた。恐らく湯船には20分ほど浸 かっていただろうから、半141 身浴をしていたと考えられる。半身浴はぬるめで20分ほどが効果的だからだ。私もそれに倣い、外へ出た。
バスタオルを借りて拭き、使ったものは洗濯籠に入れておく。洗濯機があれば籠が近くにあるというのはどこでも同じなのだろう。まぁ道具が同じならその周辺の道具の使い方も似てくるのは当然のことだろう。
レインから借りた服に着替える。
風呂から上がるとまた勉強し、その後、夜ご飯を作って食べた。メルセルの祝いは終わったのか、昨日のような豪華さはなくなった。
142 1 u
異世界アトラスに来てから半月ほど経った。
私はこの世界で出会った少女レインと2人きりの同棲を続けながら、アルバザード国の言語アルカを勉強していた。
今日はレインにもらった辞書の巻末にある単語リスト1000を覚える締め切り日だ。
朝食後、テストをしてもらった。1000語もあるのでテストは長時間に及んだ。私は宣言どおり半月で1000語すべてを暗記した。われながら頑張ったものだ。
レインのほうも日本語の対訳をきちんと覚えていた。すばらしい出来だ。見た目は可愛くておっとりしているが、実はかなり切れ者なのではないか。
器に関してはむしろ私よりも大きいかもしれない。私がどんなにしつこく聞いても少しも面倒そうな顔をしないし、いつも協力的だ。
怪しいくらいニコニコしているわけでもなく、かといって無愛想でもない。自然体で朗らかだ。羨ましいとともに、私はレインという人間に強く惹かれていくのを感じた。
彼女には単語だけでなく、日本語の文法も教えておいた――私なりのやり方で。
そもそもレインが日本語を学ぶのは私に簡易翻訳をするためだという。ここで暮らす私とは立場が違う。彼女の日本語は私一人に通じればよいのだ。
そこで私は考えた。レインに文法的に正しい日本語を教える必要はない。レインの言っていることを私が理解できれば十分だ。なら簡略化した日本語を即興で拵えて教えればよいではないか。
例えば「は」と「が」の違いは教えない。動詞の活用も教えない。アルカと同じように
「動詞+副詞相当句」の形で表現できるようにする。「食べたい」は「食べるしたい」と言わせればよい。「食べた」は「食べるた」と言わせればよい。
もし余裕があれば後々「食べた」も教えるつもりだ。とにかく彼女が早く覚えられ、私が問題なく理解できることが第一だ。
日本語を元にしたアポステリオリな人工言語を作り、レインに教えた。要するに「なんちゃって日本語」だ。仕組みが簡単なので彼女はすぐに習得した。私だって「なんちゃってアルカ」だったらもっと早く覚えられたはずだ。 143
単語テストが終わると、もうお昼の時間になっていた。
昼食後、レインは外へ行こうと言い出した。どこに行くのと聞いたらまたカルテだという。
サンダルを借りて外へ出る。そういえば玄関は日本と違って押し戸なんだなと今更気付いた。
"a... lein, il... na sil non et zal mil non leines tu?"
leinesは動詞leinの継続相だ。leinは「着る」という女言葉で、ふつうはsabと言うらしい。
実はこの単語、レインと同じスペルなのだ。気になって辞書で調べたところ、leinというのは一般名詞で「儀式に使う神の道具」という意味らしい。それが彼女の名前の語源のようだ。
儀式に使う装身具を身に付けるという意味からleinが「着る」という意味になり、雅語として女言葉になったようだ。レインがくれた辞書は語源が細かく書いてあり、面白い。
"m? il na sil tyu et nagisa, lan e kad altia"
ふぅん、私はアルティアという国の人っぽく見えるのか。
"haan"
私はこのハーンというのに慣れてきた。なるほどという深いゆっくりとした理解を得たときの言葉のようだ。
語法を身に付ける際は彼女が言った文脈に近しい場面で単語を用いることにしている。だからレインがたくさん喋ってくれないとデータがなくて困る。
ただレインはどっちかというとおしゃべりではないようだ。むしろ大人しいほう。てゆうか全体的に猫っぽい。
カルテに着くと中心部へ進んでいく。本当に大きい公園だ。中にいると公園だという事実を忘れてしまう。
中心部に着くと大きな建物があった。教会のように見える。かなり華やかな建物だ。聞けばシーカという名だそうだ。
その向こう側にはロンドンのウェストミンスターのような宮殿が見える。ご丁寧にビックベンよろしく時計台まである。 144
「あの宮殿は見覚えがあるわね」
そうだ、確か100ソルト玉に描いてあったはず。
ポケットから財布を引っ張り出す。水色の可愛いがま口 で、レインが子供のころ使っていたものだそうだ。よほど大切に使っていたのか、傷ひとつない。中には小銭やお札が入っている。私が買い物できるよう、お金までくれたのだ。
100ソルト玉は通称falxianと呼ばれている。見ると確かにあの建物が描かれている。つまりあれがファルシアン宮殿ということになる。きっと観光名所なのだろう。人がちらほら見える。
レインに連れられ、シーカという教会っぽい建物に入る。
中には壁に沿ってぐるっと長椅子が配置されていた。人が数人座って何かを待っている。だが受付などは一切ない。天井にはステンドグラスがあり、奥にはパイプオルガンもある。やはり教会っぽい。
見回すと、奥へ通じるドアがある。人が順番にそこに出入りする。ドアから出てきた人は入り口を通って外へ出て行く。
静かだ。皆、沈黙を保っている。待っているのは老若男女を問わず、色々な人だ。お祈りに来たのだろうか。
辞書でxiikaを引く。artisという単語にアンカーが付いているのでそちらも読む。
調べたところ、どうやらアルバザードの主な宗教はアルティス教というらしい。アルティス教の教会はカルテ公園の中心にあり、名をシーカという。つまりここだ。
シーカの中には祈りの部屋カルテンがある。そしてカルテンの中にはサリュという石の祭壇があるらしく、そこで祈りを捧げるという。
"atu et xiika sete"
"ya. non lunas atu lana dert"
なるほど、お祈りに来たのね。真面目な子だなぁ。
"non tan so xaf?"
"ol tyu em lan artist"
"artist... alfi, xaran t'artis?"
"ax. tyu xarat fi mirok ka fia enat?"
"tee" 145
"son tyu em ax artist fol xa atu"
せっかくだからここにいる間はアルティス教徒になっておこうかな。どのみち神様とか信じてないけど。
意外かもしれないが、私は異世界の存在は信じても神様はあまり信じていない。過剰な能力のせいでかえってリアリ ティを感じられないからだ。
そうこうしているうちにレインの番が回ってきた。レインは私を連れて入る。一瞬周りがざわめく。2人で入るのは奇妙なようだ。
中は狭かった。せいぜい10畳くらいだ。奥にひんやりした灰色の祭壇がある。背は低い。レインは膝をついて肘を祭壇に乗せ、祈りだした。
"lein, non rens ax to?"
"tio, "non dert nan al arte""
祈りの言葉は「アルテ神に祈りをささげます」...... か。単純ね。洗礼の儀式はいらないのかな。教会だってお布施がないと運営できないでしょうに。あぁ、国教だから税金から収入が入るのか?
"ep? el en xir pelt?"
"pelt... lulu tyu ser tu vet as. ya, tyu en xir pelt im tu ras fien artis til pelt ran"
きちんとした洗礼の儀式は省略ということらしい。あ くまで「束の間アルティス教徒」だからかも。
しばらくするとレインは祈りを終えて外に出る。私も後に続いて教会を出た。中はステンドグラスのおかげで光がよく通って眩しかった。あと、少し寒かった。それでも人がいた分、外よりは暖かかったが。
"ap, non en sos le kelel"
"ep,? yul to?"
"aa... xion, tyu ren kolt ra sa non. non xike fan tyu taxel"
何かお祈りしわすれたことでもあるのだろうか。
"mm, passo"
レインは中に戻り、私は一人で歩いて帰る。
今日は教会や宮殿が見れて得した気分だ。タダで観光旅行をしているようなものだから。 146
家の門が見えてきたところでふと立ち止まった。門前に誰かがいる。
男だ ...... 。アルシェさんじゃない。ただの通行人とも違う。家の前を行ったり来たりと怪しい。誰だろう。知り合いならこそこそする必要はないはずだ。
私は咄嗟に身を隠した。男は依然こそこそしている。背伸びして中を伺ったりしている。
...... まさか、こないだの覆面?
するとレインが後ろから追いついてきた。
"xion? tyu tor beke...atu?"
「レイン、しっ!」
唇の前に指を立てる。どうやら「黙れ」の仕草はアルバザードにも同じものがあるらしく、レインは理解して口を手で覆った。
彼女は男を見て驚いた表情になる。どうやら知らない人のようだ。
"tyu en ser? mm... non lo la et vik le vandat tyu"
"la tor eyo"
"la kamil saines xe in"
"saines?"
首を傾げるレイン。私が慌てて"sainor"と言い直すと、レインは"a"と頷いた。
いけない、「確認している」の「テイル」で考えちゃった。日本語から考えるとダメね。
男は門に手をかけようとしたが、人が来たので慌てて去っていった。
数秒もしないうちに男の影は遠くなっていった。私たちは時間差をおいてから中へ入り、鍵をかけた。
"arte..."
ため息をつくレイン。
かわいそうに、不安だよね。家族もいないのにヘンな男に付け狙われて。そうだ、警察には 連絡したのかな。
"tyu kapat la vik a nain sete?"
"tee"
「えっ、してないの。なんで?」
"mil... lain kamil fixat tyu tea non kap a lain. non rensat ax to? lu mana lunas i fia alt? tee, lain 147 fosat fan tyu"
"alnak tifa tis"
"qm... alfi... れいんは しおんを まもるしたい けいさつから です. alna?"
なるほど、どうやら警察に見つかると異世界人の私は不審者として連行される恐れがあるため、警察に男のことを相談しなかったらしい。
"tyu so fan? sentant, lein. tyu nektat non siina"
"mm... tet tu et zal. la lax to eyo, fien lena si radl"
"radl..."
radlを辞書で引く。「大切で価値のあるもの、しばしば高価。例えば金やダイヤモンド」。つまりは宝や財宝の類か。
どうやらこの家には特にお宝はないと言いたいようだ。なのに泥棒が来るなんて不思議な話だ。
その後2人で手分けして部屋中の鍵を確認し、それからアルカを勉強した。
夕食を取ってまた勉強。夜ご飯の後も勉強。
気が付くともう11時になっていた。肩が痛いし腰も痛い。集中しすぎだわ。
私たちは別れ別れになって寝た。今日は頭を使いすぎたせいか、精神的な疲労が大きかった。
そういえば合気道と剣道の訓練を怠っているな。そろそろやらないと。でも、剣道はムリかな。竹刀があれば素振りだけでもできるんだけど...... 。
148 1 a
滞在が半月を越し、徐々にこの国に慣れてきた。とはいえ本当に慣れたのはこの家の中だけだが。でも家事がこなせるようになったのは居候として大きな進歩だ。レインの手伝いをしてあげられるようになって嬉しい。
私の胃もそろそろパン食に馴染んできて、おなかがすぐに減らなくなってきた。
レインは相変わらず優しく親切で、私に嫌な顔を見せたことがない。恐らく彼女は誰に対してもこうなのだろう。ひなたぼっこをしている子猫のようなのんびりした子で、無邪気で純粋だ。一緒にいるとこっちまでほんわかした気分になる。不思議な子だ。
それにしても彼女は学校に行かないのだろうか。確か今日辺りからのはず。
朝食後、私は不思議に思ってレインに聞いた。
"om il kor kit felka?"
"fis e"
やはり今日か。
"son tyu kor fal vadel"
"passo. non kor elf felka fol fou sel mil non xax lan arka a tyu"
私にアルカを教えるためっていうのは嬉しいけど、それで学校を休ませるのは気が引ける。でも、どうしてレインはこんなに親切にしてくれるんだろう。
"es tyu et daj soa a non?"
"kit, mil tyu alkat non siina. xom non nat nan alk fal tyu lex altfian. tet tur, non na nan so lan mil nan siina tyu, xion. non na ban o lol e"
"haan, xan? non na nau tiinal. non tan siina tyu ati tin, lein"
彼女は恥ずかしそうに微笑む。
「でもね、レイン。私のために学校を休むのはやめてほしいの」
"myu... ren rens tu kokko nihongo sof fein"
「レインは 学校を 行くべき です」
日本語のコロケーションでは「学校に行く」だが、アルカの"ke felka"に合わせて「学校を」にしておいた。このほうがレインには誤解なく通じるだろう。これも私なりの人工言語だ。 149
"qm... tet じゃあ しおんは なにを このいえで する ですか。れいんと いっしょ がっこうを いく ですか"
私はこくこくと頷いた。
結局レインと一緒に学校へ行くことにした。「アルナ大学」というところに通っているそうだ。大学といってもここは日本と学年制が違う。日本でいうとレインは高2に当たる。つまり私と同じ学年だ。
アル バザードの学校は2歳から始まる3,4,5,6年制だそうだ。こっちでは私の年だともう大学生だ。
そうそう、レインに年を聞いたところ、16歳だという。夏で17歳というので、私と同い年のようだ。ふつう白人は日本人より年上に見えるが、レインは白人の血がそこまで濃くないので若く見える。それに、やや童顔だというのもある。
大学はmanakaというが、6年間は長いのでsamanaとximanaに分かれている。訳すと「前期大学」と「後期大学」になる。レインはこのsamanaの最終学年であるnarteという学年に当たる。つまり彼女は受験生ということになる。
レインは準備を済ませて居間に下りてくる。手にはかばんを持っている。
"xion, tyu tan et felan ka fia tuan?"
"ya. non tan et narte xalt tu kad"
話をしながら玄関を出る。鍵を閉めて通りに出る。学生だろうか、レインのような格好をした女の子がかばんを持って歩いている。
"kuim on fia tuan, xe meldat tyu atu. lala es a ra noan eyo?"
私をここに連れてきた金髪をレインも知らないらしい。
"en ser"
"xiel, lu et la vik kokkoen tips?"
"tee tee, lu vik at... lant"
"at lant? rens ax ses lant"
「あ、そうか」
思わず掌を合わせた。
アルカだと過去形の繋辞のatは純粋に過去の状態を指す。"lu at lant"だと、前は美しか150 ったが今はそうではないという意味になってしまいかねない。
日本語で「彼は美しかった」と過去形を使うのは、美しいという状態が過去なのではなく、彼を見たのが過去だという理由にほかならない。つまり観測者である私にとっての経験的な過去だ。
アルカは日本語と違い、経験過去とただの過去を区別する。経験過去の場合、文末に過去を意味するsesという言葉を付けるか、今回のように繋辞atの代わりにsesを使う。私ははじめ、これを理解するまで何度か混乱した。母語にない性質は理解しにくいようだ。
"ya, la ses lant"
"lu et mirok ter"
あの金髪が神様? まっさかぁ〜。そもそも神様って存在自体が疑わしいのに。
いや待て...... 。でも実際私をここにワープさせたってことは、それもありえるのかな。
"ol mirok, son ne?"
"lu et deem, non lo"
「悪魔ぁ?」
素っ頓狂な声をあげてしまう。神様じゃなくて悪魔なの?
"xiel, lu et meltia"
メルティアって確か時間を司る悪魔だったわね。
"sol meltia?"
"ya, fien el nask sen tu en sofel"
私を連れてきたのは悪魔メルティアだっていうの? いったい何のために?
"lana to?"
"xalet meltia solsat tyu vano non nonno?"
レインを守らせるためにメルティアは私をアトラスに召喚した? 私は懐疑的だが彼女は自説にすっかり魅入られてしまったようだ。
"ya, tia tia. non xar tu"
"tal, sol deem?"
"deem tan et mirok e, xion"
悪魔も神の一種か。なるほどね。
151
"nee, lein. tur, non asm lan xe a tyu, passo?"
turやfisなどは格を失って独立して文頭に来ることができる。一方、siinaなどは独立して文末に来て、事象に対する肯定的な気持ちなどを表す。こういうのは独立した品詞のようで、私は純詞と呼んでいる。
"ya, leev"
"es tyu ra atu kokko yuu? pin, tix non"
なんで家に一人で住んでいたんだろう。家族はどこに行ったの?
"mil... xite noan leeves atolas"
「レーヴェス・アトラス? この星を去っている? あっ ...... 」
私は口を押さえた。そうか...... やはり ...... 。
"om?"
気の毒な表情で問う。
"mama, im non at lij. yan papa, duurga, sa ko xelt iten lamakt lenan"
お母さんが小さいときで、お父さんが先月...... 。
かわいそうに。お父さんなんてつい最近のことじゃないの...... 。ウチのは二人とも元気でよかった。
"mm... pent"
"qm... uude et fein"
"uude, lein"
"sent. see duurga at yulfan t'art, yun erisfelan eu"
ユルファン・タルト...... 。
間のtは「〜の」という意味だから、アルトのユルファンという意味だよね。art...... ん?
私は辞書を引いた。
「ねぇ、レイン......artって ...... 魔法だよね...... ?」
"m?"
"tyu rensik art sete?"
"ya. duurga at yulfan t'art"
私は二重に驚いた。まず、娘のレインが父親を呼び捨てにしたこと。ドゥルガさんというらしい。何かしら人名の呼び方のルールというのがあるのだろう。場合によっては親を152 名前で呼ぶこともあるというわけだ。
そしてもうひとつ驚いたのは、彼が魔法の研究者だということ。
"art??"
"ya.... lala es tyu na nik ati soa? xiel, fia tuan si art?"
「き ...... っ」
"ki?"
「魔法の世界、キター!」
え、あなたの世界に魔法はないの?
――だって!
"si, si! hayu art xa atu?? xa atolas sete??"
本当に魔法があるのね、この世界には!
"t, tee, a, ax... mm..."
口ごもるレイン。えぇい、まどろっこしい。
"ren ixn ranel!"
"mm, ya. art xa atolas kok mirok. tal lena ar vil tu"
「パッソ! 一般人は魔法を使えないとか、なお燃えるわ ! それでne so sen?? kaan tuan??」
"ya... xiel, mil la at yulfan"
ドゥルガさんなら魔法が使えたかもしれないらしい。
"hai non lo satlan t'artea ar sen xalel art"
聞くや否やアルテアというのを調べる。アルテアというのはどうも国の省庁のようで、その昔神々を呼び出した省庁のことらしい。そこで働く人間の幹部がtalesで、それを束ねるのがartalesというそうだ。
つまりアルテアというのは召喚省とでも呼ぶべきものか。そしてそこの役人の僧侶たちがタレスで、そのリーダーをアルタレスというようだ。彼らが魔法を使えるらしい。
魔法については色々聞きたいところだが、亡くなったばかりという父親のことを思い出させるのはどうかと思い、私は泣く泣くその話題を終わらせた。
レインには悪いが、この世界に魔法があるかもしれないというだけでも希望が持てる。 153
「まほう、きたー。まほう、きたー♪」
「しおん、まほうは き した ですか? きは なに ですか?」
レインの通うアルナ大学は電車ですぐのところらしい。カルテまで徒歩で行くと、そこから電車で7駅だ。7駅といっても1駅がとても短いので近いそうだ。
首都であるアルナ県のアルナ 市は円形都市になっており、同心円状に28本の幹線道路が走っている。上から見ると年輪だ。この28本の道 路にはそれぞれ lantisの名が冠されている。ランティスというのはかつて悪魔を倒した英雄アシェットのメンバーのことだ。
円の 中心には例のカルテ公園がある。住所の番地は駅からでなくこのカルテから数える。つまりカルテに近いところが一丁目というわけだ。
レインの家は年輪の一番内側にあるので、いわば銀座の真ん中にあるようなものだ。すなわち彼女は超お嬢様ということになる。
一方、円の中心からは東西南北12の方位に道が伸びている。時計に使うアルミヴァの12神を取って、アルミヴァ通りというらしい。
レイン の家は4時の方角に当たるネルメス通りにある。そして28本の同心円のうち一番内側のリディア通りにある。したがって住所はネルメス=リディアとなる。
街は12本のアルミヴァ通りで区切られているが、おおまかに分けると東西南北それぞれの街区に分かれる。北区は学校や官公庁などが集まっており、南区は商業地区になっている。西区は集合住宅街で、いわゆる庶民の街。そして東区が一戸建てのある街で、いわゆる高級住宅街。
アルナ 市の直径は約12.5kmで、 私の記憶によれば山手線の南北の長さ——大崎から田端までの間——より やや短い 。街の端から端まで行ったとしても徒歩で2時間 強、自転車でおよそ30分という 距離 だ。
アルナ 市は9つのエリアに分かれている。28本あるランティス通りのうち、内側14本以内の区域を中央アルナと呼ぶ。それ以外の8区域を北アルナや北東アルナなどと呼んでいる。
行政上はこの街をhaimという単位で呼んでいるらしい。直径12.5kmの円でできているので、 大きさからしても市と訳すのがふさわしいだろう。 154
そこまで広くない街なので、移動は主に自転車か徒歩だ。遠出には車を使う。鉄道は地下鉄が発達している。街中は地価が高いこともあってか地下鉄のみだ。地上はバス網が発達している。
中央カルテン駅から北区を通るコノーテ線に乗ることにした。地下鉄の入り口はカルテン付近にあり、日本と同じように階段を下りていく仕組みになっている。
アルシェさんのおかげで切符を買わなくとも地下鉄に乗れる。アンセは便利だ。
階段を下りようとした際、エレベーターがあるのに気付いた。しかし誰も使おうという気配がない。
「レイン、あれ使わないの?」
「え?」
「みんなは xtarez 使う ない ですか?」
「あれは fiina ふるい ひと」
ははぁ、お年寄りが優先的に使えるように若者は遠慮してるってことね。福祉と道徳がしっかりしてるなぁ。
アルバザードの人々を見ていて思ったのだが、彼らは総じて感じがいい。目が合うと微笑んでくれるし、道も汚れていないし、店員も親切だし、客も偉そうにしない。
アルティス教を軸とした道徳教育がしっかりなされているのだろう。たまに明らかにガラの悪い人もいるが、それはどの国でも同じことだ。
階段を下りるとゲートがあった。ゲートといっても頭上に銀色のアーチがあるだけ。見慣れた改札もあるが、ほとんどの人はアーチの下を通っている。
どうやらアーチがアンセの個人情報を読み取って乗車記録を付けるらしい。何月何日何時何分に誰が中央カルテン駅改札を通ったかということが記録されるのだ。
降りる駅でもアーチでデータが記録される。その結果、私がどこからどこに乗っていったのかが分かり、料金が課されるというシステムだ。切符もチャージもいらない。手荷物いっぱいでも楽々だ。
「これは便利ね」
ホームは日本と似ていた。灰色の無機質なホームだ。ジュースの自動販売機はないが、155 ベンチとキヨスクはある。
飛び込み防止用なのか、電車が来るまでついたてが立っている。ついたての前に立って電車を待つ。
「あと何分なんだろ...... 」
きょろきょろするが、電光掲示板はない。それどころか時刻表も見当たらない。レインを見るが、彼女は一向に気にする様子がない。
"nee lein, om lop luna?"
"tyu en terat xe fo teu "tuun"? tu fo apia leevlop kokko ras enat"
なるほど、「トゥーン」という音の鳴る数で「あと何分で電車が来るか」を教えているのか。2回鳴ればあと2分ということ。よく見ると音と同時に近くのライトが点滅している。難聴者用だろう。それはそうと、10回も 「トゥーン」が鳴ったらうるさくない?
"tu te lav xel fo luna ras 10 as?"
"passo, 3 ras et alka"
なるほど、最高3回までなのね。それで済んでいるということは、そもそも山手線みたいに本数が多いんでしょうね。あるいはアルバザード人は本数が少なくても気にしないとか。
しばらくすると電車が来た。電車に乗るのは北城高校からの帰り道以来だ。
日本のより車両の数が少ない。中は新幹線のように横向きの席になっていた。片側に3人がけの長いす、片側に2人がけの長いすがある。間は廊下になっている。1列につき5人座れる計算だ。
どうして3:2になっているのか考えた。なぜ異世界なのに日本の新幹線と同じ造りなのだろう。それは恐らくグループで座りやすくするためだ。
2人組みのときは2人がけの席を使えばよい。3人組のときは3人がけを使う。4人の場合は2人がけをふたつ使い、席を回転させて向き合わせる。5人組みのときは1列使って5人にする。6人組のときは3人がけをふたつ使う。
こうしておけば、どういう組み合わせでもグループの中で一人だけ仲間はずれになることがない。実に客に配慮した造りだ。
サービスの向上を考えれば日本でもアルバザードでも同じ結論に辿りつくということだ。かねてより私が主張してきた「異世界は案外地球に似ている」説が、またひとつずつ156 例証されていく。
通勤時間帯なのですし詰めかと思ったが、そこまでではなかった。それなりに混雑しているし座るのは明らかに無理だが、ぎゅうぎゅう詰めということはない。いずれにせよ、こんなにたくさんのアルバザード人を見たのは初めてだ。
カルテン駅を過ぎて北区に入ると徐々に空いていくらしい。逆に言えばこの駅が混雑のピークだそうだ。
レインを見て勝手にアルバザード人は体臭の少ない民族だと思っていたが、それは早計だった。食べ物が違うからか、近付くと結構鼻につく。香水もけっこうキツイ。だが匂いはお互い様かもしれない。日本人は醤油臭いとよく言われるから。
手持ち無沙汰なので中吊りでも見ようかと思ったが、広告がない。そういえばヨーロッパには中吊りのない国があるが、ここもそうか。
暇じゃないのかなと思って周りを見回す。アンセでゲームをしたり談笑に興じていたりと人それぞれだ。ケータイで話している人もいる。電車で電話はアリらしい。色んなところで日本と違うんだなと思った。
「ん ...... 」
レインの腰のところに男の人の手が当たっているのに気付いた。でも彼女は何も言わない。身をよじる素振りも見せない。腰なのでグレーゾーンなのだろうが、私だったら確実に避けてる。
「ねぇレイン」聞こえると困るので日本語で伝える。 「触られてるよ」
「うん ......? 」
どうやらこちらの意図が伝わっていないようだ。
「イヤじゃないの?」
「どうして...... ?」
「おじさんだよ」
「べつに ...... 。しおん しつれい だめです」
あれ、おかしいな。私が神経質なだけなんだろうか。周りを見ると結構他の人達もそんな感じだ。レイン自身、ちゃっかりおでこを前の人の背中に押し付けている。
157
7つ目のコノーテ=メル駅で下車する。
結構肩が凝ったな。
アーチをくぐって階段を上がる。出たところはもうアルナ大の目の前だった。
実はアルナ大というのは日本の東大に当たる名門校だそうだ。どうりでレインは頭がいいわけだ。
アルナ大は巨大な敷地内に小学校から大学院まですべてが併設されている。レインの通う前期大学は後期大学の横にある。
構内には変わった建物がいくつか並んでいるが、日本で見られるような変哲のないビルもある。日本の高校のように横に長い建物もちらほらと見られた。
レインのクラスは"alas 5"という棟にあるそうだ。日本語でいえば「西5号館」といったところか。
日本の高校と同じく前期大学まではクラスというものが存在し、皆で同じ授業を受けるらしい。ゼミごとに教室を分ける大学っぽいやり方は後期大学になってからだそうだ。まぁ大学 というものについては私も まだ高校生なのでよく分からないんだけど。
西5号館の入り口にある短い4段の茶色い階段を登ると、その先は廊下になっていた。レインは迷うことなく教室へ向かう。今日から新学年なのだが、自分が今年何組になるかは去年の期末試験の成績発表の段階で分かっているという。
1学年のクラスの数は14と決まっており、日付や道路にも使うランティスを使って表すそうだ。
文系理系という単純な2分法ではなく、もっと細かい分け方をするそうだ。語源になったランティスの個性を反映しているらしい。
まず、14クラスある中で最も優秀な人間が集められる特進クラスをリディア組という。リディアというのはアシェットの第一使徒で、ランティスの一番目でもある。つまりリディア組は一組と言い換えることができる。
リディアはかつて世界を悪魔テームスから救った女の人で、この世界の英雄だそうだ。300年以上前の人だが、なんとアルナ大の卒業生だったらしい。非常に頭が良く、首席で卒業したそうだ。それに敬意を表して特進クラスには彼女の名が冠されている。
リディア組には文系理系の両方が集まっている。超人集団なので、両方ともできるらしい。恐ろしい話だ。 158
理系クラスで一番優秀なのは七組で、メル組という。文系クラスのトップは十四組で、セレン組という。
一風変わっているのが八組で、異能科と呼ばれているようだ。特殊な技能や才能を持った人間が集まっているとのこと。占い師や巫女や魔導師といった人々が通っているらしい。私的には非常に興味がある。
「で、レインは何組なの?」
彼女は日本語の意味が分かったようだが、苦笑して首を小さく振るだけだった。
ある教室の前でレインは立ち止まる。ここがそうらしい。ドアに書かれたクラス名を見ると、1と書いてあった。
リディア...... えっ、特進クラスじゃない!? ちょ ...... 東大の特進ってこと? いや、レインはまだ日本でいうなら高校生だから、開成の特進みたいなものか。いやいや、女の子だから慶応女子の...... 。
などと考えていると、レインはすたすた中に入ってしまった。部外者の私が入っていいものだろうか迷いながら付いていく。
教室の造りは日本と大差なかった。違いと言えば、男女で机がペアになって並んでいるということがない点か。机はひとつひとつ碁盤の石のように整然と並んでいる。教室の前にはホワイトボードがある。黒板ではない。塾のようだ。
先ほど通りがけに開いている教室の中が見えたが、そこは円卓になっていた。教室によって造りが違うようだ。
中には既に十数名ほどの生徒が集まっていた。去年まで一緒だった者が多いのだろう。新学期だというのに彼らは歓談に興じている。
しかしレインはややうつむき加減で静かに歩き、誰に声をかけるというわけでもなく席に着いた。多分その席は去年から一緒なのだろう。窓際の後ろから3番目の席だ。
レインに気付いた少女が"soono"と言う。レインはにこりとして小さく返すが、それで終わりだ。私について聞いてくる人もいない。
なんだか...... レインって地球での私に似ているな。
彼女はかばんを机に置いて筆記用具などを机の中に入れると席を立った。私を連れて外に出て行く。 159
少し離れた部屋に入る。そこは生徒が本を読んだり歓談したりする部屋のようで、レインは私にここで待つようにと言った。
「うん、分かったよ」と返事したとき、突然"leeein!"というやけに明るい声が私の背中を刺すように響いた。
何事かと思って振り向くと、そこには腰まで届く長い黒髪の女性がいた。肌が真っ白で、同じく透き通るような白いローブを着ている。そのローブは床に届きそうなほど長い。
"fiima, alia"
レインがにこやかに挨拶をすると、アリアというその女性は飛び掛るようにレインに近寄り、"noel nat reia mil si xian var nian e!"と早口で言いながら、ぐしゃぐしゃと彼女の頭を撫でた。
もともと癖毛なレインの髪がぐしゃぐしゃになる。「にゃー」とか言いながらレインは苦笑して彼女の手を解いた。
私は彼女の迫力に圧倒されて黙って見ていた。彼女はパッと見おしとやかそうに見えるのだが、性格はまったく逆のようだ。
"lutia at ak?"
"tinka! len leemi kad et daz a noel teu yunk domt!"
"yunk l'anx nan lex noel sete? ahah, ku ku!"
口元に手を当ててくすくす笑うレイン。こんなに打ち解けた様は初めて見た。どうやらこのアリアという子と仲が良いらしい。
彼女は私に気付くと少しよそ行きの声に変え、"semaim tuan?"と聞いた。レインが"ya"と答えると、彼女は一歩前に出て、丁寧な口調で握手を求めてきた。
"alia, alia ineaato. anestol"
"non et xion, anestol"
握手に応じる。欧米人のようにぎゅっと力強くやられるのかと思ったら案外弱かった。
"tyu et altian tex eel, sete? kekko a felka lenan"
どうも私はアルティア人に見えるらしい。アルティアというのは極東の国で、だいたい地球で言えば日本だから、彼女はけっこう良い勘をしている。
なんで極東のアルティア人がここにいて違和感ないかというと、アルバザードの南部にカレンという地域があり、そこに多くのアルティアからの 移民が暮らしているからだ。 160
"qm... tyu tan et koksaim e lein?"
"tee, non et raldura"
異能科 か...... 。するとレインがフォローを入れる。
"lu et mei e ra e fuulan esti. xom lu lodes a raldura tisse"
占い師 ...... そんなのが本当にいるんだ。そういえば、格好がそれっぽいね。
"fuulan kaks? tu et siiyu"
私が驚くと、彼女は不敵な笑みを浮かべた。
"tee tee, tio non vastat tu felka kokko fuul on tas"
しかし私は彼女のネイティブスピードのアルカがよく聞き取れず、首を傾げて日本人スマイルを浮かべてしまう。すると彼女は困惑した顔で眉を上げる。レインは慌てて"te em rana. luube et looa al arka"とフォローした。
どうもアリアさんは私に冗談を言ったのではないか。私が「はぁ?」みたいな顔をしたからレインが慌ててフォローをしたものと思われる。
そのままレインは私を置いてしばらく彼女と話し込んでいた。やがてチャイムが鳴ると二人は去っていき、私はこの部屋で待つことになった。辞書を取り出す。いまのうちに単語を練習しておこう。
レインが戻ってきたのは案外すぐだった。今日は初日なのでガイダンスがある程度で、授業はないらしい。なのでこれで終わりとのこと。日本と同じだな。
ここの学生はお昼は弁当か構内のカフェテリアを利用するらしい。今日はカフェにするそうだ。カフェは構内に点在しており、一箇所に固まっていない。大きい学校だからそのほうが合理的なのだろう。
カフェは日本の喫茶店という感じで、私の高校の学食とは随分雰囲気が違っていた。行きつけの店なのか、レインは慣れた足取りで入っていく。
馴染みの店員らしき人物と世間話をしつつ注文を取る。私はトマトソースのパスタを頼んでもらった。レインはカルボナーラにしていた。
こないだアルシェさんを見たときも思ったのだが、アルバザード人は気さくでよく人に話しかける。ちょっと何かを注文するにも軽く話をしてから頼む。日本だとコンビニで「あっためてください」と言うのも面倒がる人がいるのに、対照的だ。
パスタを待っていると、レインのアンセが光る。電話のようだ。どうも相手はアリアさ161 んらしい。合流しにくるそうだ。レインはペペロンチーノとアラビアータをあらかじめ追加注文しておいた。
アリアさんは2皿も食べるのだろうかと思って驚いたが、数分後に現れたのはかばんを持ったアリアさんとアルシェさんだった。どうやら彼は共通の友人だったようだ。
彼女は私を見てにこりとすると、前の席に座った。アルシェさんはこちらを見て一瞬躊躇した後、私の横に座ろうとする。するとレインが少し焦った表情で彼を制し、"xion, atu"と言って私をひとつ横の席に動かそうとする。
ははぁ、席次のマナーか。どうやら私は上座に陣取っていたらしい。ここは年上のアルシェさんの席になるようだ。彼が来た瞬間、私は席を立つ必要があったようだ。
レインは日本にも同じマナーがあるはずと思い込んでいたのか、私に事前にマナーを教えなかった。そのせいか、彼女はバツの悪そうな顔をしている。
アリアさんは少し驚いた顔で私を見ていた。目が合うと、彼女は気まずそうに下を向いた。なんだか急に重い空気が流れる。恐らく「どうしてマナーも知らない子がウチの学校に?」と思ったのだろう。恥ずかしいなぁ...... 。
しかしアルシェさんは苦笑すると、私の椅子を指差した。
"in ranel limel sein, skil luut et ratsrats. an em ris rien xed rei im harx tis a"
するとアリアさんは納得した顔をして、"pana e"と言った。
アルシェさんの絶妙なフォローに感謝しつつ、レインをチラっと見た。すると、彼女は水を飲むふりをしながら微かに目を下から上に動かした。恐らくこれは「今のうちに立ったほうがいい」というメッセージだろう。私はすっと立ち上がって彼に席を譲った。
"dyussou arxe, tyu klitik non ratel rak. tio tu skil et rats ento tu mols fil bebelel xel non sor nan antisse"
すると彼はにこやかな顔でお辞儀をすると、私のいた席に座った。代わって私がアリアさんの前の席に座ると、彼女は私に好意的な視線を向けた。
椅子がガタついていたせいで席を譲るのに時間がかかったというユーモアはどうやらアルバザード人の口に合ったらしい。どうにかこれでアルバザード人とのお付き合いの審査に は合格できたようだ。彼らと親しくなるには知性と品性だけでなくその上ウィットまで必要なようで、ハードルが高い。私は冷や汗を隠しながら笑顔を見せた。
レインはというと、驚いた顔で私を見ていた。ウィットを出せるレベルに達していると162 は思っていなかったようだ。
実を言うと今のセリフは先ほど辞書を使って勉強していたときに覚えた用例を応用したものなのだ。単語だけ覚えても言語はどうにもならないということを改めて痛感した。
食事中、私は周りの人の食べ方をまねるので精一杯だった。アリアさんに異世界人ということがバレないよう聞き役に徹し、なるべく喋らないようにしていた。
それにしても、どうして私はこんなに胃の痛い思いをしてまで異世界人であることを隠さねばならないのか。まぁレインやアルシェさんのような理解者ばかりではないかもしれないから仕方がない。
彼らの会話は早く、語彙も豊富で難しい。私はあまり聞き取ることができなかった。アルバザード人は話し好きなのか、まぁよく喋ること喋ること。男性のアルシェさんも非常に流暢だ。
テンションが和やかなのも特徴的だ。これだけカフェの中に人がいるのに騒がしくない。アルカという言語の特性なのか、音域が狭いため抑揚が小さく、非常になだらかに聞こえる。うるさく聞こえないので、長時間でも耳が疲れない。
会話の細かい部分は聞き取れなかったが、いくつか分かったことがある。
まずアルシェさんはレインの恋人ではないようだ。レインもアリアさんも彼のことをetto(お兄ちゃん)と呼んでいる。とはいえ苗字も顔も違うので、明らかに親族ではない。どうも親しい年上をそのように呼ぶようだ。
アルシェさんのほうもレインやアリアさんをlimel(妹ちゃん)と呼んでいる。
なお、レインは彼のことをsalan(先輩)と呼んだり、arxeと呼び捨てにすることもある。etto, salan, arxeを使い分けているということだ。どうも会話の内容によって使い分けている感じがする。
推察するに、自分と対等な個人と考えているシーンではarxeと呼び、親しい年上としてはettoと呼び、アルナ大の先輩として捉えるときはsalanと呼んでいるのではないか。
ときに、アルシェさんはかつてこの学校の生徒だったらしい。しかしレインたちとは年がかなり離れているので同じ時期に通ってはいなかったはずだ。どうやって知り合ったのだろう。
"nee lein, dyussou at felan e tu felka sete? tet lu et hasm tiina nod lena. xom es lu serat 163 lilis?"
"qm..."
レインは説明に困った顔をした。するとアルシェさんが私のほうに肩を開きながら説明する。
"man luus et mei e lensliifa tisee. tisa, arnamana til 6 lan l'et hax alka. see 5 e luus leis liifa e lens kont 1 del hax alka xtam nos seel tu liifa. fe felnif til lensliifa. yan lein yutia et mei e lensliifa, rafa et seel e liifa"
ふむ、アルナ大のトップ6人を集めた知能集団をレンス・リーファというのか。レンス・リーファは各学年に存在し、レインもその一員と。しかも彼女はその中で最も優秀なのか。
ん、待てよ。それって日本でいうと開成で一番頭の良い人ってことにならないか...... ?
私は目を皿のようにしてレインを見た。彼女は気まずそうに斜めを見ている。
――こ、この 天然娘 、そんなに頭が良かったのか!
"see alia tan et mei e lensliifa. xink, an tan at soa. yan arnamana til axe fiinaen mei e lensliifa. alson an itonat luus tisee"
彼が言うには、アリアさんもレンス・リーファのメンバーだそうだ。メンバー同士の同好会みたいのがあって、そこで皆互いに知り合ったらしい。アルシェさんはOBだそうだ 。
"haan, alnak ranel. seere"
昼食後、アリアさんは妹さんと約束があるとかで帰っていった。レインは私を買い物に連れて行くといい、アルシェさんも同行することになった。
アルシェさんはレインのお父さんが勤めていた魔法研究所の研究生らしく、レインのお父さんと同じ部署だったそうだ。そういう付き合いもあってレインのことは妹のように可愛がってきたという。
コノーテ=メル駅から繁華街のカルザス通りまで電車で移動する。ここには巨大なモールがある。モールには大勢の人がいた。
まずレインは服屋に入った。日本と違ってスーパーやデパートは見当たらず、小売店が目立つ。この服屋もそのひとつだ。レインは自分が着ているような服を私に当ててサイズを測った。
"tyu lax wel?" 164
"non en ser wel et daz a non. xom tyu ren jig fiina non"
"alna"
レインが買ってくれたのはアルティス教徒の服と、普段着であろうスカートやブラウスだった。彼女は試着室で私にラーサとルフィを着せ、店を出た。
日本だったらコスプレっぽい格好だが、ここではこれがふつうだ。私はアルティス教徒体験ができて上機嫌になっていた。
服の次は靴だ。靴屋に行き、私に合うサイズの靴を4足買ってくれた。室外履き2足と室内履きのサンダルとスリッパだ。
次に食品を買いに行った。小売店ばかりなので肉、魚、野菜など、それぞれの店を回らなければならない。自然と運動になる。
レインはお店を回りながら名詞をたくさん教えてくれた。
荷物はアルシェさんが持ってくれた。レインは自分の彼氏でもないのに平然と彼に荷物を持たせ、自分は学校かばんだけ持ってお気楽そうに歩いている。
「もう、レインたらお嬢様なんだから...... 。アルシェさん、持ちますよ。両手いっぱいは流石にきついでしょ」
"m? ti ku lax to? a, ti pio van vei? passo, passo"
しかしアルシェさんは苦笑して首を振るだけだ。この国では大人しく男性に持ってもらうほうが行儀が良いことなのかもしれない。そういえば周りを見てもみんな男性に持ってもらっている。
リディア通りまで来ていたのでこのまま歩いて帰ることにした。リディア通りを北東に向かって歩いていくとすぐレインの家に着いた。もう日が暮れていた。
荷物を持ってもらったお礼にレインはアルシェさんにお茶をごちそうした。せっかくだから夕飯も食べていってもらうことにし、その日は3人で楽しく過ごした。
165 2 u
地球を離れてはや6週間。日本ではもうとっくに年を越している。こちらの寒さは日を追うごとに厳しくなっていく。
あぁ、期末テスト、サボってしまったな。私の内申点はこれで終わりだな。まぁいいか。代わりにここに来なければ一生味わえなかったような経験をさせてもらっているのだから。
今日はアルシェさんの家にお呼ばれしている。
アンセをくれたのは彼のお父さんでハインさんというのだが、まだ直接お礼を言っていない。それをレインが気にして、菓子折りでも持って挨拶しにいこうということになった。こっちでも菓子折りってあるんだなぁと思った。
お伺いしたいのですがと伝えたところ、アルシェさんはどうせならアリアも連れて皆で食事でもしようと提案してきた。
そういう事情で今日は小洒落たワンピースを着ている。レインが貸してくれたものだ。レインは 私より少し小さいので若干 窮屈だがしょうがない。
アルバザードではpartの曜日に官公庁や教育機関が休むから、事実上そこが日曜となる。
そのほかに1日、各個人が好きな曜日を選んで休む。つまり週休二日で、日曜以外に自分で1日休みを選べるというシステムだ。
ただ学校は日本でいう大学生になるまではvelmとpartが固定で休みなので、5日行って2日休む感じだ。私の感覚でいうと土日でなく日月が休みという感じだろうか。
今日はセレンの日で曜日はパルトだから、つまるところ日曜だ。役所勤めのハインさんは休暇を取っている。
アルシェさんの家は官公庁に近いティーテル=リディア通りにあるそうだ。リディア通りということは一等地だから、霞が関の近くに住んでいるようなものだ。
正午前に家を出て中央カルテン駅へ向かう。
ホームに降りると"lein, xion"という声が聞こえた。待ち合わせをしていたアリアだ。先に来ていたらしい。 166
"soono, alia"
"soono, xion"
慣れたもので、最近は互いに呼び捨てだ。
ちなみに私が異世界人だということはもう知られ ている。流石は占い師というか、あの後あっさりバレてしまったのだ。
アリアは別に私を避けるわけでもなく、むしろ物珍しそうにしていた。レインといいアルシェさんといい、どうしてアルバザード人はこうも寛容なのだろう。
彼女は今日は髪をアップにしている。歩くたびに長い髪が尻尾のように舞う。コートの下は透き通るような水色のドレス。白い肌と合わさってまるで精霊のようだ。あまりの綺麗さと 、女子高生とは思えぬ迫力のある胸に圧倒された。
...... ごめんなさい、ワンピを着てちょっとでも「あたし、イケてね?」と思ってしまってごめんなさい。
それにしても彼女は本当に迫力がある。近付くと分るのだが、背が大きいのだ。アルシェさんとあまり変わらない。
ティーテル=リディア駅で降りると5分ほどでアルシェさん宅に到着した。
そこは軽く宮殿を思わせるようなところだった。同じリディア通りでもレインの家とはだいぶ違う。
「うわ ...... どんだけセレブよ」
ウチなんか辺境のベッドタウンなのに...... 。ローンが完済していることが唯一の自慢なのに ...... 。
門の時点で格が違った。黒塗りの大きな鉄の門だ。ウチなんかの安っぽいキーコキーコいうヤツとは比べものにならない。
「あぁ、どうりでおめかしして来る必要があるわけね」
チャイムを鳴らすと中から50絡みの男性が出てきた。ハインさんかと思ったが、レインが先走ろうとする私を制する。どうやら執事さんらしい。
—— 執事! ありえん! ペガサスとかと同じで、架空の生物ではなかったのか。
客間に通される。そこもまた立派な部屋だった。
「すごーい、豪華」
ふかふかの椅子に座ってきょろきょろしていると、執事さんがお茶を持ってきてくれた。167 食器も高 そうだ。茶葉も良いものなのだろう。
執事さんが紅茶を配っているところでアルシェさんが入ってきた。
"hei, limel sein"
"soonoyun"
彼は執事さんに目をやると、"ansent on etek. see bekka xa ez anmia?"と尋ねた。
"ya. jet ke das yunk sein, arxe sou"
"ax, anseere"
そのやり取りを見ていて意外に感じた。今のを訳すとこうなる。
「(彼女たちに)紅茶を出してくれてありがとうございます。親父は部屋ですかね?」
「あぁ。お嬢さん方を連れていってあげなさい、アルシェ君」
「はい、ありがとうございます」
とても執事と坊ちゃんの会話には思えない。
レインの袖をちょいちょいと引っ張り、この疑問を投げかけた。
彼女曰く、アルバザードの一部の上流階級は息子をお坊ちゃん扱いさせないで育てるらしい。甘やかされたボンボンに後を継がせる気はないということだ。これは千年以上続く伝統的な教育法で、最初はアルバザード王家がはじめ たものだそうだ。
アルバザードは今でこそ大国だが、昔はルティアの魔法兵団やメティオの魔獣兵団、それにアル ティアの武士といった面々に圧倒されていたという。
そんな国を必死に叩き上げてきた代々のアルバザード王は自分の遺伝子よりも国の未来を優先させ、実子であっても品格と能力を有しない人間には後を継がせなかったそうだ。
王は能力の高い子供を養子に取り、実子とともに教育を施す。養子のほうが優秀なら養子を跡取りにする。
そうなると実子は王子でいるために必死になって勉学に励む。切磋琢磨させることで跡取りを鍛えるというわけだ。
そういえばローマ帝国が繁栄した五賢帝時代も養子に後を継がせていたな。まぁ五賢帝とア ルバザード王家では事情が異なるが。
ともあれ、やがてその手法が王族から上流階級に伝わった。それでアルシェさんのような家庭があるのだという。実際彼には兄弟こそないが、養子の義兄弟はいるそうだ。 168
もちろん、皆が皆この手法を採用しているわけではない。こういう家もあるという話。坊ちゃんと呼ばれて育った人もいるし、さらにその中にはダメ二世もいるそうだ。
「ところ変わればねぇ」
アルシェさんに「変わった教育ですね」という旨を伝えたところ、実際に偉いのは父親であって自分ではないから、若造が年上の使用人にタメ口を聞くのはおかしいと返してきた。「ここ、メイド募集してないっすかね」と思ったのは言うまでもない。
お茶を飲んで一休みしてからハインさんに会いに行った。部屋は二階だそうだ。
テレビに出てくるような赤じゅうたんの敷かれた階段を登る。ここに いると足音まで優雅になる気がする。アルシェさんはスタスタと先に登っていく。
「...... あれ」
ちょっと意外な声を出す私。
「しおん、どうした ですか」
「アルシェさん、私たちの前を歩いてるでしょ。いつもなら階段を登るときは後ろにいて、踏み外しても大丈夫なように気遣ってくれるのに」
レインは日本語の喋りはまだまだだが、聴き取りはわりとできるようになってきた。ゆっくり話してあげれば7割方は理解してくれる。
少し間があってから彼女は文意が分かったようで、「あぁ」という顔をする。それからすぐ首を振って苦笑いをした。
「ありあ せがたかい きにするです。ありあ きにするないために おにいちゃん かいだんで まえにたつです」
「え、で もアリアって前に私が『背ぇ高いね』って言ったら『スタイルいいでしょ?』って笑ってなかった?」
「ありあ ほんとうは とても かなしい でした。すなお ないです」
「...... そっか」
全然気付いてあげられなかったよ、私...... 。アルシェさんは黙って読み取ってあげていたというのに。
部屋の前に着くとアルシェさんはドアをノックする。
"xirius, tu et men. meldes yunk sein" 169
「父上」かぁ。流石に本人の前では「親父」とは言えないのね。
"ren lat"
威厳のある声が返ってくる。緊張で喉が鳴る。
中はいかにも執務室という感じだった。左右2面が本棚で奥が窓。正面には大きな机があり、執事さんと同じくらいの年齢の男性が座っていた。精悍な体つきで、髭を蓄えた素敵なオジサマだ。
"ou, sol ti et ca yumanan ankok, yunk"
ハインさんは立ち上がるとナーシャをしてきた。アルシェさんもやっていた例の執事っぽい仕草だ。お姫様気分を味わえる素敵な習慣だ。
用意してきたお礼の言葉を言うと、彼は好意的な笑みを見せてくれた。
よかった、どうやら無事に済みそうだ。
挨拶が終わると彼は異世界の話を聞かせてほしいと言って、予定通り私たちを昼食に招いた。
階下の食堂に案内される。そこもまた立派な造りだった。大きな食卓に白いテーブルクロス。綺麗な食器に冷えたシャンパン。その上燭台まである。
テーブルには既に料理が用意されていた。伊勢エビかってくらい大きな海老に、上品な赤みを帯びたローストビーフ。ほかにもトリュフやキャビアまで。お礼を言いにきておきながらこんなごちそうをしてもらっていいのだろうか。
おかしい...... ウチの親はお金持ちなはずなのに、どうして今まで私はこういう物を口にしたことがないのだ...... 。
...... あ、わかった。私が料理人で、その私がケチだからだ。はい、解決。
食事の間も私は緊張しっぱなしだった。ハインさんは思ったよりは気さくな人だが、アルシェさんに比べると無口で取っ付きづらい。黙っていても威厳が伝わってくるので若干怖くもある。
外人というと女の子に馴れ馴れしいというイメージがあるが、アルバザード人はどうも違う。気さくで親切だが、適度に距離を取ってくる。男性からボディタッチとかありえないし、握手すら求めてこない。
ハインさんには地球のことを色々と聞かれた。ただ不思議なことに――これは直感でし170 かないのだが――何となく彼は私が出す様々な回答を予め知っていたかのような感じがした。
"freinoa"
昼食の途中で一人の若い女性が入ってきた。
アルシェさんと同じくらいの年齢だろうか、黒いスーツを着ている。眼光鋭く背の高い女性で、暗い褐色の髪をひとつに結っている。
"hei sara, ans aror harx ok hacn sam. son jot van a"
それからアルシェさんが紹介してくれた。彼女が例の義兄弟で、saraというそうだ。
"ansoonoyun, non et xion aano"
立ち上がって丁寧におじぎする私。レインとアリアは顔なじみのようで、軽く会釈をしていた。
サラさんは大した興味もなさそうな顔で"sara varktod, anestol"と返した。あまり愛想はないようだ。
彼女は今サラ=ヴァークトッドと名乗ったが、アルシェさんの義兄弟ならアルテームスではないのか。
実はアルバザードは夫婦別姓で、息子は父親の、娘は母親の苗字を受け継ぐ習慣がある。養子でもだ。つまりアルシェさんのお母さんがヴァークトッド姓というわけだ。
ちなみに未成年のうちに親が亡くなると、自動的に残った親の苗字になる。レインも7才までは母方のimanzel姓を名乗っていたから、古い写真などではレイン=イマンゼルになっている。
目線を下に落とすと意外なものが視界に入った。サラさんは腰に黒の短いロッドを下げていた。警備用だろうか。恐らく伸縮できるタイプのものだろう。よく見ると柄にスイッチが付 いているので電磁ロッド――スタンガンの効果があるに違いない。
彼女はどうも表情が硬いというか、明らかに困った事態を報告しにきたという様子だ。
サラさんがハインさんに何か耳打ちすると、彼は一瞬眉を動かし、"saia..."と言って席を立った。
彼はアルシェさんに小さな声で何か言ったかと思うと私に"anpentant, yunk. an leev fal in. ansentant on harx ban"と言い、サラさんとともに去っていった。
171
「なんだかあっけなかったね、昼食会」
お偉いさんは大変だなぁ。こんな休みの日まで忙しくて。
父親の中座が気まずかったのだろう、アルシェさんがフォローするかのように理由を説明してきた。
ただその理由は地球人の私にはピンと来ないものだった。というのも、出てきたキーワードが「神話」だったからだ。
ここで 一旦 この世界の神話についてさらっと触れておこう。
この世界にはエルトとサールという神の一族がいる。いわば神の二大派閥だ。
彼らはアルフィという世界に住んでいる。しかし もと もと はアルバザードに住んで いた。そのため、未だにアルバザードに影響力を持っている。というより実質的にアルバザードは属国のようなものだ。
サールの王はアルデスという。そのアルデスの息子に地の龍トゥッティというのがいる。
以上で「さらっと」はおしまい。実は私もあまり神話に詳しくないのだ。
アルシェさんが言うには、地の龍トゥッティが去年の秋に神々の武器を2つ紛失してしまったとのこと。神々の武器は総称してヴァストリアという。
紛失といっても電車に傘を置き忘れたというようなイメージではない。悪魔シェルテスというのに襲われ、奪われそうになったのだ。シェルテスは月に住む狼の化身のことだ。
トゥッティは争いの最中アルバザードの方角へとヴァストリアを落としてしまったという。
アルデス王はこの国の召喚省にヴァストリアの捜索依頼を出した。召喚省とはハインさんが働いているところだ。
神の依頼を受け、召喚省長官のフェンゼル=アルサールは部下たちにヴァストリアを探させた。ハインさんはフェンゼルの部下で、彼も捜索隊の一人だという。
あぁ、固有名詞ばかりでややこしい...... 。
その件で召喚省の上層部は最近慌ただしいらしく、今中座したのもそれが原因だそうだ。アルシェさんは魔法研究所所属なので退席する必要はなかったようだ。
「神ねぇ ...... 」
役人が真面目な顔で神の紛失物を探しているという絵が地球人の私にはどうも理解で172 きなかった。
昼食を済ませると私たちは再度お礼を言ってお暇した。
まだお昼過ぎだし今日は休日なのでアリアも暇らしい。そのままこっちの家に寄っていくことになった。
帰り道、私はサラさんのことを思い出していた。ちょっと冷たい感じのするスーツの女性。仕事のできそうなキャリアウーマン風の彼女。義兄弟ということは後継者争いをアルシェ さんと繰り広げているのだろうか。
気になってレインに聞いてみると、意外な答えが返ってきた。確かに昔はアルシェさんと張り合っていたが、今は彼の人柄に触れ、自分から彼のサポートに回っているらしい。義兄弟が競争相手から転じて側近になるのは稀にあることだそうだ。
ちなみに年は22で、アルシェさんより3つ下だそうだ。
家に着くと私は自分の部屋に戻った。とりあえず普段着に着替えたい。このワンピは可愛いのだけど、ちょっと窮屈だ。
着替えを済ませて向かいの部屋へ行く。このときの私はまだ あんな赤っ恥をかくことになるとは思ってもいなかった。
中からレインとアリアの話し声が聞こえる。
「おまたせー」
ガチャっとドアを開ける。
――そして。
「な ...... 」
ドアを開けた私は信じられないものを見てしまった。
アリアがレインの背中にしなだれかかり、彼女のシャツを肩口まで脱がせていた。
それを見て思わずその場で凍りついてしまった。
「な ...... な...... 」
目の前の信じがたい光景に突如頭が真っ白になる。
下着の肩紐は横にずらされており、細い腕に向かって垂れている。
「ふたりとも...... いったい何を」 173
紐を外されたレインは下着が落ちないように手で押さえている。一方アリアは右手でレインの肩を抱き、左手で彼女の鎖骨に指を這わせていた。
—— ちょっと休んでいこうって、「ご休憩」的な意味でしたか!?
"xion?"
少し火照った頬を私に向けるレイン。
目が合った瞬間、私の頭のてっぺんからヤカンのようにぽしゅーっと湯気が吹き出た。と同時に脊髄反射で大声が出る。
「しっ、ししし失礼しましたぁっ!!」
勢いよくドアを閉める。これがトマトだったらさぞやよく売れるだろうというくらい真っ赤な顔で。
「み、見てはいけないものを見てしまった...... 」
壁に手をついて鬱になる私。「見ざる」になりたかった反省猿、ここに現る。
そういえば...... アリアは最初からレインにボディタッチが多かった気がする。
そうだ ...... 思い起こせば私にもぺたぺた触ってきていた。
レインもレインだ。どうしてあれだけ可愛いのに彼氏を作らないのか不思議に思っていた。まさか...... こういうことだったとは...... 。
するとドアがガチャっと開いて、レインがちょこんと顔だけ出してきた。
そしてこんなことを口走る。
「しおん、いっしょに するしましょう?」
「ほぁっ!?」
素っ頓狂な声が出た。
レインは手を握ると、中に引き入れようとする。だが私は全力で抵抗する。
「いや、ムリムリムリ! 女、女、女じゃリアルに『姦』じゃん!!」
――何を言っとるんだ、私は。
――2分後。
私は猛烈な虚脱感で机の上に突っ伏していた。相変わらず顔から湯気が出ている。
...... なんのことはない。暇を持て余したアリアがレインにリンパマッサージのやり方を教えていただけだった。 174
「ふ、邪念にまみれていたのは私のほうだったようね...... 」
第一胸椎から鎖骨にかけて指で圧し擦るようにしましょう。血流が良くなり、老廃物も除去されます...... って、どうでもいいわ!
その後、アリアも一緒に夕飯を食べていくことになった。それにしてもとんだ恥をかいたものだ。
この国では2才から幼稚園に相当する小学校に通う。アリアもレインも小学校のころからアルナ校に通っている生粋のアルナ校生だ。彼女たちは中学校で知り合い、友達になったという。きっかけはレンス・リーファになったことだったらしい。
幼なじみなので自然と昔話になる。昔話をすれば自然とレインの亡くなった家族に触れる。もちろんアリアも気にして直接家族の話はしない。だけど過去の出来事を話す以上、どうしても思い出させてしまう。
家族については前に少しだけ聞いたことがあった。そのときは遠慮して深く聞けなかった。だけど気になってはいる。どういう事情でレインは一人でここに暮らしているのか。
今夜のレインは珍しく物憂げな様子だった。家族の話をされたくないというよりは家族の話を聞いてほしいという感じだった。喋ることで発散したいのだろうなと思った私たちはレインに好きに喋らせた。
色々なことが分かった。レインのお母さんは彼女が7才のときに肺の病気で亡くなった。もともと体が弱かったが、レインを産んだことでますます弱くなってしまったらしい。
小さいころにアリアも何度か見たことがあるらしい。とても綺麗で優しそうな人だったそうだ。
お母さんはお父さんのドゥルガさんと幼なじみだった。長くは生きられないと子供のころから言われていたからドゥルガさんの親族は結婚に反対した。それでも彼は一向に諦めなかったらしい。
この話をするときのレインはちょっと楽しそうだった。先方の両親にまで反対されたお父さんはお母さんの部屋(二階!)に忍びこみ、彼女を担いで窓から逃げたんだそうだ。ある意味「略奪愛」ですな。
でも結局は病弱な体がネックになってしまった。肺が弱いのはレインも同じで、走った175 りするとすぐ胸が苦しくなるそうだ。
私はおなかがあまり強くないし花粉症で苦しんでいるが、辛いのは自分だけと思っていた。レインはいつも我慢して文句を言わないから、彼女の肺のことはちっとも気付かなかった。
母親を亡くしたレインは妻を失った父親の心配をし、自分が娘と妻の両方にならなければと考えた。それからは勉強だけでなく家事もこなすようになり、今日の彼女が出来上がる。
一方父親は魔法研究と称して考古学のような発掘調査をしており、家を空けることが多かったそうだ。最初にレインと会った倉庫に所狭しと置かれていたのはすべてドゥルガさんの資料だという。
私の常識からではよく分からないことなのだが、この国では考古学者が銀座の一等地に住めるほど儲かるものなのだろうか。
ちなみにレインに言わせればドゥルガさんというのは「可愛い人」だそうだ。いい年して純粋で無邪気で学者馬鹿で、私からすればただの「イケメン駄目親父」にしか聞こえないのだが、とにかく彼女の目にはそう映っているらしい。
ちなみに魔法研究所所属といっても彼が魔法を使ったのを見たことはないという。でもレインは「お父さんのことだからきっと使えるんだよー」と根拠なく信じている様子だ。言われてみれば、二階から女の人を担いで逃げるっていうのは生身ではできない気がする。
私はレインが過去形と通時形を混同して喋っているのが辛かった。ドゥルガさんはもういない。私と出会う数カ月前に発掘調査で亡くなっている。
アルバザードの南端にカレンという半島がある。そこのカレン県という海沿いの土地で調査をしていたドゥルガさんは誤って崖から転落し、海に消えた。
彼は波にさらわれ、打ち上げられたアンセなどの遺品から死亡が確認された。レインは遺体にすら会うことができなかった。だからこそ父親の死が信じられないのだろう。彼女はつい過去形を使わずに喋ることがある。
結局最後はなんとなく湿っぽい空気になってしまった。押し黙るレイン。私も何だか話しづらい。 176
どうにか空気を変えなくてはという気持ちが起こる。だがこんなときに気の利いたユーモアなんぞ、この私が言えるはずもない。
「テレビでも見ようか」と言ってアンセをかざした。普段あまり見ないのだが、こういうときにはちょうどいい。
アルバザードの――というかレインの家のテレビは壁に貼った薄いスクリーンのようなもので、大型の電子ペーパーだ。画面の書き換えが早く、動画にも対応している。反射光を使うので眼精疲労になりづらい。その代わり部屋の明かりを点けておく必要がある。
テレビを点けるとちょうど何かのドラマをやっていた。綺麗な女性が爪を塗っていて、その横で男性がお酒を飲んでいる。女性は三十手前だろうか、その割には乙女のような淡い色で爪を染めている。清楚そうな、それでいて芯の通った感じのする人だ。
「この人綺麗ね、レイン」
"lusiel et lua artena tisse, ca aster"
「え、この人が?」
思わず眉を上げた。
彼女の名はアルテナ。副王(アステル)だ。副王というのは事実上この国の頂点に立つ執政官のことだ。
アルバザードは本来王国で、アルバ王というのがいる。だが王は日本の天皇と同じく象徴で、実質的な最高権力者は副王だ。
現在のアルバザードの社会体制を作ったのは先々代の副王ミロク=ユティア。レインと同じ 苗字 だが親戚ではない。ミロクの孫娘のアルテナは三代目になる。
私はまじまじと画面を見つめた。
"lu et kyoan?"
"ya, dialiifa t'arbazard kont velsan alka e"
まじすか。まじで執政官&大女優ですか。
「ちょ ...... アルバザード人、それでいいわけ?」
「どういう いみ ですか?」
"alfi... tu et passo,? xel aster et ensa"
すると代わりにアリアが意外そうな顔をした。
"qm... tu et yet,? xel velsan et liifa on kad xiant" 177
"ya... ya... kamil"
日本じゃふつうこんなことにはならない。俳優もどきはいても、総理大臣でかつ国民的大スターというのはありえない。
てゆうか、単に執政官が女優やってるから人気なだけなんじゃないか?
などと思っていると、占い師は見透かしたように台詞を続ける。
"la nektates nan et hana e mirok yutia kalt em siin alka lot minkyoan"
うわぁ、実力でしたか。
アリアはアルテナのピアスに目をやりながら、さりげなく髪を掻き上げる。目端の利くレインは彼女の耳にアルテナと同じものが下がっていることに気付いた。
"lulu, tyu leines lua artenan xan. tuumi et daz a tyu e"
"soa e?"
気を良くしたアリアはにこっとして口に手を当てた。
"amel tan laxat tu, tet laala en fitat a la mil laabe xal lij eu"
お母さんに買ってもらったのか。そういやアリアの家はお金持ちだってレインから聞いた気がする。相当高いやつなんだろうな、執政官が身につけてるくらいだし。
こちとらアクセサリーなんざ髪留めくらいしか持ってないわ。下は百均、上は近所のスーパー でござい。安上がりな私と付き合う殿方はきっと楽ができることでしょう。
...... なぜだろう、泣きたくなってきたぞ。
"len soret et daz a tyu mil tu sins laftati tuan e"
"tee. sol xian tan lein dia fi tend,? mil tu et aluut daz na"
"ahah... tet non et ibet on lein tuumi e"
ピアスを勧められるも、子供っぽい自分には似合わないからと言ってレインは手をぱたぱたさせた。
そのやり取りを横で見ていた私は、何となく彼女たちの関係が分かった気がした。アリアは姉役で、レインは妹役なのだろう。基本的にレインがアリアに気を使うことのほうが多いようだ。もっとも、レインは誰にでも気を使っているような感もあるが。
いずれにせよ、テレビのおかげで暗い気分が吹き飛んだのは幸いだった。
アリアも普段は自慢したりするタイプではないから、どうにか話題を別のところに持っていきたかったのだろう。 178
しばらく歓談しているとアリアの家からお迎えが来て、車で帰っていった。「いいなぁ、送迎付きか」と羨んだ。
その夜、私は眠れずに困っていた。
時間は11時。レインはもう寝てしまったのだろうか。今日は引率で疲れたに違いない。でももしかしたらまだ起きているかもしれない。
「ちょっとダベってから寝ようかな」
向かいの部屋に行く。ノックをしても出てこない。でも中から光が漏れている。心配になったので一応覗いて確認しておくことにした。
「れ いーん?」
ドアをゆっくり開ける。すると彼女はベッドの上で寝ていた。手元には本が置いてある。
どうやら読書の途中で寝入ってしまったようだ。部屋の灯りやベッドサイドの本もさることながら、肩口から下着の紐が見えるので分かる。寝る前は外すものだ。
呼吸に合わせて胸がささやかに上下動している。本当にささやかだ――色んな意味で。
それを見ていて「ぶっちゃけスポーツブラでよくね?」と思った私には、近い将来何らかの天罰が下ることであろう。
「寝顔も可愛いのねぇ...... 」
ほわほわの髪を撫で、雪のような肌に触れる。彼女の肌は色のわりに温かい。
「ん?」
ふと彼女の耳に何か付いているのに気付いた。
「...... クリップ?」
一瞬、ぼーっと考える。その刹那、自分の頭にピコーンと豆電球が点いたのが分かった。マンガなんかでよくある表現だが、リアルに起こるとは思わなかった。
「――くっ!!!」
思わず吹き出しそうになり、頬を膨らませながら肘で口を抑えつける。そりゃあもう唇が痛いくらいに。
――この子、アリアに言ったのは謙遜じゃなかったんだ。本当に自分にはピアスなんか179 似合わないって思ってて。でも女の子だからやっぱりオシャレしたくって。でもでも自信ないからせめてクリップで雰囲気だけでもって――。
いかん、笑っちゃ。起こしてしまう。
吹き出しそうなのを我慢しながら頭を撫でてあげた。
しばらく撫でていたら気持ちが落ち着いてきた。猫みたいな子だ。
これはあれだね、ペットセラピーだね。白猫レイン。
気分が落ち着くと、なんだか殊勝な気持ちになってきた。
そういえばこの子くらいなんだよな、私とまともに友達になってくれたのって。
今までこんな風に私と接してくれる人 はいなかった。レインは私を敬遠しないし嫌わないし妬まないし見下さない。私にできた初めての対等な友達だ。
ふむ ...... 。
私は頬を指で軽くつんつんした。
「...... ありがとうね。こんなヤツと友達になってくれて」
寝てるときでもないとこんなこと言えっこない。こっぱずかしくて死んでしまう。
それで、今からもっと死にそうなくらい恥ずかしいことを言ってみようと思う。
影でこっそりと。でも耳打ちで。
「...... だいすき、だよ」
耳がこそばゆかったのか、「うぅ...... 」と呻く。慌てて手を離す。
"pa..."
ところがただの寝言だった。ほっと胸を撫で下ろし、立ち上がろうとする。
だがそのとき彼女の目から涙が零れるのが見え、私は止まった。
"...papa. te leev... non. reian... reian e..."
どうしても母語でないから解釈するまでに時間がかかる。
一瞬の後、私はまるで胸を氷の矢で射抜かれたような気持ちになった。
レインはいつも笑顔だ。辛そうな顔を見せない。でも心の底では親を失った不安と悲しみに苛まれているのだ。
この子は私の知らないところで、いったいどれほどの孤独と絶望を味わってきたのだろう。 180
そう思ったら息をすることすら苦しくなった。
「レイン ...... 」
ぎゅっと抱きしめた。起こしてしまうならそれでもいい。
しかしよほど疲れていたのか、レインは夢から帰ってこなかった。
「大丈夫。こんな月並みなことしか言えないけど、私が傍にいてあげるよ」
181 2 m
アトラスに来てもう三カ月目にさしかかろうとしていた。
学校のある日はレインに付いていき、アルナ大のキャンパスで辞書を使ってアルカを勉強するという日々を送っ ていた。
一日12時間はアルカを勉強しているのでだいぶ慣れた。他方、レインの日本語力もかなり向上したように思える。
私は単語リスト3000のうち、残りの2000も覚えた。しかし単語をいくら覚えたところで、文と一緒に覚えなければ使えないし聞き取れない。そこで今度は用例を覚えることにし、辞書の用例を暗記していった。
アルシェさんからもらったアンセは音楽再生機能も付いているので、外国人向けの音声教材を使ってひたすらディクテーションを繰り返した。
音声を聞いて、聞こえた文を紙に書き写すという作業だ。聞き取れるまで何度でも繰り返す。そして最後に答え合わせをし、自分が聞き取れないのはどういう部分かを調べる。
私の聞き取りにくい部分はやはりというか、機能語の類だった。"arhan t'arnamana"の"t"の部分が聞き取れなかったり、"fit al an"が"fitta lan"と聞こえてしまったりといったミスが多かった。
「タルナマナって何だろう」とか「フィッタな人ってなんだろう」などと考えてしまった。しかし、こういうミスは単語力がつくごとに徐々に減っていった。
ほかにも、"en ser"が"an ser"に聞こえて意味を逆に取ったり、"aster"と"astel"を混同したりした。
さらに"valonto"は「四十数個」という意味なのに"valn on to?"と聞こえ、「何について健康ですか?」の意味に取り違えたりと、つまらないミスがなかなか直らなかった。
それでも小指に血豆ができるくらい頑張った結果、私のアルカはかなり上達した。レインもだんだん私にゆっくり話しかけなくなってきた。これはディクテーションのたまものだ。単語の暗記だけではどうにもならなかった。
アルナ大のキャンパスに座り心地のいい芝生を見つけたので、昼のうちはそこに座って勉強することにした。日本でいえば真冬だが、晴れた日の昼間は案外日光のおかげで暖か182 い。厚着しておけばどうにか外にいられるレベルだ。
芝生でごろごろしながら勉強していたが、だんだん疲れてきたので辞書を閉じて周りの人を観察しだした。
レインみたいなケープを着た子や、私みたいなセーラー服を着た子が歩いている。
驚いたことに、新撰組のような格好もいる。しかも腰には刀を差している。どうやらその羽織はアルティア人のもので、向こうの体育着なんだそうだ。
同じアルティア人でも女の子の場合は合気道のような服を体育着として着るらしい。そういえば、ちらほら見かける。長い直毛の黒髪をひとつに結って歩いている。手には薙刀を持っている。
レインが言うには、あの刀や薙刀は武道の授業で使うものだそうだ。アルバザード人でも授業 の選択によってはあの格好をするらしい。
アルナ大は武道が必須科目になっているそうだ。剣道や弓道のほか、ユベールという空手のような格闘技もあるという。
レインはどうも格闘とか喧嘩といった類のものはすこぶる苦手だそうで、武道は打ち合わなくていい弓道を選択しているそうだ。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。しばらくすると生徒がわらわら出てきた。今日はこれで終わりらしい。
私が「うーん!」と伸びをしていると、レインが「しおーん」と言いながらやってきた。手には鞄を持っている。
「おかえり。おつかれ。今日はもうおしまい?」
「うん。see lena kor xiit lanskern」
「おっけー」
こっちの生活にもすっかり慣れたもので、私はすたすたと駅へ歩いていった。そのまま電車に乗って同じ北区のコノーテ=ミルフ通りに向かう。
今日はランスケルン美術館というところに案内してくれるそうだ。なんでも世界最大の美術館だとか。「天使の羽」という意味の名前も相まって楽しみだ。
アルシェさんと待ち合わせになっており、入り口のところで落ち合った。
"soono"
"ou, ti sabes laasa im fis. tu et daz rat a ti, xion" 183
私は前にレインに買ってもらった濃い色のラーサを着ていた。入り口でコートを脱いだ瞬間服装を褒めてくれるとは何と紳士的なことだろう。
"sentant, arxe"
最近彼は私のことを敬称なしで呼んでくれるようになった。私も彼のことを名前で呼ぶことにした。アルバザードでは対等な関係として話す場合は年上でも呼び捨てしてかまわないらしい。ただ、どうしても日本語で呟くときは「さん」付けしてしまう。
もちろんアルカであってもやはり年上なので場面に応じてdyussouと呼ぶことにしている。向こうも私のことをたまにxion liizと呼ぶ。liizは「ちゃん」に当たる敬称だ。
敬称を付けたり付けなかったりは難しい。「年上のアルシェさん」として話しかけるときはdyussouと呼び、「親しい年上のアルシェさん」として話しかけるときはettoと呼び、
「対等な友達のアルシェ」として話しかけるときはarxeと呼び分けねばならない。
この使い分けは家族にも及ぶ。例えば相手を父とみなして話すときはpapaなどを使い、一個人として話すときは呼び捨てにする。
もっと複雑な例もある。学校の教師を呼ぶとき、教師という職業を強調するときはxaxanといい、自分たちの先生という側面を強調するときはxanxaといい、年上の男性という側面を強調するときはdyussouといい、一個人として話す場合は名前で呼ぶ。ただし、ふつう教師は対等な友人にはならないので敬称は必要だ。
会話の内容、それどころか一文ごとの内容をかんがみて呼び方や話し方を変えるというのは非常に複雑で難解に感じられた。日本語にはそのような性質がない。先生は常に先生だ。場合によって呼び捨てが許されるということは考えづらい。
また、自分の親を呼び捨てにするなど、恐ろしくて想像だにできない。ウチはお父さんが雄和でお母さんが理沙というが、その名前を意識するのは書類に保護者の名前を書くときだけだ。
ランス ケルン美術館は夕方だというのに結構な人だかりがあった。平日でも誰かしら休みを取っているので適度に毎日混んでいる。入場口でアンセをかざして中に入る。入館料は学生50ソルトだから200円といったところか。
ランスケルンはコノーテ=ミルフ通りをまるまる占有する巨大な美術館だ。地図を見る限り、フランスのルーブルとオルセーを足したくらいの大きさがあるのではないか。
ちなみにランスケルンの西側にはこれまた大きなカレリア水族館というのがあり、カッ184 プルのデートスポットになっているそうだ。
反対に、ランスケルンの東側にはフラメル音楽堂という巨大な音楽施設があるらしい。
どうも北区のミルフ通りには文化施設が集中しているようだ。学校のクラス分けと同じく、これには語源となった人物の特性が関与しているらしい。ミルフというのはアシェットの第11使徒で、芸術に長けた人物だったらしい。
ランスケルンの建築は非常に芸術的で、心なしかテレビで見たルーブルに似ていた。長い階段を経て中に入ると、パンフレットが搭載された大判の電子ペーパーを渡された。これは帰るときに返却するらしい。
いよいよホールに入ると、入り口にはアルミヴァの12神を象った石造のアーチがあった。壁のアーチから飛び出すように神々が並んでいて圧巻だ。
神のアーチをくぐると雰囲気が変わった。壁は緑がかった大理石でできていて、非常に豪華な造りになっている。どうやらここは彫刻を集めたホールらしい。パンフレットを見ながらどれがどの神というのを確認していく。
像だけで一体いくつあるのだろう。レインは今日はさわりだけと言ってさっさと通り過ぎて行ってしまった。ランスケルンはとても1日で見て回れる場所ではないという。
初心者はまず最初にざっとメインホールを歩いてみて建物の位置関係を覚えるのだそうだ。細かな鑑賞は慣れてきてからだという。アルバザード人は年に何度もランスケルンに訪れるが、子供のころから来ているレインでもまだ飽きないそうだ。凄い話だ。
彫刻ホールを過ぎると、壺やら土器やらのホールを飛ばして絵画のホールへ行った。私にとって最も興味のあるホールだ。ルーブルと同じく時代別に絵が並べられているが、地球と違って圧倒的に写実的な絵で占められている。
簡単に言えば、ミレーやアングルといった画風がほとんどで、ルソーのような印象派は少ない。また、ピカソのような――キュビズムというのだが――絵はヴェレイという時代に少し見られる程度で、なりを潜めている。なんというか、ほとんど神話的な絵で占められているのだ。なぜだろう。
ふつう、絵の世界にはもっと多様な表現方法があり、日本人が一見「これはヘタでは?」と思うようなピカソの絵にもきちんとした時代背景や芸術理論がある。あれはあれで凄い作品ではあるのだ。 185
私は可愛らしい女の子の絵をじっと見ていた。アシェットの第1使徒リディアを描いた肖像だそうだ。小柄な美少女は銀色の杖を持って悪魔とおぼしき敵に魔法の炎を放っている。まるで写真のようだ。
ふむ、私好みの幻想的な絵ね。
続いてサールの王アルデスの息子トゥッティの絵があった。例のヴァストリアを紛失してしまった王子だ。
正体は地の龍だが、人間の姿にも変身できるようだ。女好きなのか、泉のほとりで女の子とよろしくやっている絵だった。「あんた、イチャついてる場合じゃないでしょ」と突っ込んだのは言うまでもない。
別の絵の前に立つ。『アルデスを追うルフェル』というその作品では、エルトの女王ルフェルが杖を持って飛びながらサールの王アルデス追うシーンが描かれていた。
ルフェルは美しいが眉をひそめ、怒っているような顔つきだ。アルデスは飛びながら後ろを振り返り、ルフェルを恐れているようでもある。
別の絵に『ルフェルとエルフレイン』というのがあったので見てみた。こちらは別の画家によるものだ。ルフェルとその従者である2人の姉妹が佇んでいる。これを見て私はピンと来た。
――あぁそうか、これは本人なんだ...... !
2つの絵の作者は異なっている。にもかかわらず、ルフェルの顔はほぼ同じだ。同一人物とすぐ分かる。
そこで地球との違いに気付いた。地球には神がいないし古い時代の写真もない。聖母の写真は残っていないし、ゼウスははじめから存在しない。だから作者によって彼らの顔が変わるのだ。特定の人物を描いても、描いた人によって違う顔で描かれる。
女神もそうだ。『ビーナスの誕生』と『パリスの審判』を比べると、明らかに女神の体形が違うことに気付く。これはその絵が描かれた当時の美人の条件が異なるためだ。地球には神が実在しないため、絵描きは本物のビーナスをモデルに使えなかった。
しかしこの世界は違う。魔法があるというこの世界には神も恐らく実在し、人間は彼らの顔を知ることができた。だから、時代も国も違う絵描きが描いても、それが写実的であるかぎり、きちんと鑑賞者に神の姿を伝えることができた。
繰り返す――それが写実的である限り。 186
そう、だからこそこの世界の人にとって写実的な絵は重要だったのだ。この世界の芸術は神の存在や神が行った歴史的な出来事を描写するほうに進化していったのだ。
地球では古典主義と新古典主義がその役目を買い、写実主義とは一線を画している。だがアトラスでは古典主義と写実主義は同義なのだ。なにせ神が実在するのだから。
産業革命や近代化の波に乗り、人々の暮らしが豊かになるにつれ、地球の人は神を必要としなくなった。ニーチェがツァラトゥストラにかく語らせたころには既に神は死んでいた。
しかしこの世界では当然のように神が生き続けている。人々の生活の豊かさに関係なく、神は人とともにあった。
だからこそ芸術家は彼らを描写することに命をかけてきた。そのことはランスケルンの構成を見ても分かる。神や偉人を描いた絵画と彫刻で館内のほとんどを占め、建築物や土器などといったもの は展示が少ない。絵についても風景画は少ない。
神が実在するということはこんなにも歴史や芸術に影響を与えるものなのか。
神が存在するならその存在をなるべくありのままに描こうとするのはもっともだろう。恐らくこの世界において神の絵は肖像画に過ぎないのだ。だからこそ「似させる」ことが重要であり、光をぼかしたり形を単純化したりといった行為は忌避されたのだ。
しかし逆にそのことがこの世界の芸術を――いわば地球の観点でいえば――ある特定の様式に固定し停滞させたともいえる。
私はこの美術館を訪れたことで、この世界には神が実在することを信じるようになった。地球の美術の歴史を知っているからこそ、比較を通じて信じることができたのだ。
神の実在しない地球では、神の顔形はまちまちだ。もしアトラスの神が虚構なら、地球と同じく画家によって姿が異なっていたはずだ。
ということは、ここで描かれている魔法も恐らく実在するのだろう。リディアが杖から炎を出しているのは架空ではなく歴史的事実ということになる。
リディアは女神でなく人間だから、人間も魔法を使えたのだ。ということはその子孫であるレインたちも...... 。
それにしても、これらの絵が創作ではなくいわば歴史写真なのだと思うと、急に胸がわくわくしてくる。 187
さらにいえば、人間以外の形をした動物たちについても、画家は同じような描き方をしていた。竜王ティクノが正体である竜の姿になった絵や、7匹の悪魔ソームの絵など、どれも同じ姿で描かれていた。
美術館を出た私は胸が熱くなっていた。冬なのに興奮冷めやらぬ感じだ。レインは私が堪能したのを見て嬉しそうな顔をしている。アルシェさんもまんざらでもなさそうだ。
外に出たらもう真っ暗だった。大体ここはこの時期5, 6時になると真っ暗だ。通りには街灯がついている。そろそろ帰る時間だ。
レインはアルシェさんをお茶に誘った。帰りがけに出店で夕飯の材料を買うと、私たちは電車に乗った。例によって荷物は彼が持ってくれている。
狭い街なのでランスケルンから家まではすぐの距離だ。自転車でも簡単に行けるくらい。電車だとなお早い。
家に着くと中に入って荷物を置き、手洗いとうがいをした。完全に習慣になっている。
レインは紅茶の用意をするが、葉が切れたので地下室の倉庫から持ってきてほしいという。
「はいはーい」
鼻歌交じりに地下室への階段を下りる。
「暗いなぁ...... 」
パチッと灯りをつけると、ぼんやり地下室が照らされる。
「こーうーちゃーは、どっこかなぁ〜」
木箱の中を探す。
「あった♪」
茶葉を取り出したとき、コトンと小さな物音がした。
「ん?」
無意識に振り返ると...... そこには黒い大きな影があった。
「...... む?」
その影をよく見ると、そこにいたのは人だった。
黒い服を着て覆面をかぶった人影が私を睨み付けてきた。 188
「――!」
目が合った私は思わず息を呑む。
それはあの覆面の男だった。
うそっ! なんでこんなところに!?
「ひっ」
掠れた悲鳴をあげた瞬間、男は急に走り出した。
「いやっ!」
男はそのまま無言で私に体当たりをしてきた。
「きゃあー!」
とっさのことに対処しきれず、私は吹き飛ばされて壁に背中をぶつけた。一瞬呼吸ができなくなる。
男はそのまま階段を駆け上がっていく。手には棒らしきものを持っている。
「れっ、レイン! ren eeeelf!」
とにかく危険を知らせるために叫んだ。
そして叫びながら、男を追いかける。
だが階段を上りきったとき、レインの金切り声が聞こえた。
しまった、手遅れだったか!
「レイン!?」
居間では男が棒でレインを後ろから羽交い絞めにしていた。アルシェさんが苦々しい顔で男を睨み付けている。
「ちょっと、レインを離してください!」
日本語で怒鳴りつけると男は困惑した声で何か喚く。どうやらレインに傷を付けられたくなければ玄関を通せと脅しているようだ。
しかし私はあえてアルカが分からないふりをした。交渉の余地なしと見せたほうがかえって人質を放棄しやすいはずだ。こないだ戦って分かったが、この男は素人だ。恐らく本気でレインを傷つける勇気はない。
私は人質を無視して近くに置いてあったモップを手に取る。
"wei! der kut nos vand luube ol dis alponz a der!" 189
「はぁ? 何言ってるのかさっぱり分かりませんね。世迷言も大概になさい」
一度私に負けている男はこちらを恐れてか、レインの髪を引っ張って彼女を盾代わりに使う。なんて卑怯な...... 。
"xion! ti ren haas lu!"
緊張した声のアルシェさん。とりあえずヤツに従えと言いたいらしい。
却下。
「大丈夫ですよ。ねぇレイン、聞いて。わたしは ぼうを ふる とき あなたは じぶんを しゃがむ して」
するとレインは唇を引きつらせながら、こくこくと頷く。
"wei, re ponz a dai!"
大声で怒鳴る男。
「やあっ!」
私はおかまいなしにモップを振り上げる。その瞬間、レインが渾身の力でしゃがみ、男の右腕を引っ張った。男は利き腕をレインに取られ、なすすべもなく私に面を打たれた。パシーンと良い音がする。
"beo!"
男は激怒すると、棒を捨てて私にふたたび体当たりしてくる。力で押し切る気か。
私はモップを投げ捨てると、左足を前に出しながら男の左手を右手で掴んだ。左足を前に出しきって相手の懐に入身するとともに、伸ばした左腕を男の喉元に当てる。そのまま腕を前に押し出すと、男は地面に倒れていった。合気道の入身投げだ。
バーンと音がして男は肩から床に倒れこんでいった。
「レイン、大丈夫!?」
彼女に駆け寄ると抱きしめて保護した。すかさずアルシェさんが飛び込んできて、私たちの前に立つ。
"re pooonz!"
男は懐からナイフを取り出すと、武器ひとつないアルシェさんに飛び掛った。
しかし彼は長い脚を前に出し、男の胸を蹴り飛ばした。キックボクシングなどに見られる前蹴りだ。私は思わず目を見開いた。彼も武術ができたとは。 190
あ、そうか。これがユベールか。
流石 男性というか、アルシェさんは容赦なく追撃をした。今度は男の腿に強烈なローキックを喰らわせた。ズバンという迫力のある音がする。あの細身の体でよくこんな力が出せるものだ。
男は腿を押さえてよろめく。膝に来たようだ。ほぼ同時にアルシェさんは一歩踏み込むと、強烈な右ストレートを顔面に浴びせた。男は脳をはげしく揺さぶられたのか、そのまま地面に倒れこんだ。
グローブなしで脳を揺らすには相当なパンチ力がいるはずだ。再三言うが、細身の彼のどこにそんな力があるのだろうと感心して しまう。
激しく殴ったものの、彼は倒れた相手には決して攻撃を加えなかった。ただ男はあくまで一時的に倒れているだけなので、このままにしておくわけにはいかない。アルシェさんは男を羽交い絞めにすると地面で関節技を極め、動きを完全に制した。
その鮮やかな戦いぶりを見て私は思わず吐息を漏らした。
"re ixn, es ti luna atu?"
私たちにはふだん聞かせないような怖い声で尋問するアルシェさん。男は彼の問いに沈黙で答えた。しかし彼が関節をきつく締め上げると、男は観念したように呻いた。アルシェさんに 密着して 締め上げられた男がちょっと羨ましく思えてしまったのは内緒だ。
"le zon..."
苦悶の表情を浮かべつつ、盗もうとした棒を指す男。以前私がこいつに刺し面するのに使ったものだ。
それは装飾の施された銀色の棒で、名をヴァルデという。神の武器であるヴァストリアのひとつだ。むろんレプリカだが。レインを助けたときは分かるはずもなかったが、今なら見て分かる。そういえば先程の美術館でも見た。少女リディアが握っていた杖と同じだ。
それにしてもどうしてあんな模造品の杖なんか...... 。
"hei... dina, tu xiv..."
何か気付いたのか、不審な顔つきでアルシェさんは男の覆面をはぐ。
"hqr? nebra??"
ネブラ? 男の名か? どうしてアルシェさんが彼の 名前を知っているのだろう。もしかして知り合いなのか。 191
"etto, tyu ser lu?"
レインが不安そうな顔で尋ねる。
"oklabast ant de"
なんとアルシェさんの同僚だったらしい。じゃあ魔法研究所の一員ってこと?
彼は関節技を外し、ネブラを解放する。観念したのか、彼は大人しく床に座った。
アルシェさんはこほんと喉を鳴らすと、立ち上がって椅子を引く。
"saa, ren skin atu. pentant on an vixat ti. tal sa total, ti re vant luus yunk"
ネブラは反省したのか、私たちを見てばつの悪そうな顔で"anteo..."と言った。この反応は私にとっては意外で、肩透かしを食らってしまった。
レインは黙って頷くと、台所に行った。
「どうしたの?」
「れいんは おちゃを つくる です」
「...... あ、そう」
レインが紅茶を持ってくると、ネブラは大人しくお辞儀をして紅茶を飲んだ。「遠慮しなさいよ」と思ったのは私だけのようだった。
まったく、どこまでこの子はお人好しなんだか。
ところがその性格がネブラに残っていた微かな良心を呼び覚ましたのか、彼は気まずそうな顔で呟いた。
"hei milia, an fit van tex rat xant. xalet, kaan tiil en vortes de"
その一言に全員が一瞬で凍りついた。
私は耳を疑った。全員が疑ったに違いない。
今こいつ、何て言った...... ? 「お前の父親は生きてるかもしれないぞ」ですって...... ?
"tu et... xan anmian...?"
声が震えるレイン。無理もない。だがどうしてこいつがそんなことを知っているのだ。そもそも窃盗と何の関係があるのだ。
ネブラは心中の疑問を察したかのように続ける。
"vilot, la kyos nos vortat... lana nekt le zon i xelan. le zon... varde kaks"
あの杖が本物のヴァルデですって? 192
どうやらレプリカでは なく本物の神の武器だと言いたいようだ。そしてそれを持っていることをある人から隠すためにお父さんは事故死を演じてみせたと言う。
本来なら「寝言は寝て言え」と張り倒すところだが、神がなくしたヴァストリアを召喚省が躍起になって探しているという事前情報があったため、私たちはもしやと思って彼の話を聞くことにした。
"xion, an ret xe a ti..."
話が深刻だと判断したのだろう、アルシェさんは私にドアのところでネブラが逃げないよう念のため見張っていてくれと耳打ちしてきた。
言われるままドアの前に立つ。流石にここからでは会話が聞き取れないが、様子は伺える。
ネブラの話が進むにつれ、レインは前のめりになっていった。目には涙を貯めている。一方アルシェさんはチラチラと杖を気にしている。
"arte!"
あるとき一段と大きいレインの声が聞こえた。見ると二人とも青い顔をしている。
それからしばらくしてアルシェさんは警察を呼んだ。ネブラから事情聴取を終えたので引き渡すことにしたようだ。いくら同僚でも2度もナイフで襲ってきたのだから致し方がないだろう。
警察にネブラを任せた後、私はアルシェさんから説明を受けた。レインは何やらショックが大きかったそうで、喋る気力がないらしい。
話の内容は驚くべきものだった。
トゥッティがなくした2つのヴァストリアのうちのひとつはヴァルデだったらしい。このことはアルシェさんも知らなかった。ハインさんらしか知らない事実をネブラは調べ上げていた。
ネブラはこの家に置いてある杖が本物のヴァルデだという。しかし釈然としない。ヴァストリアの件は召喚省でも一握りの人間しか知らないはず。魔法研究所所属のドゥルガさんとは何ら関係がない。
ところが意外なところでドゥルガさんに繋がることが分かった。魔法研究所は召喚省の下位機関なのだが、ときおり召喚省の隠れ蓑として使われることがあるそうだ。つまり実193 際は召喚省勤めでありながら諸事情から魔法研究所所属にしている人がいるということだ。
ドゥルガさんもその一人だった。表向きは研究所員だが、実際は召喚省に勤めるタレスという役人だったのだ。彼はハインさんの同僚で、役職上はハインさんの部下だそうだ。
家族にはタレスであることを伏せていたようだ。レインが驚くのも無理はない。しかし私はむしろ合点がいった。ふつう考古学では一等地に一戸建てを買えまい。
なぜ役人であることを隠していたのか。伏せる理由があるとすればただ一つ。普段から様々な極秘任務を担当していたからだ。何かあって表に出たときに「召喚省の人間でした」ではまずいから、研究所員になっているというわけだ。
今回のヴァストリア捜索隊にはドゥルガさんも含まれていた。召喚省の正規の役人であるハインさんが含まれているところを見ると、今回は極秘任務ではあるものの、そんなにブラックな山ではなかったようだ。
アルシェさんは同僚だからドゥルガさんの実態が役人であることには薄々勘付いていた。ただヴァストリアの捜索隊だということまでは知らなかったようだ。
ネブラの言うようにこの杖が本物のヴァルデだとすれば、ドゥルガさんはヴァストリアのひとつを見つけていたことになる。ではなぜ研究所の同僚でしかないネブラがそのことに気付 いたのか。
彼は魔法研究所で会計をしている。ドゥルガさんは表向きには魔法研究所所属なので、業務中に発生した経費は魔法研究所から落ちる。経費は領収書の形で申請されることもあるが、アンセの電子マネーの使用履歴を元に申請されることのほうが現在では多いそうだ 。
領収書やアンセの使用履歴の摘要を見て経費として認められるか判断するというのがネブラの仕事のひとつだ。
去年の秋にドゥルガさんの死亡が報告され、ネブラは彼に関する会計処理をしていた。そこでおかしなことに気付いた。彼はカレンで死んだことになっているのに、アンセの使用履歴はアルナが最後だったのだ。
それまでドゥルガさんは各地でアンセを使っている。なのになぜかアルナからカレンの間は一度もアンセを使っていない。自殺ならともかく不慮の死にしては直前の行動が不自然だった。
ネブラはただの会計係だからヴァストリアの件は知らない。だがもちろん現場に勤めて194 いる彼はドゥルガさんの実態が研究所員でないことを知っている。そこでネブラはこの死に方に不審感を抱き、何か裏があるのではないかと踏んで嗅ぎ回った。
やがてヴァストリア紛失の情報に辿り着いた彼は 改めて ドゥルガさんの死を訝った。ドゥルガさんはヴァストリアを発見したか、少なくとも何らかの情報を掴んだのではないか。それゆえ誰かに暗殺されたか、そうでなくば死んだふりをして潜伏しているのではないか。 ネブラはそう考えた。
ヴァストリアを悪用すれば軍隊にも勝る武力を手に入れることができる。巧く立ち回ればネブラのような木っ端役人でも大金を掴むことができる。
そこでネブラは去年の暮れにこの家に忍び込んだ。ヴァストリアの手がかりを探すために。ところが考古学者でもあったドゥルガさんの倉庫は様々なヴァストリアのレプリカだらけで、どれが手がかりなのかまるで分からない状態だった。
そんなとき倉庫にやってきたレインに見つかり、慌ててナイフを突き付けた 。しかし ちょうどそこで地球からやってきた私に撃退された。このタイミングで召喚されたということは、私の使命はレインではなくヴァストリアを守ることだったのだろう。
一旦逃げたネブラは紛失したヴァストリアが何であるかを調査した。三カ月近くにも及ぶ地道な調査の結果、そのうちのひとつが魔杖 ヴァルデであることを知る。そして今日ふたたび忍び込んだというわけだ。
アルシェさんから話を聞いた私はレインの肩を抱いてさすってあげた。
彼女はショックで放心しているようだった。確かにその瞳は潤んでいたが、同時に希望に満ち溢れてもいた。
「よかったね、レイン。お父さん、生きてるかもしれないね」
それにしてもどうしてドゥルガさんはヴァルデを召喚省長官のフェンゼルに渡さなかったのだろう。横取りして巨額の富や強大な力を手に入れたかったのではないかとネブラは言っていたそうだ が、レインの話を聞いた感じだとそんな人ではない。
レインはもちろん、アルシェさんもドゥルガさんの人となりを知っているようで、とてもそうは思えないと言っていた。
ほかにも疑問点はある。どうしてそんなに大切なヴァルデなら家に置いたまま失踪したのか。そもそもこのヴァルデは本当に本物なのだろうか。まずはそれを調べる必要がある。 195
時間は もう8時を回っていた。明日アリアを交えて相談しようということになった。アリアは有名な占い師の家系というし、魔法が実在する世の中なら彼女を交えて相談したほうが良さそうだ。
なお、アルシェさんは明日アリアに会ってヴァルデの真贋を確かめるまでは余計な心配をかけさせないよう、ハインさんにはこの件を伏せておくことにしたそうだ。
アルシェさんが帰った後、残った私たちは暗い顔で会話もろくにないまま夕飯を食べた。レインの気持ちを察すると何も言えなかった。
なんだか厄介な事件に巻き込まれてしまったという恐怖と、ドゥルガさんが実は生きているかもしれないという期待とで、相当なストレスになっていることだろう。
ふだんにこやかで穏やかなレインだが、今日ばかりはピリピリした空気を醸し出していた。ヘタなことを言ったら怒られかねないと思った私は、できるだけ彼女を刺激しないよう、黙ってご飯を食べていた。
夕飯が済むと、レインは黙ってカモミールティーを入れてくれた。お風呂に入る気力もないのか、物憂げな顔でじーっとカップを見つめている。私は結局一言も声をかけることができなかった。
今日はレインと一緒に寝ることにした。ネブラの件もあったし、一人では心細い。それに、もし万一のことがあったら私がレインとヴァルデを守らなければならない。それには一緒に寝たほうがよい。
私は不安そうな顔のレインとヴァルデを抱きしめながら眠りについた。
196 3 1
ネブラの一件で交感神経が緊張してしまい、昨日は寝つきが悪かった。その上、朝4時には目が覚めてしまい、眠れなくなってしまった。レインを抱きしめながらだったので寝づらかったというのもあるかもしれない。
レインの寝顔を見る。すやすやと寝息を立てるたびに亜麻色の髪が微かに上下動する。桃色の唇をわずかに開けて、ときおり寝言を囁く。
それにしても...... 可愛いなぁ。お人形が寝てるみたい。
私は小指の先をレインの唇に当て、優しく撫でる。くすぐったいのか、レインは「うぅ」と寝言を言う。色白な頬に手を当てると、思った以上に暖かい。
人って寝てるときは体温が高いのね...... 。
私は首を前に出して、レインの鎖骨の辺りに顔をうずめる。パジャマの感触が柔らかく、暖かで、いいにおいがする。昨日はお風呂に入らなかったのに甘く柔らかな芳香がする。
あまりいたずらしたら起きちゃうかなと思い、静かに顔を離してベッドから出た。もう寝付けそうにないし、諦めてアルカの早朝訓練をすることにした。
辞書を持って居間に下りる。
それにしても冬の早朝の寒いこと寒いこと。地球では今1月末くらいだろうか。
まったく、どこが「冬はつとめて」よ。
アルバザードはフランスくらいの緯度にあるので、いくら偏西風が暖かいといってもやはり日本よりは寒い。それゆえ学校の冬休みは長く、今日から一カ月間まるまるお休みとなる。
お湯を沸かして白湯を飲むと、少し体が温まる。
今朝は神話を読むことにした。神の武器ヴァルデに関わることなので知っておいて損はない。
読書に勤しんでいると、レインが起きてきた。いつのまにやら朝食の時間らしい。
"xion, tyu netat vadel sete"
目をこしこししながら呟く。手にクマのぬいぐるみでも持たせたら似合いそうだ。 197
"ya, non malor dialas"
"soa e? atte. see non lad fan faax"
"a, non alk fan tyu"
手軽に朝食を作る。玉子焼きにパンとベーコンとサラダ。それにグレープジュースを付ける。
さて、今日はネブラの件についてアリアに尋ねなければ。
しかしヴァルデはどうしたものか。ここに置いておくのは心配だ。
"nee, lena pio ax varde a ra t'alia?"
"ya, tyu ren pio le kont eves le a mesl"
"tet... il fix elf lena eyo?"
ヴァルデを運ぶのはいいけど、あんなもの持っていたら目立たないだろうか。
"passo, tyu yun felan tex tolis, xom tyu ren lein vavsab t'altia fol pio varde. son il fix elf tyu olta tyu pio mesl fil rak"
なるほど。あの新撰組 みたいな格好をしてヴァルデを竹刀袋に入れておけば、冬休みの部活をしている人に見えるってことね。学生ならではの方法だわ。
朝食後、レインが弓道で使っているという合気道着に着替えた。私にはよく馴染む。
彼女と私は体形が似ているし、袴なのでサイズは問題ない。ついでに白いバンドを借りると、髪をひとつに結った。
驚いたことにこの国にも竹刀が存在した。レイン曰く、アルティアから入ってきたものだそうだ。私は竹刀袋にヴァルデを入れると、鏡の前に立つ。
「ほわぁ〜、しおん、かっこいい!」
レインは間の抜けた声を出す。でも、この"hwa"というのはアルカで「わー!」とか「わーい」に当たるオノマトペなのだ。
「えへ、似合ってる?」
「うん。すてき です」
レインもだいぶ日本語に慣れてきたようね。ベースは私が拵えた人工言語としての日本語だけど、最近は用言の活用も覚えてきたみたい。
そうそう、人工言語といえば、やはりアルカは人工言語だそうだ。 198
こないだ美術館でリディアという女の子の絵を見た。悪魔を倒した少女だ。彼女はアシェットというチームの一人だった。
アシェットは世界各国の強い戦士の集まりだったから、互いに言葉が通じなかった。そこでメンバーのセレンという人がアルバザード語をベースに世界中の言葉を混ぜて人工言語を作った。それがアルカだ。
彼らは内輪でアルカを使っていたが、なにぶん悪魔を倒した救世主だから政治権力は絶大で、次第に外部にも彼らの言語が伝わっていったそうだ。やはり金持ち・力持ちの言語は強いなぁと感じた。
だが当のセレンとその恋人リディアはどちらも社交的な人物ではなかったようで、あまり外に出て積極的にアルカを広めようとはしなかったそうだ。そのため、自然と普及するまでに300年以上の時間がかかった。
彼はほかの言語を駆逐しようとも考えなかったため、アルカが普及した今でも国内外を問わず様々な言葉が残存している。
私が思うに、もし彼が自分の価値観を押し付けて他の言語を排斥するような人物だったら、かえって民衆から激しい反発を喰らってアルカは自然消滅したのではないだろうか。
賛同する人間だけが賛同すればよく、徐々にその輪を広げていけばいい。それに何年かかっても良いし、広まらなければ需要がなかったというだけのことだ。そういう穏やかなやり方だったからこそ300年かかっても浸透していったのではないか。
ふと窓の外を見る。
「うー、外は寒そうね...... 」
流石に羽織袴だと寒すぎるので、私はその上に厚い道行きをまとった。日本人の私にはピッタリな服だ。
すっかり侍気分になって、肩で風を切りながら外へ出た。レインはくすくすと笑いながら付いてきた。
この格好は別に珍しくないようで、誰にもじろじろ見られることなく駅まで行くことができた。
中央カルテン駅からポエン=フルミネア駅まで地下鉄で移動する。既に彼女には会いに行く話 が通っているそうだ。
ポエン=フルミネア駅で降りて、先に来ていたアルシェさんと合流する。そこから少し199 歩いたところに大きな豪邸が建っていた。
「うわ ...... けっこうなお屋敷ですこと」
かなりの大所帯らしく、9人家族だそうだ。なんでも母親はディミトリア精霊家具店とかいう一部上場企業のCEOをしているらしい。
ディミトリア社は400年もの歴史がある老舗の大手で、以前は家具以外にも色々と手を伸ばしていたらしい。今は原点に立ち戻って安価で良質な家具を提供しているとのこと。
ただもともと高級家具店だったので今でも 高価な ものを扱っており、アルシェさん家の家具の多くもディミトリア社のものだそうだ。
断っておくが、アルバザードはこんな人たちばかりではない。上流階級の友達は上流階級ということで連鎖的にセレブと出会っているにすぎない。
実際アルバザードにも貧困層はいるし、日本と違ってストリートチルドレンもいる。南区の一角にはスラムがあり、近寄れる雰囲気ではない。こういう点では日本のほうが良い社会といえる。
逆にアルバザード人の富裕層は慈善事業を行うことが多く、寄付の額も多い。貯め込まずに高価な物をあえて買うことで経済の循環と雇用の維持にも貢献している。この点ではアルバザードに軍配が上がる。
「アルバザードって世界一の大国らしいけど、経済大国って必ず貧富の差が激しいのよねぇ。まぁ最悪なのは差が激しい上に全体としても貧しいケースだけど」
門を通って玄関ドアに近付く。鉄でできたドアノッカーがある。ドアノッカーというのは西洋に よく 見られるライオンなど の顔をした鉄のわっかで、ゴンゴンとドアを叩くあれだ。 ここでは ライオンの代わりに精霊が輪の上で戯れている。いかにも高そうだ。
ゴンゴンとドアを叩きながら、レインは"soonoyuuun. aliaaa, tu et lein ee. "と言う。まるで日本人の子供が「アーリアちゃん、あーそーぼっ」と言っているかのようなノリだ。
なぜメールで呼ばないのかと考えたが、恐らくレインからすれば「現地に来ているのになぜメールをする必要がある?」ということなのだろうな。
少しするとガチャっとドアが開き、ふわふわした金髪の女の子が出てきた。縁のある眼鏡をかけていて、不思議な感じ のする子だ。
"a, ha! lein etta ont arxe etto, soonoyun. alia sete? ren lat a pot" 200
どうやらアリアの妹らしい。長い黒髪のアリアの妹とは思えない見た目だ。
"non et xion. non na ruuf mil nan lunak ra e fuulan esti"
私が挨拶すると、彼女はにこりとした。
"anestol. tet non et tio verped t'ineaato antisse, mil non te axk a fuul"
彼女が手を差し出してきたので、私は笑顔で手を伸ばした。
"anestol, verped liiz"
その瞬間、後ろで聞いていたレインがお化けみたいな顔をして私と彼女の間に滑りこみ、私の口を手で塞いだ。比喩ではなく、本当に手で口を塞がれた。
「もっ、もが!」
"lu anteo, lu anteo! luube et mextan le ser yuu tisse!"
レインはひたすらヴェルペッドちゃんに謝る。アルシェさんは横を向いて咳き込んだふりをして笑いを堪えている。いったい私が何をしたというのだ。
真っ青な顔のレインと対照的に、妹さんはくすくす笑うだけだった。
"leev, lilis il"
彼女は私たちを中に招き入れると、客間へ通した。
革のソファに座る。ふかふかだ。妹さんはにこにこして去っていった。
「ねぇレイン、さっきのなんだったの?」
しかし彼女はムスッとした顔で何も答えない。
「ねぇ、聞いてるの?」
「れいんは おこっています!」
アルシェさんに助け舟を求めるが、彼は困った顔で苦笑するだけだった。
「なによ ...... ヘンなの ...... 」
口を尖らせながら、辞書でverpedを引く。
――そして私は声を失った。
verped。日本語にすれば「厄介者」。
......あぁ、誰か時間を戻して。
顔から湯気を出しながらアリアを待っていると、彼女はいつものローブに身を包んでやってきた。 201
"solvat"
"soono, alia. see lena lax tyu fuul xe"
"passo"
言いながら、アリアは私に目をやる。
"lein imyu atu e. xax e vav?"
一瞬、「珍しいレイン」ってどんなレインかと思ってしまった。ここでのleinは「服」のことだ。
"ahah..."
苦笑する私。
アルシェさんはこほんと喉を鳴らし、昨日起こった出来事を包み隠さずアリアに話した。
置時計の針がカチカチと時を刻む。
話を聞いたアリアは、袋から出したヴァルデを真剣な顔で見つめていた。
"tu... et varde kaks ter?"
"non lax tyu jins tu et kaks az"
アリアはふぅとため息をつくと、ヴァルデを手にとって何やら調べだした。
そのとき客間のドアがノックされ、先ほど玄関で会った妹さんが紅茶とお茶菓子を持ってきてくれた。私は気まずさで冷や汗をかいた。
妹さんはヴァルデを不思議そうに見つめると、興味を持ったのか、部屋を出ずにその場に残った。
アリアは杖を色んな角度で見たり触ったりしていたが、やがて首を振ってヴァルデをテーブルに置いた。
"tu te kaks. noel en na vir tiina i tu"
それは拍子抜けする答えだった。
「この杖は偽物。単なるレプリカ」。
なぁんだ、やっぱりネブラの狂言だったのか。
いや待て。だとすると逆にネブラの動機が分からなくなる。目的はほかにあったのか?
レインは複雑な表情を浮かべるも、残るひとつの質問をした。お父さんの生死だ。 202
"hai, lu nebra rensat papa xiel lfis xal. ol soa... xom lu xa am?"
"sol dyussou...? qm... passo fien noel fuul moa la im salt tox"
するとアリアは透明な水晶玉を出し、両手をかざした。
うわ、これぞ占い師って感じだわ。こっちでも占い師って水晶玉なのね。
"qmm... arte, noel in sen xe im tu ras a. tu et... to...? er"
"er? ...belfe?"
"mm... tee... tu... tier?"
"tier... kateej?"
"xalet... see... xea... xea... tu et axea a?"
"axea... e kateej eyo?"
どうやら以前は感じられなかったお父さんの反応が得られたようだ。
レインはぐぐっと身を乗り出す。アリアにはカテージュの海岸が見えるらしい。
"see non ins... xe... diam.... lu et..."
そのときアルシェさんが"aa!"と言って人差し指を振った。
"kateej, axea, diam. son tu et miilya xa!"
"sentant, etto! ya, tu et mixpaxea in. lein, atu fo tinl a xian?"
"altra rante xa frem lyu tisse. haan, xalet, papa es nekt atu na"
"tet, ixta le noel in et ixta tur en aluutel tisse. alfi, dyussou duurga xiel mi kateej im tur e"
どうやらドゥルガさんは別荘があるカテージュに隠れている可能性があるようだ。ただし、アリアの占った映像は今現在のものとは限らないから、今もドゥルガさんがいるかどうかは分からないという。
私は紅茶のカップを置く。周りから見えないように脚をもじもじさせる。実は先ほどから脚が冷えていて、お手洗いを借りたいのだ。
"qm... dildox, non rip lan xerka"
アリアは「は?」と言って一瞬きょとんとした後、プッと吹き出した。つられてレインとアルシェさんも笑う。
しまった、日本語の癖で「トイレを借りたい」と言ってしまった。正しくは「トイレを使いたい」だ。きっと今彼らの脳内ではトイレを剥がして背負って帰ろうとする私の姿が203 浮かんでいることだろう。
妹さんはゆったりとした表情でにこにこしている。笑ってはいない。私が外国人だからしょうがないと思っているのだろう。あるいはよく知らない相手だから単に気を使っているだけかもしれない。
アリアは妹さんに私を案内するよう命じた。やや気まずい思いを感じながら、妹さんに連れられて廊下へ出る。
"saa... anvant on non anxat tyu lex... qm"
"smsm, ilpasso anne. dina non et soa xanel. ra t'ineaato et esti on fuul. tet non te yoa merel ento rsiil noan lut na apen, fien non nap elf tuube merel, ahah"
どうやら怒っていないようで助かった。それにしても明るい子だ。ただ、彼女は異様に早口で、なんと言っているのか半分以上聞き取れない。
"saa, non til 3 koom antisse, kav alia. il, iiil et fuulan siiyu tix non. eeta sein et rana lutel, laas et lut rana on total. fel, yulf, fuul, milf, total total. lala non nad laas tifl pitm var levn e rana, ahah. saa kuim, non na kulan a. hei, kuim on kulala, tyu siinat opo le non piot? le et cuux l'alia etta taut ka xe ate kaen... kaen qm am el,? ...a, alas... kenoooo xe ate teu mar lant el?"
何か自分の家族について喋っているようだが、半分も理解できない。恐ろしく早口な上、恐らくそのほとんどがどうでもいい無駄口と思われる。話題も飛び飛びだし、私にはとてもついて行けない。
思うに、彼女は内容のあることなど最初から喋っていないのだ。ただお喋りが好きというだけのようだ。彼女は自分だけ兄弟の中で劣等生と言っているようだが、分からないでもない。彼女はアリアとは毛色が違う。まぁ、本当に文字通り毛色が違うわな。
適当に相槌を打ってお手洗いを借りる。
用を足してドアを開けると、目の前に妹さんが立っていた。私は思わずどきっとしてしまった。
この子 ...... ずっとここにいたの...... !?
"aa, tyu vat bas non tisse"
しかし彼女はにこにこして答えた。
"tee tee, vaden tyu em reiz ka tu ra" 204
迷ったらいけないですって? そんなわけないじゃないの...... 。もしかしてやっぱり私に怒っていて、嫌味を言っているのかしら。
彼女を尻目に客間へ戻ろうとしたとき、ふいに腕を掴まれた。不審に思って振り向くと、彼女はぐっと顔を近づけてきた。
"ep? ...to?"
私の唇 の1cm前で、彼女の薄い唇が微笑む。そしてゆっくりとした低い声で囁いた。まるでからかうかのように。
"altfian alxa et lant kok tyu,? xion hazki"
「――え?」
心臓を鷲掴みにされた気分だった。
この子、私の正体を知ってる――!?
「ど ...... どうして」
アリアには口止めしてある。彼女の性格上、余計なことを言うはずがない。
"non ret fan xe a tyu, alkatis"
すみれの香りのする吐息で私の鼻をくすぐる少女。
私はすっかり気味が悪くなってしまい、彼女の手を振り解いた。彼女は一歩後ろに下がると、手を後ろ手に組んでくすくすと笑った。
"le varde et kaks tisse. tio, le melxe le xa zok et fiel deel"
ヴァルデの棒の部分は本物。偽物は先端の球だけ。彼女はそう告げる。
"lala... lala es tyu jins sen tu?"
"saa, mil non et fuulan kaks?"
"tet... tyu rensat nan te axk a fuul sete?"
"ax, non te fuulan rat, mil non xar el amis xin fuul tis rakel. fok, xel amel, non sols rin eeta na adin on fuul. xom non oktat vil tu ka alia etta"
どうやら彼女も本物の占い師だったようだ。それでヴァルデの棒が本物だと分かった。だがアリアに恥をかかせぬよう、皆の前では黙っていたとのこと。
彼女はすうっと目を細めた。笑顔が消え、眼鏡の奥の眼光が鋭くなる。
"duurga yutia en vortes. non lax tyu vano fia lenan, alkatis iten yumana"
救世主? 私が? ...... 何の話だ。 205
彼女の言葉は先ほどまでとは打って変わってハッキリしており、一語一語しっかりと発音された。その声は低く鋭く、蛇の舌の動きのように耳に残る声だった。
"a...alna"
気迫に圧倒されて私がおずおず頷くと、彼女は急に元の柔らかな表情に戻った。
"xion etta, myun nekt tu xook it il, ret"
くすくすと笑うと、彼女は来た道とは違う方へ去っていった。
私はなかば青ざめた顔で客間に戻った。レインたちは深刻な顔で何かを話している。
ヴァルデは机の上に置いてあった。アリアは偽物だと言ったが、妹さんが言うには偽物なのはてっぺんの玉飾りだけで、棒の部分は本物だそうだ。
アリアが正しく占えなかったのは、恐らくヴァルデから魔力を感じられなかったからだろう。無理もない。球がすげかえられているならこのヴァルデは不完全なのだから、魔力を感じる由もない。しかし、妹さんの言ったことは本当なのだろうか。
私は無言でヴァルデを掴む。レインは私を横目で見 つつ、 アリアと話を続けている。
うーん ...... ネブラがあれだけ欲しがったんだから、完全に偽物とも思えないんだけどなぁ。それに妹さんのこともあるし。でもアリアは偽物っていうんだよな...... 。
私は球を右手で包むと、くいっと捻った。するとその瞬間、ポンッという景気の良い音を立てて 、球がポロッと外れた。レインは音に気付いて私に目をやると、取れた球を見て口を ポカーンと開けた。
皆の視線が一気に私に集まる。一瞬、木星の重力より重い沈黙が訪れる。
「...... え、えへへ...... 取れちゃった」
怒り狂うレインを止めたのはアリアだった。
出てる、レインの体からオーラ的なものが。今のレインならきっと魔法を撃てる。
私は部屋の柱時計の隅に隠れ、子猫のようにぷるぷるしていた。どうにかアリアが荒ぶるレイン神を鎮めると、私はおそるおそる席に戻った。
"vantant, tu et soda emt tisse"
"tyu to fan,?? ol tu et kaks!"
そうだよな...... 。レインが怒るのも無理はない。これが本物だったら神の家宝を壊して206 しまったことになる。そんなことになったらどう責任を取ればいいのか分からない。
ところが、流石 男性というか年上というか、アルシェさんはわりと冷静で、取れた球をまじまじ見て、アリアに差し出した。
"nee, el sed sen tu sofel soa? an na tu et tio melxe e diad"
確かにポロっと外れたあたり、いかにも偽物っぽい。ただのガラス玉なんじゃないの。
"diad? ...hqq, tu et senxan"とアリアは頷く。
"son ans rig van tu miskel? ol tu sil rig, tu et kamil diad"
割ってみてガラス玉か調べようぜと言っているようだ。だがレインは首を振る。
"non xam vil tu. kaat varde at lad im vaste yut saal tikno. im lemel, sart sein sit diad, hayu melxe at lad kokko flia e"
"hqm, son ak el jins tu melxe de flia az?"
"flia imen lemel eks flia ladl hot, arxe. see flia ladl aluut til robi du fi"
レインは緑の球を手に取って見つめる。
"non fixat ax on tu vadel fein a. lilis il, tu melxe te flia ladl olta aven. alson tu eks le varde te kaks"
静かに宣言すると、レインはヴァルデに球をはめた。
どうやら球は偽物らしい。透き通り過ぎているのだ。本物なら球は天然の水晶でできているが、天然の水晶なら不純物が混ざっているものだ。
どうやら妹さんは正しかったようだ。「球は偽物」。しかし妹さんは「棒は本物」とも言っていた。アリアの手前妹さんは言えなかったということだったので、私が代わりに提案することにした。
"hai, tu zon et erfi xanel?"
棒は本当に銀製なのだろうかと聞いてみた。
するとアリアは一瞬沈黙し、うーんと唸った。そして何か思いついたのか、立ち上がって部屋を出て行った。
数分して戻ってきた彼女は、銀食器の錆取りクリームを持ってきた。なるほど、これで銀かどうか判断するようだ。
――って、占いいらないジャン。
クリームを塗ると付けたところの錆が取れ、銀の輝かしい光沢が顕わになった。棒の部207 分は確かに銀のようだ。
もしこれが偽物だとしたら、どうしてガラス球ではケチったのに棒には高価な銀を使ったのだろうか。やはり妹さんの言うように、棒は本物なのではないか。
どうしてドゥルガさんは大切なヴァルデを家に置いていったのかと昨日疑問に思った。今になれば答えは簡単。かさばるからだ。潜伏しながらもうひとつのヴァストリアを探すには邪魔だ。
ところがもし家宅捜索されてヴァルデがフェンゼルの手に渡ると困る。そこで先端の球だけすり替えたのではないか。
恐らくドゥルガさんはカテージュの別荘におり、ヴァルデの球を持っているはずだ。もしそうなら私たちは彼にヴァルデの棒を届ける必要がある。彼がフェンゼルとかいう長官にヴァルデを渡さないのはきっと何か理由があるはずだ。
私がそう説明すると、みな納得したようだった。
話し合いの結果、私たちはカテージュに行くことにした。フランスからイタリアくらいの距離があるので、新幹線に当たる電車に乗る必要がある。
今日は各自準備をし、出発は明日ということになった。行くのは私とレインとアルシェさん。アリアにはアルナに残ってこちらの状況を伝えてもらうこと にした。
ちょうど冬休みで学校は休みだ。ただアルシェさんには有給を取らせてしまうことになりそうだ。
本当は今すぐにでも行きたいのだが、一旦アルシェさんは家に帰ってハインさんに事情を説明する必要がある。場合によっては彼の指示を仰ぐことになるかもしれない。
ハインさんには電話で報告すればいいじゃないかとも思ったが、盗聴の危険性があるので直に話すとのことだった。確かに話がここまで大事になってきたら用心するに越したことはない。
アリアの家を出た私は妹さんのことを思い出していた。
どうやら彼女の言っていたことは正しかったようだ。結局私の提案は彼女の受け売りでしかなかった。 208
そういえば彼女に名前を聞くのを忘れてしまった。
レインは知っているだろうが、別に大したことでもないし、まぁいいかと捨て置いた。それにしても不思議な少女だった。
209 3 2
起きたら雨が降っていた。今日はカテージュへ行くというのに天気が悪い。だが雨の好きな私は雫に濡れた町を上機嫌で窓から眺めていた。
いつものように朝食を取ると、制服に着替える。なんだかんだ言ってこの格好が一番動きやすい。ヴァルデを剣道袋の中に入れて運ぶから袴のほうが目立たないかとも思ったが、制服でも剣道部の冬合宿ということで通るだろう。
レインは今日は白っぽい民族衣装のようなものを着ていた。アルセリアという宗教服らしい。アルティス教の宣教師が寒い地域に布教しにいったときに開発した服だそうで、とても暖かそうだ。なんだかアイヌやフィンランドのラップランドの民族衣装に似ている。
遠出するのに必要な荷物をあれこれ持ち、ヴァルデを入れた袋をしっかり肩にかけると、傘を持って家を出た。
傘はレインが買ってくれた水色のものだ。面白いことに、アルバザードでは箸のように一人一人自分専用の傘があるのだそうだ。
カルテに向かって歩き出すが、実を言うと今日は体調がちと優れない。昨日の夜、調子に乗ってワインを飲みすぎたからだ。
レインはお父さんが生きている可能性が高いということでかなり機嫌がよくなっていて、珍しくお酒を飲もうと言ってきた。
ワインはルージュだった。とびきり美味しかった。ワインはこの地方の名産のようで、日本のコンビニにあるような安ワインとは比べ物にならなかった。
私は下戸ではないがうわばみでもない。それに未成年なのでお酒の経験もほとんどない。だから酒量が分からず、すっかり酔ってしまったというわけだ。レインはそんなに強くないのを自覚していたようで、少し飲んだだけだった。
日本だと高校生がお酒なんてと思うかもしれないが、どうやらここでは15を過ぎれば少しくらい飲んでも構わないらしい。まぁ日本でも正月にお神酒とか飲むしな。
ここのお酒は主にワインとビールだそうだ。特にビールは弱いものを暖めて、薬として子供に与えることもあるそうだ。アルバザードの人間に下戸はまずいないそうだが、歴史的に混血が進んでいくうちに下戸が増えてきたそうだ。
うー、そんなことより、気持ちが悪い...... 。 210
「しおん、さむい ですか?」
私の顔色が悪いからだろうか、レインが気遣ってくれる。
「ううん、大丈夫よ。貸してくれたコートがあるから。それよりごめんね、私のせいで色々お金がかかっちゃって」
「どういう意味ですか」
"alfi, non nad nan tur xet on gil xalt tyu. xom non pent tyu..."
レインは微笑むと、首を振った。
"tyu te gaato merel e. xink sol non alk yu tyu. non en tur reia mil tyu, xion"
鞄で顔を半分隠すと、レインは恥ずかしそうに笑った。
"lein..."
"xom, te leev non"
ててっと走っていくレイン。私は彼女の背中を見ながら呟いた。
「...... 絶対に私が守ってあげるからね」
こんな事件に巻き込まれてしまったけど、私はレインと出会えてよかったと思っている。彼女もそう思ってくれているようだ。
こないだもレインはこの生活が幸せだと言っていた。私がいないと家事が困るのだとわざと大げさに言うのだ。異世界人の優しさや気遣いの仕方がだんだん分かってきた。
紫苑の書にはたくさんの情報が書き込まれた。はじめ はアルカの授業ノートでしかなかったが、徐々に日記になってきた。
日記の間違いはレインに直してもらう。まだ間違えるところは多い。文法自体は単純なのでまず間違えないが、語法をよく間違える。
例えば日本語で「大きな失敗」というところをアルカではrek kaiとはいえず、rek tinという。tinは「程度が甚大である」という意味だ。眼に見えない失敗が「大きい」はずないのでtinを使うとのこと。論理的だなと思った。
もちろんメタファーがないわけではない。例として、「大きい声」はxiv kaiという。これは 体格の 大きい動物のほうが声が大きいことが多いというところから来ている。
句動詞の類が少ないのも学習者としては勉強しやすい。 211
アルカはget upのように簡単な語を組み合わせて難しい語を表現することが少ない。get off, get away, get on, get along withなど、アルカではすべて別々の1語で 表す。
英語のテストで句動詞はなかなか点が取れない。単語力があっても熟語は苦手という人は意外と多い。
アルカは単語さえ覚えればわりとどうにかなる。そういう意味では取り組みやすい。もちろん深く知るには成句も覚えなければならないが、単語力があればおおむね読解できるというのは便利だ。
歩道をてくてくと歩く。
電柱は見当たらない。地下ケーブルのようだ。発電はどうしているのかと聞いたら、できるだけ自然の力を利用しているらしい。アルバザードは日本より風が強いので風力発電ができる。また、太陽光発電もできる。
人間にも発電させているそうだ。人通りの多い道の下には発電機があるらしく、その上を人が通ることによって発電するという。
素晴らしい。生きて歩くことが星への貢献になるのね。
通りかかった野良猫がぴょんと塀から道路に下りた。
おいキミ、そのひとっとびが生きてる証だよ。
カルテに着くと、ベンチのところでアルシェさんが待っていた。
そういえば彼はいつも約束より早く来る。きっと紳士的な彼のことだから、女の子を寒い中待たせるのは悪いと思っているのだろうな。
彼は 私たちに気付くと立ち上がる。スラっとした長い脚が目に付く。身長を聞いてみた。地球の尺度で置き換えると約172cmだ。
"naa"
アルシェさんが呼びかけてくる。「なぁ」と「ねぇ」については日本語と本当に同じだなぁと驚く。もっとも、アルカでは感動詞の一部がaの系列とeの系列に分かれているようだから、理屈立った偶然ではあるのだが。
"soonoyun, arxe"
"ya, soono, tiis"
挨拶をすませると駅の改札へ降りていく。 212
目的地はカテージュ。私は今日初めてアルナの外に出る。
改札のアーチをくぐる。料金は自動的にアンセに課金されるので、お金を使ったという意識がない。アンセというのははなはだ便利な代物だ。
前にも触れたが、アンセはIDも兼ねている。生まれると国から受給権が与えられ、電機屋で好きなタイプのアンセを買う。人気なのは腕時計のように手首につけるタイプだが、懐中式もあるし、首輪型もあるし、ボール型もあるらしい。
ボール型なんて誰が買うんだと首を捻ったが、アルバザード人というのはリベラルなところがあるようで、そういう穿った物が好きな人間を寛容するらしい。
また、 アルバザードには戸籍があるそうだ。日本にも戸籍はあるので一見当たり前に見えるが、実は世界的に見れば戸籍がある国は珍しい。
かつて日本は大陸を参考に庚午年籍を作った。これが歴史的な戸籍の始まりだ。その習慣が未だに続いている。だが、世界的に見れば珍しいことに変わりはない。だからアルバザードに戸籍があるのは驚きだった。
電車に乗る。アルナからカテージュまで走る特急イスカルだ。車体は青と白で塗られており、ツバメを彷彿させる流線形だ。
途中止まる駅はルークス・イルケア・ワッカのみ。特急とはいえ、ここからカテージュは南仏からイタリアに行くようなものだから長旅になりそうだ。
私は席に着くと、本を取り出して読み出す。読んでいるのはatiiliという聖書。私は『幻想話集アティーリ』と名付けている。神話であると同時にアトラスの歴史書でもあるらしい。これを読むことによってアルカの知識と理解が深まる。
区切りのいいところまで読むと、私は本を閉じた。時計がコノーテを指している。
もう昼か...... 。お昼ごはんにしようかな。
アルバザードは文化と人種のるつぼだから、世界中の食べ物が集まっている。だからレパートリーは豊富だ。
ちなみにアルバザードは小麦などの自給率は高いが、世界中の食材を手に入れるのは輸入に頼っているそうだ。
お弁当を鞄から取り出す。サンドイッチだ。残念ながら今日は豊富なレパートリーを楽213 しむ余裕がない。
レインは私が読書をしている間、一生懸命受験勉強をしていた。アルシェさんというレンス・リーファの強力なOBがいるので、随分捗っているようだ。
こんなときでもきちんと勉強して成績を維持しようとしているレインは本当に真面目だ。私はもはや受験勉強なんてやる気がないのに。
混雑具合を見るためにきょろきょろしていたら、中年の男性と目が合った。すると彼はにこっとした。私も反射的に微笑む。
アルバザード人は愛想がよく礼儀正しいので、目が合えば笑顔を見せるのが常識になっている。それが礼儀と知らないうちはおじさんが私を見てデレデレしているのかと思って、正直少し気味が悪かった。
もしかして黄色人種の私が珍しいのかとも思った。しかし、私みたいな肌の人はけっこういるので、そういうことではないと気付いた。
アルバザードは世界最強の国だから世界中から人が集まる。歴史的に見て白人と黄色人種、およびそれらの混血が多い。だから私は別段珍しくない。
アルシェさんはサンドイッチを食べながらレインに参考書の問題を解説している。食べながら本を読むのは行儀が悪いので、先ほど扱った問題について口頭で解説している。
彼はアルナ大を出て魔法研究所に入ったそうだ。魔法には呪文が使われる。その関係で彼は言語学者でもあるそうだ。
アルシェさんはレインに優しい表情で話しかけている。日本人に比べると口がよく回る人で、会話が途切れない。自分のことを適度に話し、相手に当たり障りのないことを聞いてくる。興味深く聞き、こちらの顔を常に見てくる。感情も豊かで、身振りも多い。話していて飽きない。
彼には人を惹きつける魅力がある。単にイケメンというのもあるが、屈託のない笑顔や打算のない態度もいい。それでいて時折見せる見透かしたような言葉も素敵だ。義兄弟のサラさんが自ら彼の側近に転身したというのも理解できる。
そんなことを考えていたら、だんだん頬が赤くなってきた。
火照りを冷まそうと水を一口飲む。フランスと違ってアルバザードは軟水が多い。しかも豊富だ。飲食店でも水はタダで出てくる。 214
水といっても日本と違ってぬるま湯が出てくるのが面白い。アルティス教では体を冷やすことは良くないとされるため、冷水は好まれないのだそうだ。
軟水が多いので、料理も西洋料理とはところどころで異なる。うどんやそばもある。そば好きの私としては嬉しい限りだ。
暇を持て余し、ぼーっとヴァルデの入った袋を見やる。
こんな杖が神の武器だったなんてねぇ。
それにしてもいいんだろうか。だってほら、私あれでネブラに刺し面しちゃったし。小手も打っちゃったわよ。
神話のアイテムを竹刀代わりにしてしまった。バチが当たりそうだ。
私は情報を整理するために神話で読んだ知識を思い起こした。固有名詞ばかりなので誰が誰だか覚えづらい。何度か頭の中で想起して定着させないと忘れてしまう。
ヴァルデの最初の持ち主はアルデス王の父親だった。アルミヴァの12神でもある竜王ティクノだ。9時の人といえば分かりやすいだろうか。
アシェットのリディアはこの杖を借りて悪魔と戦った。その後リディアが杖を返納して一旦は神の手に戻った。
しかし今回月の悪魔シェルテスがアルデス王の息子トゥッティを襲い、ヴァルデはアルバザードに落ちた。
そして今現在は私の手に握られている。なんとも不思議な話だ。
月の悪魔シェルテス、魔杖ヴァルデ、人工言語アルカ。
この世界は不思議なもので満ち溢れている。
「月と魔法と不思議な言葉...... か」
窓の外を見る。地下を走るのは都市部だけなので、田舎だと電車は地上を走る。田園風景が視界に広がっている。
カテージュってどんなところなんだろう。ドゥルガさんとは会えるのだろうか。彼は魔法をどの程度使えるのだろうか。
見てみたいなぁ...... 魔法。 215
手持ち無沙汰にしていると、アルシェさんは気遣ってくれたのか、隣に座って話しかけてきた。
ウェイトレスを呼んで暖かい紅茶を頼んでくれる。本当に気遣いの上手な人だなぁ。
でも、それって本心からの優しさなのだろうか。単に礼儀としてやっているだけなのではないか。
私は彼を横目で見た。
"nee, tyu et niit a non sete?"
"mm?"
"myun okt aja e lea o rulna"
"mm... lea et 50 oksgal"
"...soa a"
そう ...... だよね。
私はちょっとがっかりした。すると彼は見透かしたように微笑んだ。
"yan rulna et 150 oksgal na"
"! ......soa, e"
なによ ...... 。からかってさ。
私は赤くなって窓の外へ目をやった。紅茶が熱いせいだ。
南仏のような穏やかな景色が見える。カテージュは大陸の南端にあるからアルナより随分暑いのだろうか。バカンス地として有名らしい。夏は海で遊び、冬は暖を取るそうだ。
アルナの南がルークスだ。昔はアルバザード屈指の商業地区だったらしく、人口が多いことからこの名が付いたそうだ。
ルークスの次がイルケアで、アルナやカテージュやその他の都市に繋がる交通要所を昔から務めてきた地方だ。「すべて行く」という語源から来ているそうだ。
イルケアを過ぎるとワッカという丘陵都市に入った。日本と比べれば微弱なものの、この地域には地震があるらしく、火山が噴火することもあるらしい。
アルシェさんはレインの横に戻って歓談している。勉強を教えていたはずだが、二人は相性がいいのか楽しそうに話している。彼らの使うジョークやユーモアは私にとっては高度すぎてまだ理解できないので、会話に付いていくことができない。 216
一人会話に入れない自分がみじめだと思ったが、そう見られたくないので、本に目を落とすことで自己防衛をした。
だが二人の楽しげな声が気になって身が入らない。目を上げてレインをじっと見る。
なんか ...... 私といるときよりかわいこぶっているような...... 。
思わずハッとした。
ダメよ、そんな卑屈な考え。レインは誰にでもこんな感じじゃないの。紫苑、あなたそんなだから友達ができないのよ!
ワッカを抜けるとようやくカテージュに入った。特急イスカルが中央カテージュのカルテン駅で止まる。ここが終点だ。
ここからは赤い急行電車に乗り換え、南カテージュまで行く。
南カテージュを抜けると辺りは田園が広がるだけだ。ここからは電車がなく、レインの案内になる。
アリアが占ったmixpaxeaというのはオーディンのころにできた地名で、私は籠女海岸と訳した。英雄リディアの妹ミルフが籠にパンを入れて戦災を被った人に配給をしていたことから付いた名前だそうだ。海岸には彼女の石像が置かれている。
籠女海岸は駅から南に2キロ半ほど歩いたところだが、そこは観光地になっていて騒がしい。レインの別荘はそこから少し離れたところにあるそうだ。
距離も近いので自転車で行くことにした。
駅周辺には市営の駐輪場があり、無料で自転車を借りることができる。アンセをかざせば鍵が外れ、使うことができる。誰が使ったかはアンセを通したときに記録されるため、悪いことをすればすぐにバレるという安全なシステムだ。
記録は自転車に記載されるのではなく、錠の代わりをしている銀色のバーを通じて役所に送信される。ゆえに自転車を破壊しても記録を隠蔽することはできない。
田園風景を背景に、別荘へと漕いでいった。海が近くまた南の地域なので、アルナより暖かく潮風がぬくい。日本と違って冬の海の風が暖かいようだ。
小一時間ほど漕いだところにその別荘はあった。少し突き出た岬の近くにひっそりと建っていた。 217
自転車を停めて玄関に近寄る。当然、鍵がかかっている。アルナの家と違って小さく、入り口は1つしかない。別荘というよりは小屋だ。
鍵はアンセによる認証キーで、レインがアンセをかざすと簡単に開いた。ドアを開くレイン。
"leev, lilis"
レインが私たちを招き入れようとした瞬間、"mono!"という男の声が聞こえた。
突然の大声に驚いて振り返ると、そこには3人の男がいた。大柄な男と長髪と短髪の計3人だ。
「え ...... だれ?」
それは知らない男たちだった。彼らは黒いスーツとコートを纏っていた。横には黒い車が置かれている。
"lein yutia kok??"
大柄な男が声を荒げる。どうやらこちらの素性を知っているようだ。
明らかに態度が友好的ではない。レインは緊張して固まっている。
"asm van me, ti et lein yutia kok?"
男は問うと同時に胸のポケットから黒い鉄の塊を取り出した。丸太のような腕を伸ばすと、その口を私たちに向ける。
――銃だ った。
こんなものを向けられたのは初めてだ。気が動転する。
横目で二人を見る。どちらも困惑した顔だ。
誰なのこいつら。まさかヴァルデを狙って...... 。
ヴァルデの価値を考えれば十分ありえる ことだった。ネブラ以外にもドゥルガさんを疑っていた者がいたということだ。あるいは逮捕されたネブラから情報を得たのかもしれない。
短髪がアンセで連絡を取る。誰かにこちらを捕まえたと報告している。どうやらこいつらは誰かの使いのようだ。黒幕は電話の向こうにいる。
電話を切った短髪が横の二人と相談を始める。戦闘のプロでないのか、動きが先程からぎこちない。 218
――チャンスだ。
私は咄嗟にレインとアルシェさんを家の中に突き飛ばし、中に入ってドアを閉めた。
ドアから離れ、ノブに手を伸ばして鍵をかける。
その刹那、パンという銃声が響いた。
「きゃあ!」
思わず手で耳を覆う。
銃声など初めて聞いた。映画のようなズドーンという音ではない。もっと乾いたパンという音だった。弾がドアにめりこんでいる。
レインを見ると、青ざめた顔でぶるぶる震えている。アルバザードでは銃の所持 が禁止されているので、2人も初めて聞いたに違いない。
"lein, fi vak xa atu a?"
"vak?? te, teo etto, gaato mi atu tisse! tet lala es??"
武器なんかあるわけない。
"tu et hao, man an vas fal laas"
戦おうというのか、銃と。
するとレインはアルシェさんの腕にしがみついた。
"teo! laas til gel as nonno!"
ですよねー。
"tur, leebe fo e gel solsik an xarik tu et varde kaks. lein, tu et fiana. ans vas fal laas"
彼はレインの肩を押さえて宥めるが、レインはその場にへたり込んで泣き出してしまった。突然の事態に頭が付いていかないようだ。
まいったな。向こうは3人。こっちも3人だけど、レインは戦闘要員になりそうもない。
銃声が止んだ。ドアを叩く音がする。そして怒号。
どうも彼らはアサシンではなく、単なる素人のようだ。恐らくヴァストリア捜索隊の誰かが黒幕で、その部下だろう。となると役人の可能性が高い。
役人が銃を与えられたところでろくに使えはしまい。だがネブラよりはずっと手ごわいだろう。何せ相手は銃だ。
ドアを蹴る音が聞こえる。じきに突破されるだろう。 219
まずいな、こっちには武器もない。せめて刃物くらいはほしいところだ。
私は奥に行くと、台所を探した。包丁くらいはあるはずだ。
案の定、大き目の包丁が一本あったので、それを取って居間に戻った。
"arxe, lena yol xiit tu elen lex dilkon"
分厚い木のテーブルを指差すと彼は頷いた。これを堤防にしよう。
「ほら、レインも手伝って」
テーブルの端を持ちながらレインに言うが、彼女は下を向いて泣いている。
「あのね ...... 怖い のは分かるんだけど、今動かないと大変なことになるの」
するとレインは赤い眼を向けてすまなそうに首を振る。一生懸命立ち上がろうとするが、腰が動かない。彼女は眼に涙を浮かべながら「ごめんなさい...... 」と言う。
「あぁ、腰が抜けちゃったのね。かわいそうに。じゃあ、そこにいて」
アルシェさんと力を合わせ、テーブルを引っくり返す。かなり重い。テーブルをドアの前に押すと、即席の堤防を作った。
"lein, tu ra til nektfont?"
"ya, ko lie ra"
"ren jet. arxe, tyu mir evo atu!"
アルシェさんに包丁を手渡す。
"xiyu, neeme!"
彼はテーブルに体重をかけ、敵の侵入を阻止する。
ようやく立てるようになったレインは私の手を引いて奥にある裏道へ案内する。ここから外に出られるようだ。
"passo, son tyu ren nekt nan a ka vind"
とりあえずレインを安全な部屋に入れておく。彼女は前線にいないほうがいい。
"ax! ...tet lilis?"
"lena et vanoan tuan, lein"
私はレインを軽く突き飛ばし、玄関へ戻る。
さて ...... ここが頑張りどころだぞ、私。
緊張した面持ちでアルシェさんに近寄る。 220
ドアの壁はそんなに厚くない。大声で作戦を言っては聞こえてしまう。私は彼の肩に手を置いてひょいっと浮かび上がり、耳元で囁いた。
"i tur, non rik i tu ra var nektfont lie. see non vand sil laas rot jan. alfi, non ar fan minxvand. son tyu mir hom omi im non vand kit laas, vand laas, passo?"
彼は眉をひそめる。
"tal... tu et lami tinka. sol an ar van minxvand"
"sentant, tet fon em vik niit im tur as, arxe alteems. ketta, lena si mel!"
"...atte, aa, neeme"
作戦は決まった。私が隠し通路から外に出て奇襲する。彼は危ないことは自分がやると言ってくれたが、私がレインを守ると決めたのだ。
走って裏道を抜け、家の裏手へ回る。壁伝いに歩いて玄関へ回る。男たち3人が玄関を突破しようとしている。体格のいい男がドアを蹴っているが、業を煮やしたか、銃を長髪に渡すと体当たりを はじめ た。突破は時間の問題だ。
横からでは奇襲は難しい。だが別の手段もちゃんと考えてある。
すっと屋根を見上げた。柱を伝っていけば屋根に上れそうだ。そこから何か重いものでも落とせば、女の私でも最低一人は倒せそうだ。
いったん家の中に戻ると、レインの隠れている部屋に入って物色した。本がたくさんあるが、本では攻撃力がない。花瓶もあったが、音が派手なわりに攻撃力は低そうだ。
ベッドに乗っかって見回していたら、棚の上に石が並べてあるのに気付いた。どうやら海岸で拾った綺麗な石をドゥルガさんが収集していたようだ。これは使える。
大きめの石を取ったが、思ったより重い。これを持って屋上まで上がれるだろうか。しかしやるしかない。念のため、手で掴める程度のやや細長い石を別に取ると、スカートのポケットに入れた。
「しおん ...... だいじょうぶ ですか ...... 」
不安そうな顔のレイン。
「大丈夫よ。あなたのことは私が守るから、心配しないで」
レインをぎゅっと抱きしめる。彼女はものすごく震えていた。子猫のようだ。
こんなに怖い思いをしたのは初めてなんだろうな。まぁ、私だって初めてなんだけど。 221
もう一度外に出る。二階 のベランダを支える柱に手をかける。柱によじ登り、ベランダまで上がる。
こんなの小学校のときの登り棒以来だわ。いや、前に本屋で熱中しすぎて10時過ぎまで帰らなかったとき、さも部屋で勉強してましたって見せかけるためにベランダから忍び込んだことがあったな。じゃああのとき以来か。
屋根の上に着くと、音を立てないように男の頭上に行く。どうにか石を持ってくることができた。肩と腕が非常に痛い。今ランプの精が現れたら「シップくれ」と言いそうだ。
さて、実質的なチャンスは1回だ。これでダメならかなり危うい。
男たちは頭上の私には気付いていない。狙うべきは銃を持っている長髪だ。私は彼の頭上に狙いをつけ、タイミングを見計らう。
これぶつけたら痛そうだけど、そんなこと言ってる余裕はないしね...... 。
心の中で「えい」と声を上げ、手から石を離した。石はあっという間に重力に引っ張られていき、男の頭上に落ちた。悲鳴を上げる間もなく崩れる男。
――よし、これであと2人だ。
隣の男は何が起こったのか分からないようで、周りを見回した。そして石に気付くと、ハッとして屋根を見上げた。
男と目が合う。
その瞬間、私は声を張り上げた。
"arxe! kettaaaaa!"
その刹那、アルシェさんがドアから飛び出てきて、短髪に回し蹴りを加えた。
彼のキック力は女の私とは比べ物にならず、男は踏ん張る間もなく吹っ飛んでいった。
アルシェさんは即座に倒れこむ短髪に追い討ちをかけ、右手を踏み潰した。長髪の銃を拾って使えないようにするためだろう。
"wei!"
怒声とともに体格のいい男がアルシェさんを掴む。彼はとっさにストレートを放つが、体を掴まれ足を踏ん張ることができなかったため、威力が半減してしまった。
男は彼の突きなど物ともしない表情で、力任せに彼を地面に投げ飛ばした。
222
「アルシェさん!」
私は咄嗟に屋根から飛び降りた。男の背後に着地すると、背中を思い切り蹴飛ばした。ところが所詮女の力ではビクともしなかった。
"tuube miba!"
男は私を力いっぱい突き飛ばしてきた。
「きゃあ!」
ふわっと浮く感じがして、私は数mも吹き飛ばされてしまった。なんて力だ。
「いったあ...... 」
背中をさすりながら立ち上がる。
男は失神した長髪から銃を取ると、それを私に向けた。
まずい ...... 体格差がありすぎる。その上向こうには銃がある。
"dert a lastia, miba"
男が引き金を引く。私は恐怖で目を瞑る。
パーンと音がした。
するとその瞬間、突如風が巻き起こり、私のスカートが舞い上がった。
反射的に手でスカートを押さえると、スカートが緑の光を放っているのに気付いた。
「――えっ!?」
緑の光 はスカートのポケットから放たれていた。さっきポケットに入れた石だ。
取り出すと、石は輝かしい光を放っていた。その光は私の周りに球体を作っていて、その壁面には銃弾が突き刺さっていた。
「まさか ...... これが守ってくれたの?」
そのまさかだった。私は光のヴェールに守られていた。
"wei! ti tok a?? ala es ti en vortik??"
混乱した男が喚き散らすが、そんなの私のほうが知りたい。
私と男はバカみたいにぼーっと突っ立っていた。
そのとき、銃声を聞きつけたレインが奥からヴァルデを持って飛び出してきた。
「しおんっ!」
「レイン ...... ? だっ、だめよ、あなたは隠れてなさい!」 223
会話を聞いた男は更に困惑した顔になると、私とレインを交互に見た。これはチャンスだ。
私は大きく息を吸うと、大声で叫んだ。
「レイン、つえを わたしに なげる しろ!」
それを聞いたレインは困惑する男を尻目にヴァルデを放り投げた。レインは両手で力一杯投げた が、なにせ銀製なのと彼女があまりに非力なため、杖は私まで届かなかった。届かないどころか飛距離わずかに3m。子供以下の腕力だ。
"we, to??"
しかし男はレインの予想外の行動に素っ頓狂な声を上げるだけだった。
その隙に私はヴァルデに走り寄って掴むと、竹刀のように構えた。
"wei, re sef tu al an!"
「イヤよ! ヴァルデは絶対に渡さないわ!」
"beo, tu et antes! re sef!"
男が再度銃を放とうと する。
その瞬間、男の後方からブオンと大きな爆音がした。
何の音かと振り向いた男は仰天した。前方から大型バイクが突風のように突っ込んできたからだ。完全にバイクは男を轢き殺すルートで直進してきている。
"lami aaaa!"
大声で叫びながら男は横転した。
バイクは私の目の前でキキッと急ブレーキをかけると、砂埃を巻き上げながら止まった。
わずか1mほど 手前でバイクが停止する。
「な ...... な...... 」
驚いて震える私。
「あ、危ないじゃないのよ!」
思わず日本語で文句を言ってしまう。
乗っていたのはスーツの上にロングコートを着込んだ男性だった。
彼はバイクを乗り捨て、横転した男に駆け寄る。腰から黒いロッドをジャキっと取り出すと、地面で銃を構えようとする男の手を叩いた。
その 瞬間バチっと音がして、男は小さな悲鳴を上げながら失神した。どうやらこのロッ224 ドにはスタンガンの効果があるようだ。
「あれ、あのロッド...... どこかで見覚えが」
男が倒れこんだのを確認すると、彼はヘルメットを脱いだ。
その瞬間、普段より1オクターブ高い声を上げたのはアルシェさんだった。
"sara??"
男性かと思ったら、アルシェさんの義兄弟のサラさんだった。
"ema xontik klans in"
彼女は倒れた男から銃を奪う。銃を構えたままレインに縄を取りに行かせる。
レインが縄を持ってくると彼女はアルシェさんに銃を渡し、3人を縛った。それから彼女は3人を居間に連れて行き、柱に縛り付けた。
「これでひと安心ね」
それにしてもさっきの緑の光は何だったんだろう。銃弾をも防ぐあの謎のバリアは...... 。
倒したテーブルを立て直して席に着く。
"see sara, es ti luna atu?"
"klans et xina ento til hacn teu fuulan e. luus minxkeit klans i toxel. alia xaklat tu, kapat al ema"
どうやら私たちは昨日から尾行されていたらしい。アリアが気付いてサラさんにこっそり通報しておいたそうだ。おかげで彼らを出し抜くことができた。
"xink, ema anot nan luna atu sa klans. tet milgaal font lika..."
"ahah, tu et alfi ti ik solxe xelf kolset font lika e"
ポジティブで明るいアルシェさん。こういうところが影のあるサラさんにとって魅力的なんだろうな。
などと思っているとレインが救急箱を持ってきた。手当てをしてあげるようだ。
「レイン、私がやるわ。あなたじゃ人質に取られかねないもの」
救急箱を借り、長髪に近寄った。石を落とした相手だから優先的に手当てする必要がある。
髪をかき分けて出血している箇所を見た。
「...... あれ?」
そのときあることに気付いた。 225
「あなた ...... 女だったの?」
3人とも男だという先入観があったが、頭から血を流しているのは女だった。
よく見ると胸もあり、ご丁寧に化粧までしている。そこそこ美人で若い。髪は茶色く、東洋的な顔をしている。まだ10代にも見えるが、役人である以上はそんなに若くないはずだ。
「身分を改めさせてもらいますからね」
短髪の男のポケットに手を入れ、中のものを調べた。ポケットには護身用の小さなナイフがある程度に過ぎなかった。本当にただの木っ端役人だったようだ。
女のほうも手帳やらハンカチやらしか出てこず、防弾チョッキも着込んでいなかった。ほとんど武装とは呼べない状態だ。女の手帳の中からは写真が出てきた。茶色い髪をした若い男の写真だ。恋人だろう。
手帳を見ると、25歳の召喚省の役人であることが分かった。アーディン=ユピトールというようだ。
アーディンに応急処置をした。幸いなことに傷は小さく、意識も明瞭だ。ただ頭なので多少出血が目立つ。とはいえ頭の場合は逆に血が出ないほうが怖い。打ち所が良かったのか、軽傷 で済んだ。私は安堵のため息をついた。
サラさんは冷たい表情で彼らを見下ろした。
"saa, re ixn a gan. ne solsat walet minxkei kalas?"
黒幕は誰か。しかし彼らは答えようとしない。
サラさんはしゃがみこむと、アーディンの手を優しく握った。そして彼女の爪と指の間に自分の爪を挿し込む。何をするつもりなのかは子供でも分かる。アーディンは恐怖のあまり小刻みに息を吐く。
"teo, sara etta!"
脊髄反射でレインがサラさんの腕にしがみつく。
彼女はゆらぁっと振り向くと、地獄の底から響くような声で"sol lumir mist til dia ketins kokko piyo tis anne"と返した。言葉とは裏腹に、目が完全に笑っていない。
あまりに怖かったのか、あるいはこの人の怖さを以前どこかで味わったことがあるのか、レインは口をあわあわさせていた。
226
どうやらサラさんは怒らせてはいけない人らしい。アーディンも空気を読んだのか、観念してぼそぼそと話しはじめ た。
"fenzel alsaal tisse..."
彼女の口から出た名前は召喚省長官のフェンゼル=アルサールだった。
驚き半分、予想通り半分といったところだ。フェンゼルは捜索隊のリーダーだから、ヴァルデを欲しがるのは当然だ。
"ak fenzel serat on varde?"
"tex nain le fosat nebra"
まいったな。フェンゼルはネブラを逮捕した警察から情報を得ている。つまり警察内部に通じているということだ。
しかし逆に言えばこれでドゥルガさんの死が自作自演である確率も高まった。公的機関が信用できない以上、戸籍を処分したほうがかえって監視の目を避けられる。
"fenzel lana to kokko varde mian?"
"...qm"
フェンゼルの狙いは何か。よほど言いづらいのか、アーディンは口ごもってしまった。
しかしサラさんが爪に軽く力を加えると彼女は「ひっ!」と叫んで観念した。
怖すぎです、サラさん...... 。
"fenzel set fan artena kokko vastria lana em aster sam tisse"
「はぁっ!?」
レインと私の声がかぶる。
現在のアルバザードの為政者はアルテナさんという。こないだテレビで見た人だ。いわゆる大統領のようなものだ。
フェンゼルはその彼女をヴァストリアで暗殺して次の為政者になろうというのだ。恐らく使うだけ使ってから何食わぬ顔で神にヴァストリアを返すつもりなのだろう。
落ち着け、私。つまりあれか、私たちは大統領暗殺計画に巻き込まれていたというわけか。
アルシェさんとサラさんはある程度予想していたようで、わりと冷静に聞いている。
「あの、アルシェさん......tyu pornat ano luut?」 227
"im toxel, an asmat a bekka yul vastria alt et to. see la kut tu et elfi"
なくなったもうひとつのヴァストリアはエルフィだそうだ。もともとリディアの持ち物で、身につけると強い魔法が使えるようになるというアイテムだ。
"el set sen netal kon varde ol lu vienem varde kon elfi e"
ヴァストリアには色々な種類のものがある。皆が戦闘用というわけではない。しかし今回の組み合わせは完全に戦闘向けだ。魔法の杖 ヴァルデに魔力を増幅するエルフィが揃えば無敵らしい。ともなればそれを横取りしようとする人間の狙いは「武力の行使」である可能性が高い。
だからアルシェさんたちは暗殺計画を聞いてもあまり驚かなかったようだ。にしてもそれを計画しているのがよりによって召喚省 長官のフェンゼルとはたちが悪い。
恐らくドゥルガさんはフェンゼルの計画に気付いたのだろう。それで渡さずに身を隠したのだ。
アルシェさんはアーディンのアンセとケータイを奪うと、フェンゼルに偽のメールを送った。「ヴァルデ確保。3人は射殺。こちらも 負傷したため、2人のアンセが故障した。これから帰還する。明日の朝にはヴァルデを届ける」という内容だった。
アルシェさんは男を立たせてヴァルデを持たせ、写真を取って画像を添付してメールを送った。すぐにフェンゼルから「了解。ご苦労」というメールが来た。
はぁとため息を付き、アンセを胸にしまうアルシェさん。これでしばらく時間が稼げる。
「それにしても、ドゥルガさんはここにいないみたいですね」
先ほど見た感じではこの家には誰もいないようだった。
3人の見張りをサラさんに頼むと、家の中を探した。だがやはり私たちのほかには誰もいなかった。
しかし居間に置かれたキンモクセイの枯れ具合から見て、彼は少なくとも去年の秋にはここにいたことが分かった。どうやらアリアの占いは正しかったようだ。
念のためヴァルデの先端の宝玉も探したが、見当たらなかった。机の引き出しや納戸まで細かく調べたが、それっぽい緑の球は出てこなかった。
ドゥルガさんは向学心がよほど強かったのか、ここにも蔵書や書類がたくさんあった。物が多いおかげで家捜しに数時間もかかってしまった。だが結局宝玉は見つからなかった。
「恐らく、ヴァルデの球はドゥルガさんが肌身離さず持っているんじゃないかしら」 228
レインは私の言葉に頷く。
「としたら、問題は彼が今どこにいるかよね。ほかに彼の行きそうなところは?」
"non ter siia la til altra ka alsia tan tisse. tet non en ser xaka tuul"
ほかにアルシアにも別荘があるらしい。そこかもしれないが、レインは場所を知らないのだそうだ。
「もしかしたらここに手がかりがあるかもしれないから探してみようよ」
私の提案でアルシアの別荘に関する情報を探すことになった。
またあの本の山を探すのかと思うとうんざりだが、ほかに手段がない。
だがその前にと言ってアルシェさんは台所から乾パンや水を持ってきた。
"im e dunex, tiis il. in, melk tur varzon"
そうか、もう晩ご飯の時間か。
基本的に缶詰の非常食だ。彼は皿やボウルに食事をよそり、全員に配った。アーディンは傷が痛むのか、あまり食欲がないようだった。
見ると、アルシェさんの分だけ妙に少ない。
"tuan et kalo alka in. tyu si kuina?"
"tee, tio, kulala tur kalo. luus vi til vix. yan tiis vi et lestir. son an bas di"
怪我人と女の子優先だそうだ。でも男の人のほうが大きいんだからたくさん食べないと。
"tet... tyu et kai nod lena. son tyu xir kulala di na"
すると彼は苦笑を返した。私は頬を膨らませてそっぽを向いた。
「もう、あんまりカッコ良すぎると、目の前の女の子が貴方のことを好きになっちゃうかもしれませんよ...... ?」
"m? ti kuk to?"
"tee, vers e"
食事が終わるとアリアに事の顛末を知らせることにした。見張りはサラさんにお願いした。
奥の部屋でアリアに電話をかける。レインが拡声モードにすると、アリアの声が聞こえてきた。
今日の出来事を報告する。銃を持った男に襲われたというくだりにはひどく驚いていた。229 無理もない。
彼女はこちらに怪我がないことを知って安心したようだった。
私は銃弾から身を守ってくれた緑の光について相談した。スカートに忍ばせた石が守ってくれたように思える。
するとそれはkover(魔封石)の一種だと教えてくれた。身を守る魔法が封じられていたのだという。
この時点で私はドゥルガさんが魔導師であることを信じたとともに、この世界に魔法が実在することを確信した。
アルシェさんは電話を代わってほしいと言ってきた。自分やハインさんの電話は盗聴されている恐れがあるとのことだ。警察を丸め込んでいるフェンゼルのことだから十分考えられる。
彼は事の顛末をハインさんに伝えるよう、アリアに伝言を頼んだ。アルシアの別荘を見つけ次第そちらに向かうことも含めておいた。
電話を切ると、3人で別荘に関する資料を探しはじめた。
レインは部屋を見渡し、本棚に眼を付ける。
そうか、隠れ家があるとしたら彼の日記やメモに何らかの記述があるかもしれない。
"passo, xom lena yui xiit"
私たちは手分けしてドゥルガさんの書いたものを調べた。
ドゥルガさんは読書家な上に筆まめだったようで、かなりたくさんのメモが出てきた。それをすべて読むのは大変だった。
できるだけ論述調のものは後回しにし、日記的なものを優先しようということになった。
アルバザード人は本来床に座り込まないが、そんなこと言っていられない状況なので、床に資料をばらまいて必死に探した。
12時を回っても私たちは寝なかった。明日の朝にはここを発たねばならない。どうにか今夜中に手がかりを見つけなければ。
"qp qp, tu et ak??"
レインが高い声を張り上げたとき、眠気で重くなっていた私の瞼がパチッと開いた。時計を見るともう2時を回っていた。 230
"lee, tu axlei imen non at tolis 7. see tu rens la taut 1 ra kaen alsia"
「どれどれ...... 。おぉ、ほんとだ。アルシアに家を買ったって書いてある!」
"yan raka tuul et... soa in"
レインは日記に書かれた住所を指す。アルシェさんがケータイの地図で確 認する。どうやらアルシア郊外のようだ。
ときにアルシアというのはアルバザード北西部の都市のことだ。その郊外にドゥルガさんは家を買ったという。しかしそれは娘のレインも知らない家だという。となるとここは別荘というより隠れ家なのではないか。
居間に戻るとサラさんはランプの弱い灯りの中、静かに座っていた。眼はアーディンたちをしっかり見据えている。少しも眠そうな様子はない。
すごい精神力だなぁ...... 。
当のアーディンたちは気楽なもので、すやすやと眠っていた。どうやら彼らの眠りを妨げないよう、部屋の電気を消してあげたようだ。
けっこう優しいところもあるんだな...... 。
彼らを起こさないよう静かに耳打ちすると、彼女は静かに頷いた。
その後は交代制で監視することにした。少しでも眠ったほうが良い。
私の番が回ってきた。
傷が痛むのか、たまにアーディンが唸る。見た目より傷が深かったのかもしれない。その声を聞くと胸が苦しくなる。
異世界が剣と魔法の世界であることを期待していたくせに、私にはどれだけの覚悟があったのだろう。
ただ勉強して訓練して、心のどこかでは来るはずもないと思っていた不安を掻き消すために精進して...... 。
ひたすらに意味もなく異世界を願った。何で願ったんだろう。何も目的なんてなかったくせに。
人よりちょっと頭が良くて可愛いから疎外されて迫害された。そんな子供時代を送った。お母さんたちは忙しくて、兄弟もいなかった。
本だけが友達で、空想ばかりしていた。こんな世の中は嫌だと思った。私を必要として231 くれる世界がほしかった。だから異世界を望んだ。自分のすべてをリセットしてくれる世界を。
だがいつまで待っても異世界には行けなかった。だから私は毎年毎年、誕生日を迎えるたびに悲しくて一人で泣いていた。
今考えるとすごく後ろ向きで逃避傾向が強かったと思う。
「私、ここに来て少しは変われたかな...... 」
前より笑うようにはなったと思う。それもこれもレインたちのおかげだ。
「メルティアが私を召喚したのはこの暗殺計画を食い止めるためだったのね...... 」
ふとアリアの妹さんを思い出す。
「なるほど、それで私のこと救世主って呼んだのか」
本場の占い師って凄いなぁ。
――なんて考えていたらどんどん眠くなっていって、いつの間にか眠りこんでしまった。
232 3 3
「まずっ、寝ちゃった!」
――跳ね起きると、サラさんが無言で監視を続けていた。
既に朝日が差し込んでおり、8時になっていた。
「すみ ......anpentant, dina anvantant, sara lua」
"ilpasso"
そっけなく答えるサラさん。
私は朝ごはんを作りにいった。といっても缶詰や乾パンしかないが。
食事を終えると、アーディンたちがトイレに行きたいと言った。昨日の夕飯の後に行かせたきりだった。一人ずつ縄を解き、アルシェさんが連れて行く。もし暴れられても取り押さえられるようにだ。
トイレに行かせると、アルシェさんは食料と水を彼らの前に置いた。遅くとも今日フェンゼルが私たちの動きに気付くので、今日中には救助が来るはずだ。1日分食料があれば足りる。
私はアーディンの前に座ると、「ごめんなさいね」と言った。彼女はうつむいたまま黙っていた。
家を出ると急に爽やかな潮風が吹いた。
そうか、ここは海辺の別荘だったっけ。
本来なら海を見てゆったりしたいところだが、そう言ってもいられない。
"hei sara, ti luna das ok ans"
"qm... ema kolt fan kokko kern e. tab lan xe on fenzel"
"hqm... xiyu"
サラさんは別行動を取るようだ。フェンゼルについて調べたいことがあるらしい。
置いておいた自転車に乗る。アーディンたちの車も置いてあるが、駅まではわざわざ車を奪うほどの距離でもない。
ほんの一漕ぎで駅に着く。アンセの履歴はフェンゼルに盗み見されているだろうから、233 現金で特急のチケットを購入する。席が空いていて助かった。
私たちはアンセの電源を切ることにした。GPSで居場所を突き止められる恐れがある。
昨日はほとんど眠れなかったので、私たちは電車の中で泥のように眠った。
途中で目が醒めると、いつの間にか上着が毛布代わりにかけられていた。アルシェさんだ。
どこまでも優しいなぁ...... 。あ、この上着、アルシェさんの匂いがする。えへ...... 。
――と思った瞬間、背筋がぞくぞくっとした。
うっわ、今あんた何て言ったよ、初月紫苑! 「えへ」とか言っちゃった? それ言っていいのは幼女とレインと二次元だけだって法律知ってる?
激しい自己嫌悪に苛まれながらも、上着の匂いをこそこそ嗅いではやっぱり「えへ」とか言ってみた。
アルシア市に着いたときは既に夕方になっていた。特急を使ったわりにはずいぶん時間がかかってしまった。脚と腰が長時間の乗車で悲鳴を上げている。アルバザードは思ったより広い国だ。
駅を出る。
ここから隠れ家まではかなりの距離がある。レインの話だと車でも30分はかかるという。
歩くとなるとどれくらいかかるのだろう。車で郊外を時速60kmで走ったとして、30kmくらいか。歩いていくには厳しい。時速5kmで歩いたとしても6時間はかかる。
まいったな...... 徒歩じゃとても無理だわ。
私が頭を抱えていると、ちょうど日本でいう高校生くらいの少女が3人通りかかった。そして一時的に自転車を道に停め、駅近くの売店に入っていった。
"mm..."
これは使えそうだという顔のアルシェさん。
レインは困った顔で彼の袖をくいくいと引っ張る。
"wein, arxe"
"tal tu et vilfonl"
"senfonl!" 234
思わず私はぷっと笑ってしまった。
間髪いれず、じろっと見てくるレイン。
...... ごめん。
"an en nalx xion tet ti man ti et fim, yunk"
レインはうっと唸って黙った。言い返せないようだ。
アルシェさんは慣れた手つきで自転車のカギを壊した。データ上はまだ今の女の子たちが自転車を使っていることになっている。私たちが盗んでも彼女たちが借りたというところまでしか国は把握できない。
"lala es tyu ser rigom e yame... leim, yame em rig ol el rig kuki. tal... es tu te rig?"
"an lo ti asm fonl tuube, lein. ya, ketta!"
私たちは自転車に跨ると、文字通り逃げ去っていった。
アルシアの街中 を抜けると急に田舎 になった。ただ郊外に住む人もいるので、かろうじてまだ道が舗装されている。
アルシアは森と泉の地方だ。歴史的に有名な場所で、錬金術や魔法が栄えたところでもある。
流石に今では森は切り開かれ、道ができている。自転車がパンクせずに通れる道だ。レインの案内に従ってひたすら休みなく自転車を漕ぐ。
レインの体力を見ながらペースを変えつつ進んでいった。生きるということは大変なことだと改めて実感した。
林道に入ると日が暮れてきた。街灯がないので夜になったら終わりだ。急がねば。
昼に雨が降っていたのだろうか、舗装の途切れた地面はいまだに湿っていた。
まずい、これ以上無理に進めば転倒して怪我をするかもしれない。そうしたらかえって時間がかかる。かといってこんな林の中で野宿などできようか。
隠れ家はもう10分ほどだと言う。ついに日が暮れたので、自転車から降りて歩くことにした。
カラカラと車輪の音が響く。木々のざわめきが不気味に聞こえる。道なりに進んでいるので辛うじて迷わないですんでいるが、ここで迷えば終わりだ。なにせアンセが使えない。
降りてしばらく歩くと、ようやく隠れ家に着いた。 235
「どうやら迷わずに来れたようね」
カテ ージュの別荘から持ってきたライトを持って近寄る。
そこは小さなコテージだった。入り口には当然鍵がかかっている。今はアンセを使えない。だがここは小さなコテージなので、アンセによる認証キーを採用していない。ふつうの物理的な鍵だ。
窓の中を覗くが、灯りはついていない。誰もいないようだ。ドゥルガさんはここでもないというのか...... ?
胸が不安でざわついたとき、後ろのほうから強い光を当てられた。
驚いて振り向くと、そこにはランプを持った一人の男性が立っていた。
だが驚いたのはむしろ彼のほうだったようだ。
"lein?"
彼はレインを見ると、わなわなと震えだした。
"papa!"
彼が視界に入るや否や、レインは飛びかかるように抱きついた。
それは以前写真で見せてもらったドゥルガさんだった。渋い中年男性で、レインの親だけあってイケメンだ。品も良さそうだ。もっとも、潜伏生活のせいでヒゲもじゃだが。
「やった ...... ようやく会えた」
私は安堵のため息をついた。
"papaaaa!"
レイン は緊張の糸が切れたのか、真っ赤になって大声で泣き喚いた。
よかったね、レイン。
ふとウチのお父さんのことを思い出した。ウチのお父さんは背が高くてカッコよくて、とても紳士的で優しい。理想的なお父さんだが、お母さんにべったりで、娘の私のことはあまり構ってくれない人だ。
だから私はいつも寂しい思いをしていて、今もレインがちょっと羨ましく思えた。お父さんは今頃心配しているだろうか。もうずいぶん会っていない。そもそも私は地球に帰れるのだろうか。
"anfiima, dyussou" 236
"arxe?? ala es... kaat luumi mana et..."
困惑した表情のドゥルガさん。無理もない。
私はお行儀よくスカートをくいっと持ち上げて挨拶をした。
"hadhacma, dyussou duurga. non et xion hazki le lunat it altfia lana vano miva tuan"
"...xante?"
あまりの言葉にドゥルガさんはポカーンとした表情を返しただけだった。
お、 流石 親子。ポカーンの顔がレインによく似てる。
"papa, lu rensik rulen e. see lu et semaim noan. non rans fan il i tur"
"ya, son a pot"
ドゥルガさんは鍵を開けると、私たちを家の中に招いた。ちょうど彼も今帰ってきたところだったようだ。
中は映画に出てくるような山小屋といった感じだった。暖炉があり、テーブルがあり、木の椅子があり――といった感じだ。調度品はなく、家具が最低限あるのみだ。
ドゥルガさんはおなかがすいたろうと言って夕食を用意してくれた。本当におなかがすいていたので、私たちは勢いよく食べた。ドゥルガさんはそれを見て苦笑いをしていた。
そりゃそうよね、若い乙女がガツガツとみっともない。でも、おなかすいたんだもん。
おなかが落ち着くと、レインはこれまでの経緯を説明した。
ネブラに襲われたこと、私に助けられたこと、ネブラを捕まえてヴァルデについて知ったこと、アリアに相談してカテージュに行ったこと、そこでフェンゼルの部下に襲われたこと。捕えたアーディンたちからアルテナ暗殺計画を聞いたことも告げた。
ドゥルガさんはレインの話を聞くと、ううむと唸った。彼はアルシェさんにチラと目配せをする。
するとアルシェさんは私のほうに身体を傾け、二人きりにしてあげようと耳元で囁いた。二人きりという言葉に少しドキッとする。その言葉はレインたちのためのものなのに。
挨拶も食事も済んだことだし、私とアルシェさんは気を利かせて奥の小部屋へ引っ込んだ。
小部屋は寒く、思わず震えた。ストーブをつけて点火を待つ。
あぁ、一瞬で点くストーブがあればノーベル紫苑賞をあげるのに。 237
「よかったですね、レインのお父さん見つかって」
"mm? an loki sen ti en merel. diin, atta on lein a"
窓の外は雨が降っていた。
「よかった、早めに着いて。いま外にいたら風邪引いてましたね」
やがてストーブが点く。
部屋が暖かくなるにつれ、雨を愉しむ心の余裕ができてきた。
今月はクリスの月。一番寒い季節だ。「クリスの雨」は一年で一番冷たい雨を指す。これがまさにそうだ。しかしそんな雨でも屋内からだと雅に映る。
雨は不思議だ。心が洗われる。
そして少しだけ感傷的な気持ちになる。
アルシェさんをチラっと見る。彼は何かを考えているような表情でストーブの炎を見つめていた。赤い光に照らされる彼の顔はランスケルンで見た絵画のように美しかった。
いつも紳士的で優しくてカッコいい。ネブラからも守ってくれた。穏やかで親切で武術も勉強もできる。
誰もが憧れる人なんてつまらない。ひねくれ者の私はクラスの人気者になんか興味がなかった。本当はアルシェさんもそんなつまらない人。そんな人、私の目には入らない。
なのになぜだろう。最近私は気が付くと彼を目で追っている。今だって二人きりになれるって内心喜んだ。知っている、レインのことも忘れて喜んだ自分がいたことを。
顔が火照る。
こういう気持ちは初めてだ。ここのところ感じていたもやもやの原因はこれだったのか。どうやらこの感情が噂に聞く例のアレらしい。
しかし彼に想いを寄せるのは私だけなのだろうか。
例えばレイン...... 。彼女はアルシェさんのことをどう思っているのだろうか。これまで探りを入れた限り、彼女に彼氏がいたことはない。
想い人でも待っているのかとからかい半分で聞いたところ、今のところいないと答えていた。その回答を素直に受け取っていいのだろうか。
アリアはどうだろう。いや...... 彼女は大丈夫だ。なぜなら可愛い女の子にしか興味がないから。
サラさんはよく分からないが、私の見た感じでは戦友だ。 238
頭の中で一人ずつ女の子を消していった。こういうことをするからモテないんだろうなとはよく分かっているのだが、モテないからこそフラれるのが怖くて小細工をするんだい。
聞こえないよう静かに深呼吸をした。
聞こう。
"qm... arxe. tu et asm zal tet... tyu lo to on lein e?"
彼はレインのことをどう思っているのだろう。
"saa, la et limel ank tisee"
ただの妹か...... 。じゃあアリアは?
"xom on alia?"
"la tan et soa e"
"limel o limel... xom on sara san?"
じゃあ ...... サラさんは。
"la et hacna alka a"
やはり最高の相棒か。
"soa e..."
それきり私は黙りこむ。
レイン、アリア、サラさんと立て続けに聞いた。残るは一人しかいない。子供だって分かるだろう、そんなこと。
なんで私がこんな質問をしたのかなんて小学生でも分かる。なのにアルシェさんは黙って火に手をかざしている。
これって間接的にダメということなのだろうか。
もしかして既に彼女がいるのかも...... 。
"see, see, see..."
「せーせー」言っても全然せいせいしない。
"tyu et passo,? on lunas beke. alfi... tian tuan nalx elf tyu?"
彼女がいるか確かめる最も卑怯な手口その一、「おためごかしの術」でござい。
"tian? kaat an si tian e"
どきんとした。 239
いない ...... いない。うん、いない。吉報でござる。――じゃなくて。真面目にやれ、私。
いや、分かっている。真面目にやったら気まずさで死んでしまうのだ。今の私はウスバカゲロウ以下の生命力なのだ。
"xom... tyu lo on..."
背中に汗をかきながら私はゆっくりと単語を吐く。
彼は真剣な顔つきで炎を見続けている。
"tyu lo... on... on..."
もしこれを聞いたらその先には何が待っているのだろう。
Noなら私はこの後どう彼と接すればいいのか。
Yesでも同じだ。私みたいなしょうもない女にそんな夢みたいなことが起こるなんて到底考えられないし、そもそもどう接すればいいのか分からない。
もしかしたら今の友達関係が一番なんじゃないか?
"on... on..."
でも ...... 。
でも ...... 。じゃあこの気持ちはどうする。
一度点いた火をどう消す。
どんな自己満足だっていい。今はこの気持ちをどうにかしたいのだ。
でも ...... 怖い。
「おん ...... おん ...... 。...... あのね」
"mm?"
「どうしても言い出せない理由、なんとなく分かるんです。
私、子供のころからずっと異世界に行きたかったから。
そこで王子様に会って恋に落ちるって思ってたんです。
もう絶対運命的に恋に落ちるって決めつけてたんです。恋は義務だったの。
だからね...... だから ...... 分からないの。ここのところ抱いているこの気持ちが本物なのか、子供のころの決めつけによる錯覚なのか」
アルシェさんは黙って聞いていた。アルカで言えないことを言っているのだという私の気持ちは十分に伝わっているようだった。
「でも ...... 錯覚であってほしくないの。 240
こんな素敵な気持ちが幻だなんて思いたくないよ...... 」
言うだけ言うと私は泣き出してしまった。
アルシェさんは私の頭をぽんぽんと撫でてくれた。
"xion, ti lax sokta ant?"
"...ya"
"tal an lokik vei tis. son ren vat kalt an loki sen em kliz tur merel"
"ya... m?"
...... ん?
「今のスピーチが分かるようになるまで待ってくれ」ってどういう...... 。
するとアルシェさんはくすくすと笑った。
"mon an loki vil ti im tur. tal xiel an loki sen em ti xi fel nihongo ati vein e"
そう言って彼はアンセをつんつんと指さした。
「んなっ!!」
ま、まさか今の私の発言、アンセで録音しちゃったの!? 後で勉強して何て言ったか分かるように! なんという向学心!!
とたんに体中からどっと汗が吹き出る。冬なのに夏。一人フィーバー状態。
「うきゃーっ! けっ、けけけ消して消してぇぇぇ!」
顔から火が出るくらい真っ赤になってアルシェさんに飛びかかった。
"nanan. tu et fie a. hel? ans yol vil anse im tur e?"
「くっっっ!」
そうだった。今はアンセはオフにしてるんだった。
つまり録音なんて嘘。
か...... からかってぇぇぇ!
「アルシェさぁん!?」
キーッとなって追いかけまわす私。
彼は楽しそうに笑って狭い部屋の中を逃げまわった。
「もーっ! 意外と性格悪いじゃないですかっ! 私と良いカップルになれますよ、きっ241 と!!」
"hqr? tyu kuk to e?"
「だ・か・ら! 良い恋人になれそうねって言ってるんですよ、ごくごく色っぽくかつ艶っぽくね! えぇえぇ、そうです、そうですよ。好きなんですってよ、どっかの地球人があなたのこと!」
毛布に足をひっかけて、すてーんと転びそうになる。その瞬間、アルシェさんが私の背中をぐっと抱き寄せる。男の人ってこんなに力が強いんだって驚いた。
顔が近付く。
もうこれ以上赤の成分を増やせないのに、紅潮が限界値を突破する。
「はは ...... 」
アルシェさんは悪戯好きの子供のように笑い出した。これが彼の本当の顔なのだろう。
そしてしれっと言った。
「うん。俺、意外と性格悪いよ?」
「――――っ!!??」
一瞬、何が何だか分からなかった。
だが次の瞬間、私の脳裏にあるキーワードが浮かんだ。
アルナ大卒、元レンス・リーファ、言語学専攻。
ここからもっと早く気付くべきだった。
「あわ ...... あぅ」
まごつく私。何のことはない。要点はすべて伝わっていたのだ。
彼は真面目な顔で私の目を見つめると、静かに続けた。
「それでもよかったら」
そう言って彼は私の手の甲に軽くキスをした。
その瞬間、私は悲喜こもごもすぎて卒倒した。
お願いします。誰か私をこのまま永眠させてください...... 。
居間に戻るとレインはドゥルガさんと談笑していた。「ずいぶん騒がしかったね?」というようなことを言われた。
いやぁ、私の頭の中のお祭り騒ぎに比べれば静かなものでしたよ。 242
真っ赤な顔のまま、私は席についた。アルシェさんが横に座る。先程までよりなんとなく距離が近い気がする。実際前より近くに椅子を置いてくれている気がする。でも、けっしてべったりではない。なんという絶妙な距離感。良いボクサーになれそうだ。
"an taf van er"
予想外の大所帯で水が足りないようで、ドゥルガさんは合羽を着ると、ライトと桶を持って外に出て行った。
その後レインはドゥルガさんのこれまでをまとめてくれた。
去年の秋にフェンゼルからヴァストリア捜索が命じられた。
捜索対象はヴァルデとエルフィ。そのうちヴァルデをカテージュで発見。
アルナへ帰還し、フェンゼルに杖を渡そうと長官室へ赴いた。ところがそこでフェンゼルとその同志がアルテナ暗殺計画を企てているのを耳にしてしまう。
これではヴァルデは渡せない。かといって暗殺計画は盗み聞きしただけなので証拠がない。よって通報しても信じてもらえない。かえってフェンゼルに自分が暗殺されるだけだ。そこで逆にヴァルデを使って反逆者フェンゼルを暗殺しようと彼は考えた。
ところがフェンゼルは高位の魔導師で、いくらヴァルデがあってもドゥルガさんの魔力では太刀打ちできる相手ではない。しかしエルフィがあれば対抗できる。
そこで彼はエルフィを探すことにした。
フェンゼルが警察などの公的機関に間者を忍ばせていることは知っている。ならいっそ自分は 死んだことにして戸籍を洗ったほうが動きやすい。
信じこませるには家族とて騙し通す必要がある。レインには言えなかった。下手にレインからバレると彼女の身まで危なくなるからだ。
アンセでは使用履歴が残ってしまう。そこで彼は家にあった現金を集め、カレンへ飛んだ。消えた100万円の謎がようやく解決した。
彼はアンセなど所持品の一部を海に捨て、事故死を装った 。打ち上げられる時期や場所も折り込み済みだ。
その後エルフィを探していたドゥルガさんだったが、今年になってようやくアルシアで見つけることができた。いま目の前の机に置いてある。 243
エルフィは一見ただの少女趣味な髪飾りだ。初日に私がネブラと戦ったとき、髪が邪魔で結った。あのときの髪飾りがエルフィのレプリカだ。おかげで目の前のものがすぐエルフィだと分かる。
リディアの持ち物だからこの形をしてるんでしょうけど、ドゥルガさんがこれ着けてフェンゼルと戦う絵面はシュールよねぇ。
想像したら「くっ...... !」と笑ってしまう。慌てて口を押さえる。二人も同じことを考えていたのか、私が笑うのを堪えたのが辛抱たまらなかったらしく、「ぷっ」と吹き出した。
ドゥルガさんが水を汲んで戻ってきた。
"hei, tiis na ban in a"
えぇ、あなたをネタに。
「お茶淹れますね。non lad fan etek anne」
桶を持って小さな台所へ向かう。紅茶を淹れながら考えた。
エルフィを見つけたドゥルガさんだったが、ここで新たな問題が 浮上した。
実験の結果、彼には2つのヴァストリアを同時に使うだけのキャパシティがないことが判明したのだ。いくらエルフィで魔力 を強化するといっても、本人の大元の魔力が少なければブーストしようがないということだ。
となると自分より魔力の強い人間に任せるか、訓練して魔力のキャパシティを上げるかしかない。
かといって誰がフェンゼルの同志か分からない。例えばハインさんはドゥルガさんより強い魔導師だが、彼がフェンゼル側の人間かどうか分からないので相談できない。
従って自動で後者となる。そこでドゥルガさんはこの小屋にこもって魔法の力を鍛えていたという。
紅茶を抽出すると、トレイにカップを載せて運ぶ。
"sent, xion"
アルシェさんが微笑む。私は恥ずかしくなって目をそらしてしまった。
さっきのセリフ...... 「それでもよかったら」って......OKってことでいいのかな。
こっちの気も知らず、彼はドゥルガさんと話し込んでいる。 244
アルシェさんが来たのはドゥルガさんにとって吉報だった。ハインさんがフェンゼル側の人間でないことが確認できたからだ。
これでハインさんにヴァストリアを託すという選択肢が生まれる。
ちなみにアルシェさんは残念ながら魔法の力を遺伝しなかったそうだ。運が悪かったと言っていた。
今はアンセが使えないので明日アルナに帰って直接ハインさんに会おうということになった。
私はアルシェさんの袖をくいくいと引っ張り、悪戯っぽく囁いた。
「ハインさんがエルフィ着けたらきっと美少女よ」
彼は一瞬ピクっと頬を緩めたが、"hqm?"とだけ返した。なお、私は今エルフィのレプリカで髪を結っているが、ドゥルガさんが持っているより目眩ましになるだろうということで、 これからは本物で髪を結うことにした。
それにしてもアルシェさんはいつの間に日本語を習得したのだろう。レインに作ってあげた単語帳を使っただろうことは明白だけど...... 。
ドゥルガさんはポケットから緑の球を出すと、ヴァルデの棒に嵌める。やはり彼は宝玉をすり替えていたようだ。
「これで本当にヴァストリアが揃いましたね...... 」
誰ともなく呟く私に皆は頷いた。
"qm... dyussou, non asm lan xe"
ふと私は気になっていたことを聞いた。
"tyu et artan kaks?"
彼が魔導師というのは本当なのかと。
するとドゥルガさんは渋い微笑みを返してきた。
"ya, fin an nektates tu i miva as"
"qm... xink, fia noan si art o mirok ento non in lan art ras 1"
"xion liiz, el yol xin art lana sins nos et artan kaks tisee. tal tu et aal man ti et altfian, fok vanot miva ant siina"
彼は私に指先を向けると、小さな声で"lute"と言った。 245
その瞬間、足元がふわっとする感じになって、椅子に座っていた私が浮き上がった。
「え――?」
足を動かしてみる。
...... 床につかない。
「私 ...... 浮いてる!?」
突如、全身が総毛立った。
ぞわーっとする感動が足の先から頭のてっぺんまで走る。
「ま ...... 魔法だ! 本当にあったんだ! 凄い ...... 凄いです!」
ところが驚いたのは私だけではない。
レインも興奮で顔を赤くさせると、"papa! a non tan, a non tan!!"と言ってぴょんぴょん跳ねた。うさぎレイン。
ドゥルガさんに魔法をかけてもらうと、レインは床から数10cmのところでぷかぷか浮いた。どうやらドゥルガさんが魔法を使ったのを初めて見たらしい。
「ほわぁ〜! ほわぁ〜!」
うさぎ発狂。
"saa lein, ti xal ibet in a"
喜ぶレインを見てドゥルガさんは苦笑していた。
11時を回った。
私とレインはベッドのある奥の小部屋で、アルシェさんとドゥルガさんは居間で寝ることになった。男性陣は毛布に包まって床で寝るそうだ。なんだか申し訳ない。
「レイン、お父さん見つかってよかったね」
私たちは寄り添うようにして寝転んだ。
「うん。しおん、ありがとう」
「私、何もしてないよ」
くすくす笑いながら、ベッドの中で彼女の頭を撫でた。
ところが彼女は今まで張り詰めていた糸が切れてしまったのか、突然泣きじゃくってしまっ た。父親が見つかって安心したんだろうな。
"xion, non meaktat papa kolset tyu. tyu lut vano non siina. tyu et ermes noan e" 246
「レイン ...... あぁもう、なんて可愛いの」
私はレインが愛おしくなって抱きしめた。
自転車で走って汗をかいただろうに、太陽とミルクの混じった甘い香りがする。
"non laap tyu, lein"
247 3 4
この時期の早朝4時はまだ完全に真っ暗で、光ひとつ差さない。
まだ一向に目覚めることのない暗い森に、突如不穏なエンジン音が響き渡った。
「ん ...... 」
不可解な音に目を覚ました私は徐々に近付いてくる明かりを窓の外に感じた。
「この音 ...... 車?」
ハッとする。
まずい、フェンゼルの部下だ!
「レイン、起きてレイン!」
肩を揺すって彼女を起こす。それから跳ね起きて居間へ駆け込んだ。
"res e fenzel lunar atu e!"
悲鳴にも近い私の声に男性陣は叩き起される。
エンジン音はどんどん近付いてくる。
「くっ、何か武器を!」
台所に走ると包丁を取る。アーディンたちの銃を奪っておけばよかったと後悔する。
ところがアルシェさんが"ilpasso, ren ev tu"と言って私を制す。
「え、なんで...... 」と呟いた瞬間、私にも事情が理解できた。
小屋の目の前まで近付いてきたおかげでエンジン音がよく聞き取れた。これは車ではない。大型バイクの音だ。
私は入り口に駆け寄ると、バンとドアを開けた。
「サラさんっ!」
寒風が金切り声を上げて室内に入り込む。思わず身じろぎしてしまう。
外はまだ冷たい雨が降っていた。バイクのライトが彼女を照らす。
ドゥドゥドゥと地響きのような音を立てるバイクとヘルメットを脱いだサラさんの唇からともに白い気体が立ち込めている。
"atta, klans xal atu. sakat dyussou duurga?"
"ya! mir lat a pot!"
バイクを止めてレインコートを脱ぐと、彼女は中に入った。 248
私はさっそく紅茶を淹れ にいった。さぞや体が冷えていることだろう。生姜があればなお暖まるのだが、残念ながらストックがない。
紅茶を持って行く。もうドゥルガさんには挨拶を済ませたようだ。
彼女は私を待ってくれていた。私にも話を直接聞かせたいようだ。
いつになく彼女の表情が険しい。何かあったのだろうか ...... 。
"tuube..."
テーブルの上に一枚の電子ペーパーを広げる。新聞だ。日付からして昨日の夕刊だ。
最近私は新聞でアルカの勉強をしているので見慣れている。構成は地球のものとそう変わらない。当然のことながらヘッドラインに目が行くようになっている。
強調された見出しに目を通すと、私はネイティブの皆より一歩遅れて目を丸くした。
「...... は?」
ヘッドラインはこう謳っていた。
「召喚省ハイン=アルテームス氏、ディミトリア社からの闇献金容疑で逮捕へ」
「そんなっ!」
思わずガタっと席を立ち上がる。
ディミトリア社っつたらアリアん家のことじゃないのよ!
横目でアルシェさんを見る。だが私から表情が見えないよう顔を隠している。
読めない...... 。まさか本当に癒着してたなんてことないよね?
――って、私が信じてあげないでどうするのよ! こんなの明らかにフェンゼルの仕込みじゃないの。
まして私は直接ハインさんと会っている。そんなことをするような人には全然見えなかった。
私は立ち上がってぎゅっとアルシェさんの肩を抱いた。レインとサラさんがちょっと意外そうな顔を向けてくる。
「大丈夫。ilpasso e. tuube et kepl tis. これはフェンゼルの罠に決まってます」
彼は無言で私の手を握る。ぎゅっと。力強く。...... 痛いくらいに。
249
ドゥルガさんは困ったと溜息を吐いた。
"tiis vastat res e fenzel ka kateej kok? alfi fenzel serat arxe et kola ant. tu eks hain tan sil kola ant"
ハインさんがこちら側だということはもうフェンゼルにバレている。
"alson leebe fenzel emi solsat nain fos la. hqn, laabe xaklat ano ant na. taik pornat ano antes in"
フェンゼルはドゥルガさんの潜伏計画に気付いたのだろう。ドゥルガさんが潜伏を続けているということはエルフィがまだ見つかっていないか、あるいはドゥルガさんには使いこなせなかったかだ。
前者なら良いが、後者ならまずい。ハインさんのような強力な魔導師にヴァストリアを渡されると困る。そこでフェンゼルは先手を打ったというわけだ。
見えない敵のくせにここまで私たちを翻弄するとはね...... 。さて、どうしたものか。
"kaat..."
最初に声を上げたのはレインだった。
"xe yol sen vastria sein tix dyussou hain?"
"ser veilan. tal en ser wel et kola e fenzel"とドゥルガさんは首を振る。
"axma. xom len lena sef fal tutu a dyussou hain"
「ハインさんに渡すしかないのは分かるけど、逮捕されちゃったのよ?」
そのときレインがふと何かに気付いたように口を開く。
"sara etta, tyu tab sen om dyussou pio yu a vita?"
サラさんはピンと来た顔をした。私は一歩遅れてレインの言葉を理解した。
そうか。逮捕されたってことは今彼は留置場。そこから検察に引き渡され、拘置所に入る。地球では即拘置所の国もあるが、ここは日本等と同じくまず留置所を経るらしい。
"xalet tab sen e"
"xom tu et kilm im dyussou luul yu i yukka a yukaska"
私たちは感心して頷いた。
そうだ、留置場から拘置所へ移送されるときを狙えばいいんだ。そこで車を止めてハインさんを奪う。そして彼にヴァストリアを渡して召喚省へ行き、フェンゼルを倒すという筋書きだ。
「さっすがアルナ大レンス・リーファ!」 250
アリアがやるようにレインの髪をくしゃくしゃにして撫でた。彼女は苦笑いして髪を直した。
やはりヴァルデを渡す相手はハインさんしかいないということで落ち着いた。
厳密にいえばアルテナさんにヴァルデを渡しても良いのだが、今会おうとすれば確実にフェンゼルの妨害に遭う。首尾よく会えたとしてもフェンゼルの計画を証明する手立てがない。
結局レインの案で行くしかないということになる。それにしたってチャンスは一瞬。巧く行けばいいが...... 。
サラさんも交えて朝食を食べ、家に鍵をかけて出た。
"sara etta, tyu kor elf kokko lena?"
レインが寂しそうな顔をする。しかしサラさんは相変わらずそっけない態度で返す。
"polte ar ax ano yustil. ema lad fan noxe alt vesel. tab fan sano onen freinoa e"
"ya... ret. tet... namt. al alva..."
彼女はそれ以上レインに言葉を返さず、アルシェさんに目配せで何か合図した。彼はコクリと頷く。どうやらこの義兄弟はこれだけで意思疎通ができるらしい。
轟音を立ててサラさんは飛び去っていった。
一瞬で見えなくなっちゃった。何キロ出してるんだろ。いや、この世界の長さの 単位はメルフィだから、時速 何キロじゃおかしいか。
私たちは盗んだ自転車に乗ろうとしたが、ドゥルガさんに制止 される 。
"ke xiit kon amo"
"amo? tyu til amo anmian,? dyussou"
"lana ke alsia i kateej, an eftat amo"
車があると思ったら盗品ですか、そうですか。
"eft?"
レインが眉をひそめる。
"tu at saia, lein. an yolat vil anse. ne tau sen amo kon fou sen solt tis teal?"
ドゥ ルガさんは娘の背中をぽんぽんと撫でると、倉庫の扉を開けた。 251
そこはガレージになっており、中には車が入っていた。
あぁ、助かった。また自転車で市内に戻るのは体力を消耗する。
ところが車に乗り込んだ後もレインは白い眼を父に向けていた。横に座っている私でさえ、「えふたーん」、「えふた〜ん」という無言の圧力を感じる。
"weei miva, te in an gaatol"
"tee on en tu. tu et saia xel tyu eftat tu. tet... lala es tyu ser rigom e kuki?"
"ahah, an nekt van tuube kont soks artea"
"puppu!"
ふだん極秘任務を担当しているだけあって色々な抜け道を知っているようだ。
まぁ、それが今回のような緊急事態に役立っているのだから、一方的に悪いとも決め付けられないだろう。
途中昼食で一休みすることになり、田舎町で降りた。アルナはまだしばらくかかる。
レインが手の平を上にして雨だという。フランスっぽい風土のわりに、フランス人と違って雨の確認は手の甲でなく手の平でするようだ。
アルバザードはフランスより雨が多い。昨日の夜も降っていた。といっても日本のような大降りではなく、しとしと降るのが特徴だ。
日本の冷たい強い雨だと顔に雨粒が当たって痛いくらいだが、この雨は生ぬるい霧のような ものだった。
昼食を済ませると、今度はアルシェさんが運転を交代する。いずれにせよ私たち女の子は後ろでぼーっと座っているだけだ。
アルバザードの女の子はあまり免許を取らないらしい。そもそも家事以外は基本的に男の人に丸投げだそうだ。
この国にいて思ったが、アルバザードはわりと女に甘い。その代わり女はかなり男を立てているように見える。お互い尊重しあうので仲が良いようだ。
アルナに着いたのは昼過ぎだった。
中央アルナのティクノ通りに車を乗り捨てる。
これからどこへ行くのだろうか。私は徒歩でドゥルガさんに付いていく。コートの襟や帽子などでできるだけ顔を隠しながら歩いた。 252
フェンゼルがハインさんを陥れたということは、警察に介入する権力を持っているということだ。
ただ向こうもアルテナさんに計画を勘づかれぬよう、好機が来るまではできるだけ水面下で動きたい。だから表立って私たちに適当な容疑をかけて指名手配するといったことはできない。ハインさんに続いて私たちもというのはかなりヤラセ臭いからだ。
恐らくフェンゼルは自分の部下に私たちを探させているはずだ。中央アルナは地元だから監視が厳しいはず。それで顔を隠して歩いているわけだ。
ドゥルガさんは"ketta, tu font"と言ってフェンゼル通りまで案内した。長官のフェンゼルと同じ名前だ。憎たらしい。
フェンゼル通りは西区の中でも北区寄りの場所だ。高層ビルが立ち並んでいる。初めてこちら側に来た。
彼は一棟の高層ビルに歩み寄る。どうやらそこはマンションのようだ。
"papa, tyu til iton atu?"
彼はレインを無視して中に入る。
入り口には自動ドアがあるが、認証がないと中にさえ入れない。今はアンセを使えないので、ドゥルガさんは旧式の方法を利用した。すなわち鍵だ。鍵を差し込んで捻ると自動ドアがスーッと開いた。
どうしてドゥルガさんがここのマンションの鍵を持っているのだろう。
私が不安げな表情を見せたからだろうか、アルシェさんが優しく背中をさすってくれた。そしたら不思議なことにすーっと不安感が消えていった。なんて安上がりな女だろう、私って。
そのままドゥルガさんに案内され、中に入る。
エレベータを使って上へ上がる。7階で降り、とある一室に案内される。
どうやらここも彼の隠れ家のようだ。いや、いまやアジトというべきか。
しかしなぜ市内に別宅を持っているのだろう。
密かにレインの顔を見る。彼女は何かを考えているようで、複雑な表情をしていた。
私が思うに、男の人が別宅を構えるということは...... つまり、そういうことだよな。
「あの ...... さ」 253
"m?"
「その ...... 再婚の話とか、聞いてた?」
「...... そういうこと ちがう おもう です」
レインはあっさり否定した。
だが部屋は2LDKで、明らかに一人で住む場所ではない。かといって女物の品物は置いてないので、レインの言うことももっともかもしれない。
「それに ...... あたらしい まま ほしい ないです」
「そっか。それはそれで辛いもんね」
「れいんは ぱぱだけ ほしい」
「そう ...... 」
人の家のことだ。これ以上は詮索すまい。
"tiis xookor to,? lein"
くるっと振り向くドゥルガさん。レインは頬を染め、首をぷるぷると振った。
"yuu aalel. hai tyu kilx elf bix? non so fan xant nonno?"
"ala ne bette as sols miva kai so gaato a"
私とレインは洗面所で手や顔を洗い、ドライヤーで髪を整えてから戻った。
「あの、ここは何の家なんですか。表札も全然違う名前でしたよね。tu ra et lana to?」
"tio yunerdoaserg tisee. pin an ail yol atu lex asra e fas"
不動産投資か。なるほど。名前がドゥルガさんのものでなかったから、いくつか名前を使い分けてるんだろうな。それでも転売できるのか。きっと抜け道があるんだろうな。
ともあれおかげで拠点ができた。レインの家は見張られていて既にダメだろうから。
しばらくするとピンポンとベルが鳴った。インターホンの映像を見ると、サラさんだった。この場所を教えてあったようだ。
少ししてサラさんが入ってくる。
"tex rat e, klans il o dyussou. freinoa pio yu kit i yukka"
"xelf a, fin tu et map"ヒゲをいじるドゥルガさん。剃らないのだろうか...... 。
"son ans leev xiit atu"
"tee, arxe. polte et xina in, mil amo le til freinoa rak sil le font" 254
言いながら、彼女は窓に近寄る。そして眼下の道路を指差す。
ここをハインさんを乗せた車が通るというのか?
"sara, in sen tu amo it atu?"
"ati leiz"
すると、黙って聞いていたレインが横から口を挟む。
"xom lena mat ax lan a vei noxe na, ova 3 noxe. slea et duurga l'ar fino kor jan ka zok im sak tu amo. bcea et arxe, xion, lein le vand amo lana petif hain. see trea et sara le vano bcea minxel... nonno?"
彼女の頭は本当に整然としている。そして回転も速い。人がしばらく考えて辿り着くことに何歩も早く到達する。
ドゥルガさんたちは"xam ti, lein"と言って頷いた。
「いいわ、それでいきましょう。ドゥルガさんは車が来るのを見張って私たちに連絡。私たちは合図が来たら車を襲ってハインさんを奪還。サラさんには背後で私たちのフォローを」
作戦は決まった。
サラさんの話では車が来るまでにあと30分もないという。私たちは各自仕度をした。
アルシェさんはヴァルデを持ちながらドゥルガさんと何か話していた。これからの計画のことを話しているのだろう。2人とも表情が頑なで、しかも若干不安げだった。
準備を終え、玄関口に立つ私。緊張が走る。
せめて負担にならないようにしないと。いや、それはレインの目指すところだ。私はむしろ戦士として戦わなければならない。
ドゥルガさんを置いてアジトを後にする。彼は不安げな表情を見せた。娘のことが心配なようだ。
"dyussou, ilpasso e"
私の言葉に彼は微笑むと、"mir vano tu kad, yunk"と言った。
私がヴァルデを掲げて"alkyunk!"と言ってレインの肩を抱くと、彼は笑った。
"wei, arxe, varde ik me sord! atte a, lua ridia!"
何だか嬉しかった。
255
マンションを出て、向かいのティクノ=メル通りに行く。ここは車道だが、両端は歩道になっているので人が多い。
私たちは物陰に隠れると、ドゥルガさんの合図をひたすら待った。
ハインさんの乗った車はここを通り過ぎた後に北上してコノーテ通りを行き、拘置所へ向かうらしい。連れて行かれる前に、なんとしても彼を救い出さなくては。
ふいにカチャリという音がした。なんぞと思って音のほうに目をやると、アルシェさんが銃を持っているのに気付いた。
「きゃ!」
予想外のことに小さな悲鳴をあげてしまった。
その銃はアーディンたちの持っていたものとは異なっていた。自動式拳銃で、リボルバータイプではない。かなりごつい。これと比べるとアーディンたちのが玩具に見える。ちなみにサイレンサーは付いていないようだ。流石にそれくらいは分かる。
"lala tuube et!"
"gel, mano ti til ins tap"
"es?? ak??"
"it asra e duurga. dyussou lafat tu"
ところが私以上に驚いたのはレインだった。「はぁ...... 」と深い溜息をつくと、おでこを押さえてフラっとした。
"lala es laabe yuli ifi til gel as fien arbazard xin tuube eyo..."
子供っぽい父を持つと娘は気苦労が絶えないわねぇ ...... 。
"ti moz fonl fi al axon e diize, yunk. diin, an gel van holb t'amo pouk lana dil tu kor a yukaska"
もう一人の大きな子供は対照的に楽しそうだ。
私、きっと彼のこういうアウトローなところを心のどこかで見抜いていたんだろうな。ただ真面目なだけの男には惹かれないから。
"hai, tyu til 1 gel hot?"
"ya, man an ser tiis en yol tu"
それもそうだ。彼は銃の心得があるらしい。
彼は詳しい説明をしてきた。これはハンドガンとしては最強クラスのものだとか、どこそこの軍隊が実際に採用しているだとか、本当はスナイパーライフルが良かったが接近す256 るので仕方がないとか。また、反動が大きいので女じゃ手首をおかしくするとか...... 。
銃に興味のない私にはよく分からないけど、こういうのが好きっていうのを聞くと、やっぱり彼も男の子なんだなって思う。
そうして待つことしばし。遂に花火の音が上がった。
ヒュー、ドーンという大きな音が起こると、通りにいた人たちが一斉に空を見上げる。この花火は周りの注意を引く合図にもなっている。
花火の音は4発だった。これは4台目の車がターゲットだという合図だ。
私は目の前の道を睨みつける。
最初に来たのは護衛車だった。護送車を先導しているようだ。
"lunak..."レインが 喉を鳴らす音が聞こえる。
"axte..."心なしかアルシェさんの声が震えている。ここからの行動に自分の父親とこの国の命運がかかっている。彼のストレスは私以上だろう。
もう一台車が通る。
"flea..."私の声も震えている。
また一台。
"alis..."掠れるようなレインの声。
そして最後の一台が来た。
"yan, xier! ketta!"
アルシェさんはツバメのように飛び出した。
私とレインも後に続く。私はヴァルデをぎゅっと握り締めた。
走りながら銃を構えると、彼は狙いを定めて4台目の車を撃った。それは明らかに他の車とは違う護送車だった。
右前輪を撃たれて護送車がバランスを崩す。走りながら命中させるとは凄い腕前だ。
彼はそのまま立て続けに撃つ。
次々とタイヤはパンクしていき、護送車は急ブレーキをかけた。
"ax! veer et opnan!"
残る邪魔者は運転手だ。アルシェさんは運転席に乗り込もうと走りこむ。
私は護送車の後ろに回りこみ、金属製のバーを上に押し上げて鍵を外す。 257
"dyussou hain!"
ドアを引き開けると、中にはハインさんがいた。不精ひげを生やしやつれてはいるものの、目にはまだ力がある。
よかった、間に合った!
"dyussou! non sef luna vastria a tyu!"
大声で怒鳴った瞬間ふいに突き飛ばされ、驚いた顔のハインさんが視界から消えた。
「きゃあ!」
横転しながら叫ぶ。何かと思ったらレインだった。走って抱きついてきたのだ。
「なっ、何やってん――」
直後響き渡る銃声。
私は一瞬事態を把握できなかった。
――そうか、撃たれたのか。
ハインさんを護送していた警官が私に発砲したのだ。
一瞬痛みがあるのかないのか分からなかった。撃たれたかもしれないという認識のほうが早かった。地面を転がって少ししてから無傷であることを知る。危なかった。
"xion, beke et lami!"
ここにいては後ろの車に撃たれる。レインは私を通りに引っ張っていった。
なるほど、通りには通行人がいる。皆何事かと歩みを止めている。こちらに行けば警察は発砲できない。
レインの判断通り、警察は発砲を止めた。アルシェさんもこちらに合流する。
"xion! sefes varde a hain??"
"vant! non rekat man lain gel lena. tal dyussou aluut xa le amo! non inat, non inat la ranel kokko tutu ins! yan varde, non tiles ranel!"
"tuube et yet..."
ふいに苦い声で呟くレイン。
えっと振り向くと、辺りには明らかに警察官ではない連中が長い銃を構えて集まってきた。
これは ...... 。 258
"vilxan, en nain tet vaan!"
"vilxan!"
それは軍の兵士だった。
"beo, tuube et kepl e fenzel xa! laabe porlot ano antes!"
アルシェさんは地面を蹴りつけた。
軍隊はじりじりと銃を構えて私たちを囲む。通りにいた人間は蜘蛛の子を散らすように逃げていってしまった。
万事休す。計画はすべてフェンゼルに読まれていた。これは...... 罠だったのだ。
兵士がハインさんを車から引きずり出す。もうこの車は動けない。他の車に乗せるのだろう 。
そのとき、テーベという白い法衣を着た男が護送車の後ろにあった車から出てきた。
男はひげをはやし、金色のくせっ毛をしていた。目は青く、長身で細身だ。年齢はハインさんと同じくらいだろうか。
こいつが恐らく...... 。
"fenzel!"
アルシェさんが憎々しげに言い放った。やはりそうか。
フェンゼルはふんと鼻で笑うと、兵士をかいくぐって近寄ってきた。
"lein yutia, arxe alteems, laz knoos kok"
低く、それでいてよく通る地響きのような声だった。
"en laz, mana!"
"teolo! tuube et meil!"
思わずツッコむアルシェさん。
フェンゼルは鼻で笑う。
"an ser lax est tiil. a, tee, sa tu, an porlo tu fiina ti... xion,? tia?"
嫌味な奴!
"an en ser ti lunas i wel kad. an en na lol a ti tet tu zon hot. ketta, re sef tu al artea"
"al en artea tet tyunan lana rig tu kad??"
レインが大声で叫ぶ。フェンゼルは笑って首を振る。
"ala ti kuk to,? yunk. aa, arte" 259
ふん、誰が信用するもんか。
しかし、ここまで表立って動けばアルテナの目が行かないはずがない。フェンゼルにとってもここが勝負所なのだ。
"aaxa!"
私は大声で吠えた。誰がこんな奴にヴァルデを渡すものか。
"saia, son an taf van tu xi an sols luus set tiis"
フェンゼルは手を上げる。私は目を瞑った。
く、ここまでか。私はこんなところで死んでしまうのか。私だけではない。レインもアルシェさんも。せっかくヴァストリアを集めたというのに。ハインさんもすぐそこにいるというのに。
なんてこと...... レインを守れなかったなんて...... 何のために私は異世界からやってきたのよ。レインを守るためでしょ...... 。
そうよ、レインを守ってヴァストリアをハインさんに渡してフェンゼルを倒してもらい、アルテナさんを助けてアルバザードを救う。そのために来たんじゃないの!?
「っ冗談じゃないわっ! こんなところで死んでたまるもんですか!」
訳の分からない言葉にフェンゼルは一瞬戸惑う。
"non et xion! non lunas atu it altfia lana vano tu fia!"
"ti... ala ti kuk to?"
私はヴァルデを地面に突き刺し、怒鳴りつけた。
その刹那、フェンゼルは"ketta!"と叫んだ。
おびただしい量の銃声が響く。3人どころかその百倍も殺せそうなほどの弾雨が降り注ぐ。
5秒ほど撃ち続けて銃声が止んだとき、私たち3人は地面に立ったままだった。
私は ...... 立ったまま死んだのか...... ?
そんな考えが頭に浮かぶということは、少なくとも弾は脳を貫通しなかったらしい。
触覚を全身に張り巡らせてみるが、体のどこも痛くない。死ぬということはこんなに容易いものなのかと一瞬期待してしまったほどだ。
260
ゆっくり目を開けると、目の前には怯えた顔の兵士がいた。
フェンゼルまで驚いた顔でこちらを見ている。
分からないのはこちらのほうだ。なぜ自分たちは死ななかったのか。
私はふと手に持ったヴァルデが赤い光を発しているのに気付いた。
"xion... lena... meses yu far har l'et... non lo... vir"
"hqr??"
魔力のバリアですって!?
"es?? tuube et vilxan! ketta, tiis, gel, re gel!"
ふたたび銃声が響く。
しかし、いくら撃とうと弾雨は赤い光を通過できない。
"vilxan. artan hot yol sen varde! ti! sol ti et yul ne??"
フェンゼルは後ずさる。
「だから言ってるでしょう。異世界から来た紫苑だって!」
"to?? aca ti kur to eld! tuube et fi arten??"
"non et xion. non rens moa tu a tyu, fenzel"
"xion... i fia alt?? son sol ti et yul xion amanze??"
シオン=アマンゼ。アルティス教の開祖だ。私のことを彼女が転生した姿と誤解しているようだ。
フェンゼルは"beo!"と怒鳴ると、胸の前で印を組んだ。
奴のテーベがぶわっと舞い上がり、私と同じように赤い光が煙のように立ちこめる。
"neeme nels le vadet ulo fin til vir tinka, le til amir tiia del daiz iifa o noi dait del daiz mete. ti re fit vei vir nozet al an..."
"lein, la kur to??"
"arten... le et arten lana ar art. yan tu et arten e..."
フェンゼルの禍々しい声とともに、辺り一体の地面が慟哭を始めた。
地面が割れ、真紅の光が漏れ出る。まるで大震災のような振動だ。
なんだこれは。いったいフェンゼルはどんな魔法を唱えようというのだ。
"xion lua!"
護送車からハインさんが身を乗り出し、私に大声で語りかけてくる。 261
"re art kon varde ont elfi!"
「えぇっ!? わっ、私に魔法を撃てって言うんですかっ!?」
"re lad vanobal veil cuukiite aluut nag van tiis il!"
「そんな、無理ですよ! バリア なんか 張れっていわれても!」
"ans si mel!"
「でも私、呪文も知らないんですよ!? そもそも魔法使いでさえないんですよ!?」
もはやアルカを脳内で組み立てる余裕もなく、日本語で喚き散らした。
地面はどんどん赤みを増し、今にも張り裂けそうだ。もうハインさんにヴァストリアを渡しにいく余裕はない。
「あぁ、もうっ!」
私はダンと地面を踏みつけた。くるっと振り向き、フェンゼルを睨みつける。
――やるしかない。
私がみんなを守るしかない!
「レイン、私にしっかりつかまって!」
必死の形相でヴァルデを掲げる。
"tyu re okt arten e vanobal, xiyu??"
亜麻色の髪を舞わせながら、彼女は力強く頷いた。そして桃色の唇から言葉を紡ぎだす。私は彼女の言葉を自分の唇に這わせた。
far e eryulo,
fiol e ferden,
bal e eria.
私たちの周りを徐々に青白い光が覆っていく。
これが ...... 魔法の 壁...... 。私にも ...... 魔法が ...... 。
こないだカテージュの別荘でドゥルガさんの魔法学の本を読んだ。それによると魔法は言葉によって増幅させることができるという。仮に口が動かずアルカで唱えられない場合は心で思っても効果があるという。
262
言葉は魔法なのだ。
光の壁を見て私は感動に包まれた。
そうか、私は魔導師だったんだ。だからこの世界に呼ばれたんだ。
やっと分かった。アリアの妹さんが私を救世主って呼んだ理由。レインを助けてヴァストリアをハインさんに届けることじゃなかったんだ。私自身が魔導師として直接この国を救うってことだったんだね。
私はレインが唱える呪文を反唱する。そのたびに光の壁は大きくなっていく。まるで巨大な水鏡の中に入っているかのようだ。
ヴァルデの魔力に呼応するかのように、私の髪を結ったエルフィが青白い光を放つ。
意識をヴァルデに集中させると、私は最後の節を唱えた。
siil tel art,
--ixirius!
刹那、おびただしい量の光が放たれ、私たちの周りを囲んだ。
「すごい ...... 」
思わずため息が出た。
私が呪文を唱え終わったとき、フェンゼルはすべての魔力を開放する準備を整え、最後の一文を唱えあげた。
"son ketta, neeme e cuuk del cuukiite!"
フェンゼルの魔法で地面から真紅の光が噴き溢れ、天にまで昇っていく。
「くっ ...... 」
ものすごい風圧だ。
「負けるもんか...... 」
私は必死に踏ん張り、この星にしがみつく。
禍々しい光に誘われ、辺りの建物や兵士たちが吸い込まれて天に昇っていく。そして光263 の中で跡形もなく消えていく。
「仲間を巻き込むなんて...... それが召喚省長官のすることですか!」
怒りに震える。だがその私も浮きそうになる。
「だめだ ...... ここで堪えなきゃ」
"xion amanze, ti lunas atu lana vano xita nozet kok?? sol eri tiil til kahi alka dac!"
フェンゼルの力が強まる。
「く ...... 強い。わ、私...... もう ...... 無理」
徐々に膝が折れる。
"xion!"
そのときレインがありったけの力で叫んで、杖を持つ私の手を握った。
小さな白い手を私の手に重ねると、彼女は泣きそうな顔で私に微笑んだ。
"te vins vasn. ren amis non. mon tyu et ermes noan, tet kaat tyu et eriol noan e"
ぎゅっと力をこめると、レインは持てる力をすべてヴァルデに捧げた。杖が激しく光る。
"lein... lena alk fan tu fia. son leev!"
私とレインはふたりで杖を天高く翳した。
邪悪な真紅の光はすべてを飲み込み、天に昇った。
光は最後に収縮して真紅の月を空に描くと、霧のように消えていった。
だがその光も私とレインの水鏡を壊すことはできなかった。
真紅の月ルーキーテは虚しく空に帰っていった。
「か ...... 勝った」
あまりの疲労に私は膝から倒れこんだ。
これが『幻想話集アティーリ』で読んだ皇女ルーキーテの最後の魔法「ルーキーテ」か。すべての魔力を攻撃力に変える奥の手ともいえる魔法。恐ろしい威力だ。
静かになったティクノ通りに、フェンゼルの杖の転がる音が響いた。
ルーキーテはすべての魔力を一度に使用する魔法だ。相手を一発で滅ぼすことができなければ、それはすなわち自らの敗北を意味する。
フェンゼルもまた地面に跪いた。 264
"es... aca es... ti et... ti et to, xion amanze..."
"non et alkatis it altfia. re em alvam, fenzel. lena vastik tyu"
"gmm, ti xar nos vastik an?"
フェンゼルは懐から銃を取り出した。
「なっ!」
なんて用意周到な男だろう。
"sol an et vastan! an vast xaf il lana vano tu kaaaaadd!"
ドンと銃声がこだました。
...... しかし倒れたのはフェンゼルのほうだった。
「え ...... ?」
振り向くとそこには黒スーツの女性がいた。
彼女は銃を握っていた。
「サラさん...... 」
そうだ、彼女に後ろを守ってもらっていたんだった。
銃からは硝煙が立ち昇っていた。
心なしか手が震えているように見える。人を撃ったのは流石に初めてだったのだろう。
"...xontik me in"
"hei, sara..."
アルシェさんが辛そうに立ち上がる。彼女の心情を察したのか、手に手をぎゅっと重ねる。
"komo, ema ik solxe xelf ravel a"
少し安心したのか、初めてサラさんが微笑みを見せた。
――苦笑いだったけど。
急にふぁっと全身が脱力するのを感じた。
"aaaaggggg!"
一方、撃たれたフェンゼルは脚を押さ えて 地面に崩れる。
どうやら脚に当たったようだ。撃たれたショックで銃を転がしてしまう。慌てて取りに265 いこうとするが、脚が動かないようだ。
彼は悶えながら地面を這う。だが銃には届きそうにない。
"fenzel..."
遠巻きに語りかけてきたのはハインさんだった。護送車からゆっくりと降りてくる。ルーキーテの爆心地から離れていたため、ヴァストリアなしでも自分が作った魔法のバリアで防ぐことができたようだ。
見ると護送車の運転手は健在だ。ハインさんが守ってあげたのだろう。それに感謝してか、運転手は彼を自由にしたようだ。
"hain... xa"
息も絶え絶えなフェンゼル。脚からの出血が止まらない。
"beo... blis e yutian... dis... dilik ano antes... ans del alkatis xan e tuumi kad..."
"tu et sool t'alkatis xel artales set kadan teal?"
"dis... xanel na tuube kad et ixat a? klan sein vortand kont ans milan emi kui imelbecs"
"hqm... alfi ti anot mej lua artena lana em aster sam, sed asikati i tu kad xa"
"tal... dis rigik ano antes... hain!"
フェンゼルは憎しみに満ちた目をハインさんに向ける。だが その憎しみはむしろ彼の目の先の北区へ向けられているような気がした。
"fenzel... ans kaven ti lut lanand fia ixat onna? tal yuu lad sen fia l'il na kax al tisee, olta tu et lua artena ul dyussou mirok"
"tac...! xe lad xaf lendi fia... da!"
必死に這い上がろうとするフェンゼル。すごい執念だ。
サラさんが銃を構える。しかしハインさんがそれを制する。
"freinoa...?"
"tu de fas tiil, miva"
威厳のある声で娘を見つめるハインさん。
"...tet"
彼女はゆっくり首を上げる。
"sara... ketta"
ハインさんは静かに手を伸ばした。 266
"an xal lif ento miyu sen seta, liif"
サラさんは頷くと、銃を手渡した。
"pentant, fenzel. on fia reete, an xam van ti. tal on kos, won ti xal teria"
"...soa xa"
自分の中で何かが腑に落ちたのか、フェンゼルは肩を落とした。
"in an, fenzel. an ar van ulanse xant"
"te biiz ca artales, liif"
フェンゼルは渾身の力で上体を起こすと、額を自ら銃口に突き付けた。
"an vais van ak ti miyu tuube kad ges it ardel. nias van arbazard a ti, hain alteems...!"
"al mirok"
"hqn, ti en fokik yutia kelel beke, kok? see an xant van dert veer a laabe lex... al haizen"
フェンゼルは皮肉気な、しかしなぜか満足気な笑みを浮かべ、囁くように告げた。ハインさんは彼の言葉に一瞬戸惑ったような顔を見せたが、軽く首を振って彼を見据え直した。
"...alkarbazard"
パンと乾いた音がして、ゆっくりフェンゼルは倒れていった。
後には破壊された街が残った。
ルーキーテの威力は凄まじかった。
中心部は霧散しており、周辺部は瓦礫の山と化している。中心部とて、消えきらなかった瓦礫が天から降ってきて惨憺たる状況になっている。
周辺部の建物はナイフで縦に切られたケーキみたいに綺麗に削られていた。通行人が多かったため、死人や怪我人が多い。霧散した死体まで合わせると一体何人が命を落としたのだろうか。
私は肩を落とした。フェンゼルはただの権力に目が眩んだ悪党ではなかったようだ。
この国とて理想郷ではない。地球と同じように様々な問題を抱えている。フェンゼルは為政者に成り代わることで革命を起こそうとしていたのだ。
だが彼が為政者になったところで理想郷は訪れない。この世のパイは限られている。同じだけ配分すれば頑張った人は不満に思うし、出来高に応じて配れば今度はもらえなかっ267 た人が不公平だと騒ぐ。パイが無限にない限り、常に誰かしらが不公平を感じるものなのだ。
既得権益者がパイの配分をあまりにアンフェアにしない限りは争いを起こしたところで無駄な傷が増えていくだけだ。
ただ、私はそんな話には興味がない。私はただの異世界人。この国の事情に口を挟む権利はないし、何が正義かなんて人によってまちまちだから考える気も起きない。
フェンゼルが何を思って何を壊そうとし、ハインさんが何を思って何を守ろうとしたのかは、私の手に負える話ではない。ただ国家転覆を試みようというのだから、確かに単なる私利私欲よりは正義感のぶつかり合いだったというほうが理解はできる。
ひとつ言えることがある。フェンゼルは召喚省長官という勝ち組の立場にいたのに、あえて負け組の牙になろうとした。これは事実だ。
彼が単なる悪党だったと誰が諸手を上げて言えるだろうか。だがこの国の歴史は彼を単なる悪党とみなすだろう。それを思うと少しやるせなくもある。
やがて救急車や警察の応援が来る。
"wei! tiis! ilpasso??"
ドゥルガさんが群集を掻き分けてやってくる。アルシェさんは彼に状況を説明しだした。
私は怪我人の様子を見ていた。魔法で治せないのかと聞いたら、魔法ではヴィード傷という特殊なダメージしか治せないそうだ。
とはいえ今回の騒動はフェンゼルの放ったルーキーテによるものなので、ビルの倒壊などでダメ ージを負った人以外は魔法でどうにかなるかもしれないとのこと。
しかし肝心の魔導師がここにいないのだ。魔法にも色々あり、回復魔法は白魔法の範疇だという。残念ながらドゥルガさんには使えないらしい。
そのときレインのアンセが光った。アリアだった。レインは電話に出てしきりにアリアに現状を伝えようとしたが、なぜか途中から黙り、"ya, lena vat fan tyu"と言って電話を切った。
「アリア、何だって?」
問いかけると、レインは複雑な表情で言った。
"qm... la pornates tu veim sa liset fien dil vil tuube tilfel. alfi... la serates il e" 268
"...xan?"
"la oktat fuul enat a nain lana dil tu veim. tet res e fenzel setat tu evrens. see la lunar atu ter"
"lana...?"
"lana kea vatin kokko art ter"
"...tinka"
私は呆けたように言った。そして少しだけほっとした。やけにタイミングが良いと思ったが、レインの説明を聞いたら納得だ。
流石アリア。否、流石アルナ大八組の異能科。占いのみならず白魔法まで使えたとはね。
"fok la rensat nan kea fan tyu tan e"
"hqr? non?"
私を治療する? なんのこと?
首を傾げ、辺りを見回す。
それにしてもたった一発の魔法でこの惨事か。私は改めて恐怖した。
いや、魔法でなくとも同じことだ。地球でも日本のような平和ボケした国の外ではこれと同じことが毎日のように行われている。魔法が爆弾になっただけだ。
...... 大変な被害を出してしまったわね。
だが少なくともアルバザードは救われた。犠牲者は出たが、こうしなければアルテナを狙うフェンゼルがもっと大きな抗争を繰り広げていたことだろう。
数の問題に置き換えればこれが最小の被害だったのだ。被害ゼロなんてありえない。誰かしらが被害者になる。それなら犠牲は少ないほうが良いに決まっている。
これより大きな地獄をアルバザードにもたらさなかっただけでも良かったのだ。私はそう心の中で言い続けた。
レインもショックが大きかったようで、ぺたんと座りこんで泣き出してしまった。背中を撫でてやる。そんな私の背中をアルシェさんが撫でてくれる。
ハインさんは呆然と立ち尽くしていた。闇献金の容疑者から一躍反逆者フェンゼルを討伐した英雄に早変わりだ。
だが彼は英雄になんてなりたくもないという顔で空を見つめていた。でも、そんな彼だ269 からこそ英雄にふさわしいと私は思った。この地獄を出世とみなすような人間には誰もこの国を託したくないだろう。
"lein"と呼びかけたとき、目の前がくらっとした。
「あれ?」と思ったが早いか、私は地面に突っ伏しそうになった。
意識が飛ぶ寸前、咄嗟に抱きかかえてくれる逞しい腕を感じた。
270 3 7
意識が戻ったとき、私はレインの家にいた。借りているいつもの部屋だ。
目の前にレインの顔があった。
"xion? tyu ik net?"
"lein... non..."
レインがアルシェさんを呼ぶと、彼は慌てて駆け寄ってくる。2人とも何か話しかけてくる。
あぁ、そうだ。私はアトラスに来て、アルカを勉強して...... 。確か、雨が降って...... ヴァルデが光って...... 私が魔導師で...... フェンゼルを倒して...... 。あれ、その後、どうなった?
恐る恐る起き上がる。体に異状はない。どこにも障害を負っていない。ベッドサイドにはエルフィが置いてある。これはレプリカのほうだろう。私は髪をしゅるっと結った。
レインが事情を説明してくる。
フェンゼルを倒した後、私は倒れたそうだ。徐々に思い出してきた。
原因は魔力の使いすぎだそうだ。なんだそりゃと思ったが、そういうことらしい。魔力の使いすぎで精神が疲労して、意識を失ったのだそうだ。
"lein, fis et ne?"
"mel e"
ギルの日にフェンゼルを倒し、フルミネアとリュウの2日間昏睡し、今日メルの日に起きたというわけか。外を見るともう真っ暗だ。時計は7時のヴァルファントを指している。
気が付くと私は点滴を受けていた。医者に往診に来てもらったようだ。
あぁ、栄養点滴か。病気で寝込んだとき、何度か日本でも打ったことがあるわね。
体は意外に軽く感じる。ただ、動けばすぐに具合が悪くなるのは目に見えている。
"xion? tyu ik net?"
入り口からアリアがひょこっと顔を覗かせる。
"tyu lunas atu xan"
"alia keat tyu kokko firart tisse, xion" 271
どうやら物理的な疲労は往診医が、魔法的な疲労は彼女が癒してくれたようだ。
「あぁ、ありがとねぇ。やっぱ持つべきものは魔導師の友人だよ」
"aa, passo passooo, noel nat ban kokko xian fol xian es mok xiima K"
「ちょっと待て、私の身体に何をした!?」
まだ穢れていないことを切に願うばかりである。ある・あるて。
さて、私が寝ている間に世の中は随分動いたそうだ。
ヴァストリアは無事ふたつとも神々に返納したそうだ。私たちは神にひとつ大きな貸しを作ったことになる。不思議な気分だ。
フェンゼルを倒したハインさんは彼の計略を暴き、アルテナさんを救った英雄として次のアルタレスに決まるそうだ。
アルシェさんは今後召喚省に入り、タレスになるという。大出世だ。
レインはハインさんに誘われ召喚省への内定を早くももらったそうだが、後期大学に行った後、大学院に行きたいと言ったそうだ。何でもディアクレールという国定辞書の編集者になりたいのだとか。彼女なら言葉に携わる仕事はピッタリだと思う。
ハインさんとドゥルガさんは私のことは口外せず、アルシェさんとサラさんとレインも現場にいなかったことにしたらしい。それでいい。歴史の創造は彼らに任せる。
ハインさんにかけられていた容疑は冤罪と分かったし、万事解決だ。
そう、万事解決...... 。
...... 私の役目はこれで終わり。
押し黙る私を見てレインたちは察したらしい。俯いて元気のない顔をした。
「へへ ...... 私、魔導師だったみたいだね。異世界で魔法を使いたいって夢、叶っちゃったよ」
ひとりごつ。伝わらないでいい。伝わると、つらい。
「もうひとつ魔法を使ってみようかな。今度は召喚魔法」
私は虚空を見つめると、彼が分かる言葉で話しかけた。
"mir sins main enat, deem meltia"
呪文のような私の言葉を聞き届けてくれたのか、突如部屋の中に白い光が起こった。
眩しくて目を閉じる。確かここに来たときも眩い光に包まれたんだった。 272
目を開けるとそこには美しい金髪の青年が立っていた。
私をアトラスに連れてきた張本人、悪魔メルティアだ。
レインたちはある程度分かっていたのか、驚いた様子を見せない。むしろ意気消沈といった感じだ。
"anfiima, dyussou"
"an sent ti man ti xalat kokka e tu fia haas vox ant, alkatis e yumana"
「では私はもうお役御免ですね」
答える代わりにメルティアは私の頭に手をかざした。
彼の手の平が微かな光を放つ。
「...... 待って。vat」
彼は腕を小さく引っ込める。
私はくるっと振り返って微笑んだ。
「ねぇレイン。おなかすいたよ。先にごはん食べよ」
私の看病をしていて満足に買い物もできなかったのか、冷蔵庫にはささやかな食材しか入っていなかった。
レインが最後の晩餐を作ってくれている横で、私は冷蔵庫を開けたり閉めたりしていた。
「ふふ ...... 。冷蔵庫はでぃーとてむく、レタスはしゃくん、ハムはとっくる」
なんだかとても懐かしい。密度の濃い時間を過ごしてきたから、もう1年はここにいるような錯覚を覚える。
「アリアはせまいむ、レインはゆーゆ、アルシェはしーあ。ふふふ」
冷蔵庫の扉を何度もパタパタ。ゆっくりパタパタ。静かにパタパタ。
最後の食事は最初の夜に食べたような簡素なものだった。
でも、食べ慣れたレインの料理はとても優しい味だった。
ドゥルガさんは休日だというのに仕事で出かけていた。サラさんも今日は来ていない。残念だけど、お別れの挨拶はできなそうだ。
レインは泣くまいと一生懸命努力しているのか、食事の間ずっと「えぅっ、えぅっ」と止まない嗚咽を漏らしていた。余計に苦しいのではないかと心配になる。 273
できればここでいつまでもレインたちと一緒に過ごしたいけど、私はあくまで地球人だ。帰らなかったら私にとってここはもはや異世界でなくなってしまう。そうすると異世界旅行にならないではないか。そんな幼稚な論理で自分をごまかしていた。
アルシェさんは珍しく暗い顔をしていた。何も言わないけどが眼が赤い。
我慢してるんだ...... 。かわいい。ううん、ちがう。これはむしろ「いとしい」。
素直にそう思った。
食事が終わると、レインが少しでも時間を引き伸ばそうと紅茶を淹れてくれる。
だけど私は一口飲んでお礼を言い、立ち上がった。なんだか湿っぽい空気を続けるのも悪い気がして。
私は二階でなく倉庫に降りていった。最初に来た壁のところに立つ。
呼ぶまでもなくメルティアはすっと現れた。
"xion... ti leev xanel e?"
"arxe..."
彼は少しふてくされたような顔になる。
"son ti leyu van an kok"
それを聞いたレインとアリアが「え?」という顔をする。
私はくすりと笑った。
"alfi tyu yutat non im le siina?"
"olta soa, ti leev van kok?"
ゆっくり私が頷くと、彼は"naskik"と短く言った。
"tet, non leyu elf tyu e. olta lena xalm fia enk, yumi es ark al axel eu"
目を瞑ると、私は小さく顎を持ち上げた。
レインが驚いて息を飲む音が聞こえる。お子さまレインは本当に今まで何も気付いていなかったようだ。この様子だとアルシェさんに想いを寄せているという可能性はなさそうだ。友情を崩すようなことにならなくてよかった。
"xion..."
近付いてくるのが分かる。
ところが彼の唇は私の唇を通り越し、なぜか耳元で歩みを止めた。 274
私は困惑した顔になって目を開ける。
「どうして...... 」
「知ってるか? アルバザードの男は奥手なんだよ」
彼の唇が私の頬に軽く触れる。
「だから今はこれだけ」
くすっと笑う悪い男。
緊張の糸が切れた私の頬が一気に桜色に染まる。やはり母語のほうがずっと心に響く。
「こ ...... こ」
こ、この言語学者め!
"kaam tis at tuval xalt tyu e?"
"ans es ark kok? son ans akt sen ravel im xe"
どこまでもポジティブな人。
「それを信じて待つんですか...... ?」
信じると言ってほしくもあるし、怖くもある。
"ol ti en luna sil an, son an jis van sia soven fia antes"
「...... はい」
私は微笑んだ。
ようやく私、素直に笑えたんだ。
「レイン、アリア...... 。ありがとね」
最後に4人で抱き合った。
レインは泣きすぎて顔がくしゃくしゃになっている。折角の美少女が台無しだ。
対してアリアは先程からずっと平然とした顔をしている。涙のひとつも見せない。思ったよりドライな子だ。
"xion, passo?"
メルティアが問う。
「待たせてごめんなさい。...... うん、お願い、メルティア。ax, ilpasso e」
ぎゅっと目をつぶる。
さようなら、みんな。 275
彼は私の頭に手をかざし、何かを呟いた。
すると白い光が私の体を包みこみ、私はすぐに意識を失った。
目が覚めるとそこは私の部屋だった。
私は北城高校の制服を着て、ベッドに横たわっていた。
むくっとベッドから起き上がる。
「戻ってきたんだ...... 」
デジタル時計を見る。
11月30日。
「――え!?」
余韻が一気に吹っ飛んでしまった。
どういうことだ。
私の誕生日。私がアトラスに旅立った日ではないか。
「まさか ...... 夢オチなんてことない...... でしょうね」
サッと青ざめる。
これまでの体験がすべて夢だったなんて...... レインのこともアルシェさんのこともすべて夢だったなんて...... そんなのは...... そんなのは地獄だ。
ベッドから勢いよく降りる。
その瞬間、バサっという音がした。
――紫苑の書だ。
私は慌ててページを開いた。
するとそこにはこれまでのすべてがきちんと記されていた。
「よかった...... 夢じゃなかったのね」
胸を撫で下ろした。 276
どうやらメルティアが気を利かせて元の時間に戻してくれたようだ。
これで学校も退学にならずに済むし、親にも怒られずに済む。
メルティアの粋な計らいに感謝だ。
すると突然、ジリリという音が鳴った。
「きゃ、何!?」
びっくりした。
目をやると、それはケータイの黒電話の着信音だった。
「そういえばアトラスに持っていかなかったんだよね」
操作に一瞬戸惑う。母親からのメールだった。
「ごめん、今日は紫苑の誕生日だったね。できるだけ早く帰るからお祝いしようね」
それを読んだ私は無言で口の端を上げた。
「なんだ ...... 覚えててくれたんだ」
立ち上がろうとしたとき、カサっという音がして何かが紫苑の書から滑り落ちた。
それはメルティアのものと思われるメモだった。綺麗な筆記体で書いてある。
一語一語訳していく。翻訳しながら私の胸はどんどん高鳴っていった。
「今度私を呼ぶときは下記の呪文を使うように。
私も一応召喚魔法で呼び出される悪魔の一人なのでな。
それにあの青年に世界を隔てる壁を崩されたらかなわん。
年に一度、年始 の日にアトラスに連れていく程度の便宜は図ろう。
異世界の救世主へ」
そして最後に呪文が書かれてあった。
「メルティア...... あなた、最高の悪魔よ」
私は嬉しいやら驚いたやらでぼろぼろ泣き出してしまった。
皆の前で号泣できないところが私にふさわしく可愛げない。
ひとしきり泣いた後、ふとあることに気付いた。 277
「そうか、それでアリアのやつ、ちっとも悲しんでなかったのね」
そう思った途端、ぷるぷると体が小刻みに震えた。
あの占い師めぇっ! 絶対心の中で愉しんでたに違いない!
とかいいつつ、私は可笑しくなって笑ってしまった。
大笑いしたら胸がスっとした。
椅子を引き出すと、机に紫苑の書を広げる。
私は戦友ともいえるシャーペンを手に取ると、文字を踊らせた。
「十代の少年少女が異世界に召喚されて救世主となる。
よくあるファンタジー小説の展開だ。
不思議 なことに ...... 」
書き終わると机の引き出しに紫苑の書を仕舞った。
とてもとても大事そうに。
"doova, lein... arxe... alia... a melsel...!"
エルフィのレプリカを頭から外し、机の上に置いた。
手を離すと、髪は指を通って砂のように流れ、黒い滝を作った。
――終
紫苑の書 2011年10月24日 初版第1刷発行 著 者 seren arbazard 発行者 谷村勇輔 発行所 ブイツーソリューション 〒466-0848 名古屋市昭和区長戸町4-40 電話 052-799-7391 Fax 052-799-7984 印刷所 富士リプロ株式会社 ISBN 978-4-902218-70-1 ©seren arbazard 2011 Printed in Japan 万一、落丁乱丁のある場合は送料当社負担でお取替えいたします。ブイツーソリューション宛にお送りください。